安部 令司②
文字通り決死の覚悟で外に出たわけだが、俺を待ち構えるものはいなかった。
俺の家がある住宅街は普段から静かだが、日中であれば通行人の一人や二人見かけるし、自動車の往来だってそれなりにある。
しかし、今は人間も、動物もいない。
先程はそこら中にいた黒い獣さえもいないのは喜んでいいことなのか?
目の前にあるのは繰り返し見続けてきた町並み……のハズだが、風の音と草木のさざめきだけが静寂を破り、家々は墓石の様に立ち並んでいた。
「なんて、こった」
黒い謎の獣が人を襲う時点で完全に異常事態だが、俺が住む町が変わり果てているという事実に圧倒される。
――呆けている場合か。この望遠鏡で周囲の状況を把握するんだ。
上手くすれば、藍だって見つけられるかもしれないし。
そのためにも高いところに移動しなくては。
先ほど青年が叩きつけられた壁から鉄の様でいて生臭い臭いが立ち昇るのを背に歩き出した。
物陰に身を隠し、進むときは低い姿勢で這うように。
曲がり角では耳を澄ませてから、恐る恐る覗き込み黒い獣がいないことを確認してひっそりと進む。
いつまた黒い獣に出くわすかわからない以上、安全を確保するには慎重にふるまうしかない。しかし、
「道のりが、長い……」
異様に。
なんとも思わず通り過ぎていたのに。
この住宅地で一番高い建物――小学校への道のりは果てしなく長そうだ。
「待てよ、小学校か」
小学校に向かうなら通学路、か。
左右に高い街路樹と花壇があり、花壇には腰より少し高いツツジの植え込みが並ぶ、砂利敷きの遊歩道――小学校時代の通学路を進む。
この道は車や原付が入ってこれないように車止めがあり、安全なので小学生の通学路になっている。いや、車止めが後付けだったか?
その車止めをすり抜けて通行する不届きな自転車にスピードを出させないためなのか左右の花壇がところどころせり出しているので、意外と死角がある。
それでいて完全には視界が遮られていないので周囲の様子を伺いやすい。
この通学路の形状がこんなにありがたく感じる日が来るなんて。
視界の彼方で動くものが見えたので、植え込みの陰に隠れて先の様子を伺う。
怪物だ。黒以外の色のやつもいる。
(小学校の校門前にいるな……)
大きくねじくれた校門が道路の真ん中に投げ出され、その周辺に1頭の大きな獣と2頭の小さな獣がいる。
三匹の獣はそれぞれ異なる外見をしている。
一番大きな獣は山羊のような角のある頭と足をしていて、漫画やゲームで見たことがある山羊頭の悪魔、バフォメットの様な黒い獣だ。
二番目に大きな獣の1頭は虎を禍々しく歪めた様な黄土色の獣。全体的な印象としてはシーサーが近いが、もっと恐ろしい姿だ。
もう一頭は手と頭――顔のパーツの中では特に目と口の周辺――が異常に膨れ上がり、その他の部分は非常に細い不気味な姿をした灰白色の獣。ペンフィールドのホムンクルス、だっただろうか。なにかの図鑑か、Webページであんな感じのものを見たことがある気がする。
比較的安全に登れる高所である小学校の屋上には向かいたいが、あんな怪物達と正面切って戦うことなんて無理だから、これ以上近づくこともできない。
もどかしい。
俺にスーパーマンの様な力があれば――なんて考えていてもしょうがないんだが。
小学校を避け、一本向こうの曲がり角まで進む。
曲がり角からのぞき込むと、
(人が倒れてる!)
曲がり角にさっと再び身を隠し、覗き込む。
死体だろうか?
血まみれではない、少なくともここからだと血は見えない。
全くの無防備に仰向けに倒れているだけに見える。このまま放っておけば怪物に襲われてしまうかもしれない。
周囲を伺いながらソロリソロリと近づくと、苦しそうな顔をしている、20代半ばくらいのスウェット姿の男の人だった。
俺は学校でやった救命救急講習を思い出して、男の人の肩を叩いて、
「大丈夫ですか?大丈夫ですか?」
と声を掛ける。すると、男の人の目が勢いよく開いて、紅い虹彩が顕になる。
この赤は――!
俺は弾かれた様に飛び退き、更にジリジリと後ずさる。
男の人の上半身だけがすぅっと起き上がり顔がグルリと勢いよくこちらを向く。生物的でないそのオトコの不気味さに圧倒されていると、その口から声が漏れた。
「うふへへ」
意味がわからない。笑ったのだろうか?この状況で?なぜ?
