第2話 雨に惑う
山小屋の朝は早い。餓鬼岳小屋も同じく、早い。
杏子は掛け布団を座布団代わりに胡座をかきスマホを見ている。お天気アプリで雨雲の様子を確かめていた。
「おはよう」
「おはよ、那々」
わたしはむくりと起きて、腕時計見る。午前四時。さてと、まずは布団を畳もう。
同宿の登山客たちは、「雨が降ってるよ」「でも小雨だ」「この程度の雨でも、足元には気をつけなくちゃ」「濡れた岩場はすべるよ」と誰彼となく伝えあっている。
わたしが一番寝坊助だった。
実樹はとっくに洗顔をすませていた。すでに布団を畳んで布団置き場に積んである。
「おはよ、那々。水場は今満員だよ。早立ちで縦走するパーティーの洗顔が終わってからでいいんじゃないかな。わたしたちは、ほら、下山するだけだから、のんびりでいいよね。ね、杏子」
杏子は無言でうんうんとうなずいた。
昨日、燕岳から縦走してきた男女二人組は、今日は下山したらそのまま信濃常盤駅へ向かい、五人組は涸沢岳を往復して餓鬼岳小屋でもう一泊するという。
「そうねぇ。お昼には雲が切れるし、これ以上強くは降らないようだけど、雨が上がるのを待って出発するってわけにはいかないわよ」
杏子は、意見を述べよ、とばかりにスマホをこちらに向けた。
「雨上がりを待たなきゃ行けないほどの降りじゃないね」
杏子のスマホを覗き込んだ実樹が、わたしを横目で見てにやりとした。実樹にしてみたら、にっこり微笑んだつもりなんだと思う。
わたしは雨についてとくに意見はありません。
一昨日は中房温泉から燕岳へ登った。山は雲にかくれて、景色は霧の間に間に見える程度だった。
途中、第三ベンチあたりから雨が降りはじめたので、休憩は合戦小屋まで我慢した。
「燕山荘に泊まれそうなら、大天井は明日にしたほうがいいかもな」
合戦小屋で男性二人の会話を聞きながら、大休憩と言えるほど休んだ。
降ったりやんだりの小雨だったが、北アルプス初心者のわたしにはちょっとばかり堪えた。
でも夜に雲海から頭だけ出した槍ヶ岳を見ることができたのは、雨のおかげだったかもしれない。
昨日はすっきりしない天気だったが、岩場やガレ場、岩稜を歩くときに雨が降ることはなく、餓鬼岳小屋間近になってパラパラと落ちてきた。
小屋の外でブロッケンに出会えたのも、パラパラ雨を運んだ雲のおかげのような気がする。
餓鬼岳小屋同宿だったみなさんに、「気をつけて」「おたがいに」と手を振り振り見送って、とうとうわたしたち三人が残った。
「細心の注意を持って、下りよう。今夜は中房温泉に泊まるからね。宿の予約はがっちりオーケー」
杏子は腕時計を見て、「ここを六時に出発ということにして、余裕をもって、タクシーを白沢登山口に十三時で予約を入れるわね」とさっそく小屋番の女性にタクシーの予約を頼んでいる。
「狐の嫁入りだね」
実樹は空を見る。雨がきらめいている。
雲の切れ間から射す陽が雨粒を光らせ、たちまち雲が翳らせる。
「雨雲の餓鬼岳通過は早そうですよ。昼には上がるでしょう」
杏子じゃない声に振りむくと、小屋番の女性が杏子の横で雲の様子を見ていた。B M Iが二〇を下回っていそうな体型で、歳のころは四〇代後半とみた。背が高くカッコいい。
ほかにも二〇代らしい女性と男性が小屋番をしている。
「小雨ってことだけでも、ありがたいですよ。雨の降りが強かったら、もう一日ここにご厄介にならなければいけませんでした」
「温泉をあきらめて、ね」
小屋番さんはふふと笑う。さすがの杏子も苦笑いだ。
「土砂降りの雨なら、わたしも本気で出発を止めますよ。ときに雨は人の方向感覚を狂わせるのでね」
小屋番さんの視線の先には、壁にA4サイズ用紙の「たずねびと」が貼ってあった。
