バレンタインクライシス
域守ハサミ
安部 令司①
忌々しいほどに澄み渡る夜の空気を深く吸い、吐き出す。
目の前を流れていく空気が白い。
雲一つない空にオリオン座の砂時計がギラリと輝く。
寒々しい街灯の明かりが照らす道を行く。
塾で受けた模試の結果を思い出すともう一度白い吐息が目の前を横切った。
またか、と思うのは一体何回目だろう。
そうこうするうちに「
我が家の玄関前だ。
これからの展開を思うと少し憂鬱になる。
いや、さっさと自分の部屋に行ってしまえばいい。妹に出くわす前に。
それは問題の先送りに過ぎないが、少し落ち着いてからイベントに臨めるというものだ。
扉を、開ける。
「ただいま……」
「あ、
「
ちょうど、二階に上がるためにリビングから玄関に出てきたところのようだった。
藍の顔がにやける。
「おやおや?そのしょぼくれた顔は……さては?」
「……」
先送りにしたかったイベントがバッチリ始まってしまった。
「また、ですか?」
「ああ、そうだよ」
「「また平均点ピッタリ」」
妹とハモってしまった。
「お決まりですなぁ」
「そういうお前は」
「全国14位」
「くっ!」
「私こそすべての中3の上に立つ存在よ」
「まだ13人上にいるだろ」
「誤差よ。誤差」
妹のドヤ顔が鬱陶しい。
「健にぃっていつも平均的だねぇ」
「うるへー」
「高校2年生の3学期で偏差値50で大丈夫?ねぇ大丈夫?」
「ぐふっ」
「兄より優れる妹を誇りなさい」
「普段、兄なんて思ってないだろ……」
「ちゃんと令司にぃって呼んでるじゃん?」
「その発音の中から兄っぽさを感じたことはないぞ!」
自分の部屋に向かうため、階段を上り始める。
「あ、もう少しでご飯だから寝ないでねー」
「りょーかい」
部屋のドアを閉めて一息つく。
クローゼットから部屋着を取り出す。
着替え終わってベッドに腰掛けると、やっと気が緩んだ気がした。
ふぅーと長く息を吐く。
「平均点、か」
俺だって取りたくて取ってるわけじゃないんだよなぁ。
ふぁ、あーあ。あくびを一つ。
目を瞑って、そのまま後ろに倒れて、ベッドの感触を背中に感じて、
目を開けると点けたはずの部屋の電気は消えていた。
「あれ、俺……?」
文字盤にライトが点いた時計を見ると深夜2時前。
寝てしまったらしい。
家族の誰かが――多分、藍が――部屋の電気を消してくれたのだろう。
晩メシ、食べそこなっちゃったなぁ。母さんには悪いことをした。
頭を掻きながらカーテンを開ける。
夜の闇と静寂に包まれた住宅街。
いつもの景色が深夜になると別物に思える。
そして、満天の星空。星明りの一つ一つが街灯の様に明るく――
「え?!いやいやおかしいだろ」
山奥でもないベッドタウンで、文字通り空を埋め尽くす星々。
そもそも山奥に行ったって相当条件が揃わないとこんな風には見えない。
その明かりは、イルミネーションのように全天から降り注ぐ。
夜が、こんなに――明るいなんて。
「一体、何……」
それは突然訪れた。
全身がバラバラになった。そんな痛み。
「がはっ」
激痛で全身から力が抜ける。
窓際の壁に向かって倒れ、ずるずると床に崩れ落ちた。
「え、なに……がっ……」
視野がおかしい。
目がおかしくなったのかと思って片目を塞ぐと、もう片目は普通に見える。
左右の目の向きがズレているんだ。
自分の心臓が耳元で鳴り響くのに、呼吸は遠く微かだ。
耳が、よく聞こえないらしい。
死にたくない。
死にたくない。
なんでこんなことに。
まだ生きていたい。
そんなことを途切れがちな意識の中で考えていると、とても遠くから声が――叫ぶような声が――聞こえた気がして、目を開いた。
カーテンの隙間
差し込む光に目を細めて、ややあって起き上がった。
俺、生きてるんだ。
床の上で伸びを一つ。
フローリングの上で寝たのに体の痛みはなく、それどころかとても体調がいい。
「朝8時、か」
なんだか不思議と頭が冴えていて、倒れる前とは何かが違うようにさえ思えた。
ふと、強い違和感を覚えた。
「誰も、居ないのか?」ポツリと呟く。
違和感の源は不気味な程の静寂だった。
家の中からも、外からも物音が聞こえない。
世界が息を潜めているみたいに。
2階の自室を後にし、家族の寝室を覗いたが、もぬけの殻だった。
階段を一段、また一段と降りるごとに違和感は心を塗りつぶし、足元から感じる寒さが強くなっていった。
1階につくと屋内とは思えない程の寒さを感じた。リビングの扉を開くと同時に冬の風がそばを通り過ぎた。
「これは……!」
リビングの窓が、大きく割られている。
家具は押しのけられた様になっていた。
もしかして、これは強盗……?