「へヒひ」
ヒトの様なモノは腕をついて立ち上がり始めた。立ち上がりながら、変化が始まった。
まず、スウェットの袖を破りながら右腕が勢いよく膨らむ風船のように暗褐色の丸太のような腕に変わり、次の瞬間には左腕も爆発的に膨らみ同じ様になった。立ち上がり終わるその直前に胴体が巨大化し、ザワザワと急激に体毛が生え揃った。そして暗い体色の中で唯一鮮やかな赤色を双眸に宿し、残酷な程に人間のままの顔がこちらを向き、
「グげア」
怪物の声を聴くと同時に俺は脇目も振らず逃げ出す。
人間のままの両足とゴリラの様に膨張した両腕が立てる4つ足の足音が追いかけてくる。
遊歩道の途中にあるに車止めの柵を乗り越えながら走るとすぐ後ろで柵がひしゃげるような音が聞こえた。
が、すぐに怪物の足音を引き離していくのがわかった。
火事場の馬鹿力というのだろうか?いつもより断然速く走れている気がする。
みるみるうちに距離を稼ぐ。
アンバランスな体つきの怪物の動きが鈍いのもあるのかもしれない。
これなら逃げ切れる――
ふいに後ろからメキメキと木の軋むような音が聞こえた。
嫌な予感がする。
咄嗟に顔を守りながら、目の前の砂利敷きの地面にうつ伏せに飛び込む。
砂利をまき散らしながら地面を滑る俺の上をざあざあと枝葉が擦れ合う音が通り過ぎ、刹那の後に前方からバリバリと何本もの枝が折れる音とともに、重量物が叩きつけられる轟音が響く。
視線を上げると根本から引き抜かれた大きな街路樹が広くない遊歩道を枝葉で塞いでいた。
枝をかき分けて進むには枝が密集し過ぎている。
枝を折りながら進めば通り抜けられそうだが、その間に追いつかれて俺は殺されるだろう。
振り返ると怪物は不格好なシルエットを揺らして猛然と接近していた。巨大な上半身の筋肉が力強く躍動し、その只中で青年の顔がニタニタと笑みを浮かべ、涎を撒き散らしながら揺れる。上半身に対して病的に小さく見える下半身も見た目ほど弱くはないのか、上半身を支える程度の役割は果たしているようだ。
小太りの青年の最期がフラッシュバックする。
死を覚悟したときに世界がスローモーションで見えるって本当だったんだな。
なら、こんな地獄のような、悪夢のような光景じゃなくて、もっと別のモノが見たかった。
何が見たいかは思いつかないけど。
更に距離を詰める怪物が視界を埋めていく中で、怪物の向こうを黒い何かが横切った気がした。
やっぱり家を出るべきじゃなかった――父さん、母さん、藍――
「諦めるな!」
声が響き、同時に怪物の顔に苦痛が浮かぶ。
怪物が背後を振り向くと、もう一度乾いた音が聞こえ、怪物が更に呻いた。
振り返った怪物の背中には鞭で打たれたような傷が付いているのが見えた。
曲がり角には黒い短髪、そして詰襟の学生服を着た俺と同じ年頃の少年の姿。
その手には一本の黒い鞭のようなものが握られていた。
その黒い鞭が空中を走り、怪物をメッタ打ちにした。怪物の肉が爆ぜ、血飛沫が舞う。
怪物が激高して少年に向かっていく。
少年は直前までその場を動かず、まさに殴りかかられる瞬間に怪物の眼前から忽然と姿を消した。
怪物が勢いよく突進するといつの間にか道路を横切るように張られていた黒い鞭、いや、縄に引っ掛かって転倒した。
転倒した先で
「やった、のか?」
黒髪の少年はかぶりを振り、
「まだだ。逃げるぞ」
その瞬間、少年の手のひらから猛スピードで黒い縄が現れたかと思うと、蛇のように空中をうねりながら街路樹の幹にしっかりと巻き付いた。
口をあんぐりと開けていると、
「登れ。早く」
「あ、ああ」
黒髪に急かされたので縄を手繰って街路樹を登り、促されるままに民家の塀を乗り越えて庭に降りた。
「行くぞ」
「お、おう」
黒髪が走り出し、その後を俺がついていく。
「どこに向かうんだ?」
「……アジト」
「アジトって、なんだ?」
黒髪の少年は答えず、どんどん走っていく。
(アジト?本当か?怪しいか?いや、少なくとも助けてくれたんだし、すぐに危害を加えるつもりはない……よな?)
「あとで説明する」
「へ?」
「大丈夫」
俺が走りながら悩んでいるのが伝わったのだろうか。
(……信じてみるか)
駅からは遠ざかる方向に走っていった。
バレンタインクライシス 域守ハサミ @yikimorihasami
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