紙は新しく、印刷された写真は古い。男性、肩までの髪、斜に構えた笑顔、きっと白いTシャツなのだろうけど黄ばんでいる。こういうときはセピア色というべきなのかも。写真の雰囲気が時代を語っている。
「毎年、その人のお姉さんがちらしを貼り替えにいらっしゃるんですって。今年はお会いできました」
昭和六三年の夏に行方不明になりました。その写真は大学生の頃の写真なんです。
「行方不明になったころの写真が残ってないとかで」
小屋番さんは眉間に浅くしわをよせ、ため息まじりに首を傾げた。
わたしたちはまだ保育園に通っていたころのことだ。実樹は幼稚園だけど。
「三〇年………、昔々、その昔……」
「登山届けを提出されていなかったようですね。
お姉さんの話では、弟さんの部屋に登山のルートメモが残っていたとかで……。でもね、弟さんの名まえは宿泊名簿になかったし、テント泊の届けもなかったようなんですね。
ルートメモのその日は土砂降りで、無断にしろ誰もテントを張ってなかったそうです
その日前後の宿泊名簿には、三人のパーティーが雨のために二泊したとあっただけでした。
昔々のことだから、わたしも伝え聞いてるだけなんですけどね」
ふっとため息をついた。
「お姉さんは、三〇年、毎年登ってらしたんでしょうけど、もう今年で最後にするとおっしゃってましたね。冬に山小屋を閉めるとき、『たずねびと』を外してほしい、と」
四人でしばらく雨をながめた。小屋の奥から小屋番さんを呼ぶ声がする。
「では、出発します」
「はい。気をつけて」
下山道のぬかるんだ地面や濡れた石や岩は、一歩一歩の着地の重みを受けとめてくれない。あまつさえ、スルーするがごとくスルリと滑らせてくれる。おまけに雨をふくんだ下草や木々の枝葉に触れると反動で跳ねて、雨粒をアタックするかのように飛ばしてくるのだ。
餓鬼岳でも鈴鹿の山でも、雨の仕業に大きな変わりはない。
杏子を先頭に、真ん中がわたし、しんがりが実樹。レインジャケットの色がオレンジ、ライトブルー、レモンイエローの順となる。
「餓鬼岳の勾配がきついってことは、昨日、身をもって知ったでしょ。白沢登山口への勾配も昨日と同じぐらいかそれ以上だよ。それに言うまでもなく小雨でも雨は雨。きつい勾配の下山はいっそうの注意が要るからね」
きりりと杏子が言えば、「無口なわたしが口うるさく注意するかもよ、那々。覚悟しときなさい」と実樹が言う。
わたしの「誰が無口だって……」と言いたい口は閉じといたけど、「誰が無口だって?」と杏子がツッコんだ。
霧と雨のなかを歩く。
斜面の花々が眼の高よりちょっと低い位置で咲いている。紫色の花を数え、白い花を見つけると白い花を数える。ピンクに黄色……
帽子の上からフードを深くかぶり、雨が入ってこないように鼻の下までジッパーを上げておく。視界が狭い。目の前で、フードから絶え間なく雨が落ちる。慣れない雨用手袋を脱ぎたくてしようがない。あー……
だいじょうぶか、わたし。
「餓鬼岳小屋まで三〇分」の木製矢印を見つけたところで小休止。水を飲み、ブドウ糖タブレットをガリガリ噛み砕き、また水を飲み、塩飴を口に入れた。
「ここまでほぼ三〇分、まずまず予定どおりだね」
身体の全細胞が雨を含んでいるかのように、身体が重い。昨日よりたしかに体力を使っている。
岳樺の林を風が通り、霧が風の道を開いていた。
ふんわり涼しい、優しい空気のベールに包まれた。わたしは素直に身をゆだねる。意識がすっきり澄みわたり、身体が軽い。
『大丈夫だよ。きみは体力がある。三人のなかでは一番あるんだよ。自分では気がついていないだろ』
そうかしら。わたしは首をかしげる。わたしは篠宮那々。あなたは?
『名まえ……、もう忘れてしまったようだ。……思い出せない。名まえを訊かれたのは七〇年ぶりにもなりそうだ』
ずいぶんお年寄りみたいだけど、お歳はいくつ?