慎重に辺りを伺いながら見回ったが、人の気配はない。
家族も、倒れていない。
すっ、と視界の端で大きな何かが動いた気がした。
反射的に家具の陰に身を潜める。
パリパリと庭に飛び散ったガラスを割る音が聞こえる。
様子を伺うと、黒い小山のような物が動くのが見えた。
(なん、だよ。アレ)
全体としてはゴリラのようだが人間のように二足歩行していて、より筋肉質で醜悪で見上げるように大きい。
体毛の長さや生え方はテレビや動物園で見るゴリラの様で、顔と首の前側、胸から腹にかけての部分から濃い褐色の皮膚が覗いている以外は全身が光を吸い込むような黒さの体毛に覆われている。腕も足も丸太のような太さだった。
その口元から胸元にかけての皮膚は赤黒い液体にまみれていた。
一瞬垣間見えた眼光は鋭く、虹彩は暗い色の体の中で唯一鮮やかな赤色だった。
角が生えていれば昔話に登場するような鬼が現れたのだと思い込みかねない迫力だった。
その獣が今まさに俺の家の前で足を止め、何かを探している。
俺だろうか?いや、それでなくとも見つかるかもしれない。
黒い獣が立ち去る気配は、ない。
庭と逆側の台所の裏口からなら逃げ出せないか?
獣が他所を向いている隙に物陰から物陰へ。
物音を立てないように裏口に向かったが、
(2頭、いる……)
キッチンの窓から見える隣家の庭には先ほどと似ているが違う種類の獣の背中が見え、裏手にある家の向こうの道路に更に1頭いるのが見えた。獣はこの付近にかなりの数が集まっているようだ。
心が落ち着けばいいと細く、長く、深呼吸した。
一階はまずい。
窓が割れているから、いつ怪物が入ってきてもおかしくない。
息を潜め、慎重に足を運んで自室に戻り、机の上に置いてあった双眼鏡を震える手で構え、窓から外の様子を伺った。
獣は家の周りだけでなく至る所にいるようだった。
見える範囲だけでも10頭が確認できた。
獣は庭からはいなくなったようだったが、そこら中にいる。
周囲の家の窓には人影はなく、既に逃げ出したか、もう――。
そのまま息を殺して様子を伺っていると、獣が別の家のドアをまるでノックするように何度も叩いてぶち破り、家屋に侵入するのが見えた。
(……!)
ややあって、潜んでいた人が一人飛び出してきた。
小太りの青年。
一瞬見えた横顔は恐怖に歪んでいた。
それを追う黒い獣。
獣動きは人間より少し鈍く見えるが、体格が大きく一つ一つの挙動が大きいため互角のスピード。
決死の逃走。
しかし、わずかに獣が速いか。
ついに黒い獣が追いつき、巨腕が振るわれ、人間がブロック塀に叩きつけられた。
水風船が叩きつけられたように鮮血が塀を汚す。
ぐったりした人間に獣が近づいて――
眼の前で人間が殺された事実が胃液を逆流させ、目の前の床を汚していた。
荒い息のまま窓から遠ざかり、壁に背中がつくと同時にへたり込んでしまう。
吐しゃ物のツンとする匂いがする。
視界の隅を横切った時から、危険な生物だと直感していた。
でも。
だからといって、あんな――
ミシリッ
「――!」
室内、だ。
1階のリビングの方から聞こえた気がした。
獣と人間の様子を伺っている間に、別の怪物が一頭、割れていた窓側に回り込んで侵入してきたのか。
それともいなくなったと思っていた庭の獣か。
耳の中で跳ね回る心臓の音。
絶叫が声にならなかったのはただの幸運としか思えなかった。
あんな恐ろしい生物に襲われて死ぬなら、このまま心臓が飛び出して死んでしまえたらと思う。
今にも階段を上ってくるかもしれない。
ただ、息を押し殺して、体を丸めて、震えた。
しかし、足音はいつまでもリビングをウロウロするばかりで2階に上がってくる気配はなかった。
(そうか。あの巨体だ。自発的に狭い廊下に出たり、階段を登ろうとはしないんだ。)
まだ、自分を認識しているわけではないとわかり、少し冷静になって口のはじを
深呼吸し、落ち着かない中で状況を整理しようと試みた。
(高熱を出して、起きたら、怪物がいた。デカくて恐ろしいし人を――。家族はいないくて人影もない。みんなで逃げた、と思いたい。寝ていた俺を連れ出す余裕はなかったのかもしれない。一階には怪物。二階に来てなきゃ食われていた。でも、気づかれたら終わりだ。)
階下の気配が庭に出て行き、またガラスを踏み砕く音が聞こえた。
家の中の空気の威圧感というか、圧迫感がふっと緩むのを感じた。
少しの間、家の中を覗いただけだったのかもしれない。
双眼鏡を構えなおし、周囲を見渡す。
襲われた男の痕跡はブロック塀の血の染みだけだった。
男を襲った化け物は満足して去ったのだろうか。
双眼鏡で観察を続けているとあることに気づく。
怪物の数が、だんだんと減っている。
(怪物は一階に立ち寄ったやつも含めて、寄り道をしながらもどこかに向かっている……?それはどこだ?)