『生きていたら、いくつになるんだろう。一〇〇歳には、まだなっていないと思うけど、どうなんだろう。
覚えているのは、戦争が終わって、捕虜になって、帰国できて、帰ったら家がなくて、父と母、姉、祖父母、お隣、お向かい、懐かしいひとたちが大勢いなくなっていたことだ。
我が家のあったあたりの人が、みんな燃えてしまったと言っていた』
燃えた? 戦争で? もしかしたら空襲ですか?
『ぼくは大須観音の近く、萬松寺のあたりで暮らしていたように思う。名古屋城や熱田神宮も燃えてしまっていた』
……名古屋の人なんですね。
『そうなんだと思う。
ぼくは人を殺しているんだ。
戦争だからしかたがなかったと、そう思おうとしたんだけれど、戦地から帰ってみると、なぜかぼくが殺してしまった人たちの死に様がよみがえってくるんだ。毎晩のように夢に見るし、昼日中でも幻覚となって現れて、苦しくてしようがなかった。ぼくは気が狂っていくんだと思うと怖くてしかたがなかった。
なんとかその日暮らしをしながら、家族が疎開先から帰ってくるのを待っていた。空襲を逃げのびた人から、両親も姉もじいさまもばあさまも空襲で死んでしまったと聞かされて、もうどうしたらいいのか、わからなくなってしまった。
そのとき長野へ向かうトラックに乗せてくれる人がいて、知らないところへ行けるならと、乗せてもらったんだ。
荷台いっぱいに人が乗っていた。ぼくみたいにぼろぼろの軍服を着た人もいた。疲れ果てた人、荷物をいっぱい持った旦那衆やご婦人がたといっしょだった。
途中で、一人降り二人降りして、だんだん荷台の人が少なくなっていった。夜は荷台で身体を寄せ合って寝たよ。
翌日、高い山が見えてきた。山の麓近くを通ったとき、ぼくはトラックを降りることにしたんだと思う。
乗せてくれたお礼を言って、歩きはじめた。
行くあてがなくて、空を見たよ。その時、山に登ろうと思った。衝動だった』
死ぬつもりで、山へ?
『生きようとも、死のうとも思っていなかった。登るというあてができて、ほっとしたんだろうね。
沢があったから飲み水には困らなかったけど、握り飯を食ったら、もう食べるものがなくなって、力尽きる前に稜線へ出ようと思った。自分でも驚くほど強く稜線へ出ようと思ったんだ。だから必死に登ったよ。
鋭い岩が並ぶ稜線に出ることができて、岩稜と周りの山々を見たとき、ぼくのすべての終わりを悟った。よかった、これでいい、ここで終わると感じた。
最後の力で、一番高く鋭い岩を登りはじめたけど、てっぺんまではいけなかった。
岩登りの技量がないからしかたがない。
鷲が滑空していた。もしかしたら鷹だったかもしれないけど、そのときのぼくには見分けられなかった。
飛ぶべきだ、ぼくも飛ぼうと思った。
それで、ぼくは両手を広げて飛んだんだ』
飛べたんですね。すごい。それからずっと餓鬼岳の空にいるんですか?