怪物が向かっていくのは、
(駅、の方向?)
そのまま、二階の色々な窓から様子を伺ったが、うろつきながらも向かう先は駅の方向が多かった。
双眼鏡を降ろしながら考える。
(逃げ出すなら今がチャンスなのかもしれない。けど、外に逃げたとして、どうする?どこにいく?)
ちらりと両親の部屋に目をやると布団が跳ね飛ばされた様になっているのが見えた。
俺は自室に戻り椅子に腰掛けた。
部屋のテレビは電源が入らなかった。
停電しているのか。
乾電池で動くラジオも雑音が聞こえるだけ――いや、AM放送では周波数によっては微かに人の声らしきものが聞こえたが聞き取れなかった。
スマートフォンを取り出して通信しようとするが圏外。
通信設備があの獣に壊されたのか。
情報を得る手段がないことがもどかしい。
椅子から立ち上がり、部屋の中を歩き回る。
せめて、家族の無事――父さん、母さんと藍の無事を確かめたい。
家にいるだけでは何もわからないが外に出れば怪物が……。
ぐうぅ……。
こんな時でも腹は空く。
昨日の昼から何も食べていないから当然といえば当然か。
その昼食だって模試の合間におにぎりを3つ食べたくらいだ。
細心の注意を払って一階のキッチンに向かう。
窓から覗く限りでは家の周囲には人も黒い獣もいないようだ。
冷蔵庫を開けてもいつものように明かりがつかない。
停電しているから庫内灯すらつかないのだ。
薄暗い冷蔵庫から冷気の残りかすのような冷たい空気と一緒に寂しさが漂う。
食べ損ねた晩御飯を冷蔵庫から出して食べる。
冷たい。
窓が割れていて真冬の寒気が容赦なく入ってくるから料理の冷たさがさらに堪えそうだ。
温かい状態で食べたかったが停電で電子レンジは使えないし、何より温めれば匂いが漂うから調理器具に移してガスコンロで温めるのも
ガスコンロが使えるかも確かめていないが、ガス臭くないからガス漏れはしていないのだろう。
せめて、窓の割れていない部屋で食べようと二階の自分の部屋に向かう。
自分の部屋の机で一人食事に向かう。
冷たい。
冷たいが――冷え切っていようとお袋の味は、わかる。
沁みる。
「母さん……!」
自分の部屋を見渡しても、そこかしこに父さんによって修理された家具。
そして、ベッドサイドテーブルに置かれた――今になって気づいた――包み。
令司にぃへ、と書かれたカードがリボンに挟まれている。
藍の作ったものだろう。
包装紙を丁寧に剥がして箱を開けるとチョコレートが入っていた。
そういえば、今日は2月14日――バレンタインデーだ。
藍なりに、俺を労おうとしてくれていたのだろうか。
父さんも、母さんも、藍も、今はどこにいるのかもわからない。
ふと、頬に手を当てて初めて自分が泣いていると気づいた。
目を瞑り、ゆっくりと息を吐く。
今、外出するのは危険なのかもしれない。
いや、十中八九危険だろう。
非常用に備蓄された水や食べ物だってあるのだし、家に籠城するのが危険のない生き方なのかもしれない。
しかし、そんなことより、家族に会いたい。
少なくとも妹は――藍は探すアテが全く無いわけではない。
妹は今日、塾の模試を受けるため、3つ隣の駅前にある学習塾に行く予定だった。
この異常事態に気づかず出発するわけがないとも思ったが、現に妹は家にいない。
常におちゃらけているようだが真面目な俺の妹は偶然黒い獣がいないタイミングで目覚めて駅に向かって移動し始めてしまったのかもしれない。
その途中で駅前に向かう獣を見かけてしまい、どこかに隠れている可能性だってある。
そこまで想像できていて、何もしなければ一生後悔する。
迷う必要なんて、ない。
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