『残念だけど、僕は落ちたんだ。当然だよね』
ふふ……、と楽しげな笑い声を聞いたような気がする。そらみみのような笑い声。
『ぼくは沢の近くに落ちたんだ。大きくて、平面な岩の上で、昼寝でもしているみたいにね。
だけど、首と手足と胴体が奇妙に捻れていて、壊れた操り人形みたいだった。
落ちて死んだぼくを見ていたとき、ふっと意識が遠のいていきそうになった。ぼくはそのとき、死んだぼくがどうなっていくのか見届けたいと強く思って、意識をしっかり保とうと頑張ってしまった。
きっとそのときが、意識とか魂とかが静かに死んでいくときだったんだと思う。ぼくはその時を逃してしまった。そんなことには気がつかなかったんだ。
身体の腐敗は早く始まる。戦地でもそうだった。
死んだぼくの眼は半開きで、口をぽかんとあけていた。岩は血だらけで、窪みは血溜まりをつくった。
手や足は折れて、ぼろぼろでも軍服があったから奇妙な人の形を保ってはいた。
鳥が眼球をついばみ、ハエが卵を産みつけた。イタチやテンがやってきて肉を喰っていく。狐は折れた手や足を咥えて持ち去った。クマやネズミも喰っていったよ。蛆虫たちもすぐに出てきた。
でもぼくは見ずにはいられなかった。獣たちが持ち去らなかった、岩の上に残ったぼくの身体が、腐敗して骨になるまでしっかり見ておきたかった。
だけど雨が降ってきてしまった。今日みたいな小雨じゃなくて、土砂降りだ。
沢はたちまち水かさが増えて激流になった。
ぼくが横たわっていたいた岩はあっという間に水没して、ぼくの身体は流されていった。
自分の身体を追いかけようとしたけど、ぼくはこの山から出られなかった。
地縛されたんだと思った。山がぼくを捕獲したんだ……そう思った。
本当のところはわからない。意識していないだけで、ぼくが留まっていたかったのかもしれない。
すっかり岩稜に魅了されていたからね』
いくつか訊いてみたいことが浮かんだ。質問としてまとめようと考えはじめた。
『山小屋の〈たずねびと〉の青年のことだね。
〈たずねびと〉の青年がやって来たときは土砂降りで、白沢は増水して流れも速く渡れる状態じゃなかった。その青年は激流となった白沢を長い間みていて、山を降りてどこかへ行った。失踪することにしたんだ。
お姉さんは弟が可愛くて愛しすぎたんだ。
弟はお姉さんから逃げた、お姉さんも薄々わかっていたんだと思う。でも弟は遭難して帰ってこないんだと、信じていたかった。だから三〇年もこの山を登り続けた。
今年の春の終わりごろ、弟が旭川で死んだことを知らされた。弟に息子と娘がいることもね。
だけど内縁の妻は、お義姉さんと会うことを拒否したし、成人して家庭を持った子どもたちにも、孫たちにも絶対に会わせないと、弁護士まで立てたらしい。
姉に居どころご知られたくないばかりに、弟は婚姻届を出さなかった。内縁の妻はそのこともあって、義姉をひどく嫌って怖がっていると弁護士から聞かされた。
そんな形で弟の本心を知るのはずいぶん辛かっただろうけど、弟も姉にそれほどまで苦しめられたと思っていたんだ』
あ、この人、表層思考を読むんだ、と思った。
はっはっ、とそらみみのように笑い声がした。
『きみの心には、居心地のいい隙間があるんだ。ぼくは遠くのきみのその隙間を見つけることができた時、遠すぎて聞こえないかもしれないけど、すがるように呼びかけた。
餓鬼岳へきてほしい、と。
ぼくは最後にきみと話したかった。ぼくを語りたかった。きみには迷惑なことだろうけど。
きみと話しているうちに、薄れて消えていた記憶もだんだん蘇ってきた。
きみは少し高所恐怖症気味なところがあって、北アルプス登山にあまり気乗りはしなかっただろうに、来てくれた。
ほんとうに、ありがとう。
ぼくは、ぼくの意識はもう消えていくよ。寿命がきた。きっとぼくは長生きで、生きていたら、いまが死ぬときなんだ。
さようなら、那々さん。ぼくのなまえは……』
岳樺を渡る風がフードの中まで入ってきて、『白沢はいつもどおりの流れだから、渡れるよ』と囁いていった。
さようなら……わたしは心のなかで彼の名をつぶやいた。
わたしたちはすでに大凪山にいた。
「ずいぶん無口だったねぇ、那々。雨はあがったし、さぁて、ここからは気を引き締めていくよ」
杏子にならって、わたしもフードをおろし、ジッパーを少し下げて風を入れ、雨用手袋を軍手に変えた。
「那々、きつい下りだから、舌を噛まないように、しっかり口を閉じときなさいね」
「おまえが言うな」
杏子が言った。わたしが言おうと思ったのに。
雲が切れていて、青空の領域が広がっている。
聞きしに勝るきつい下りだった。
白沢登山口に着いたときには、膝が大笑いしていて、ぎくしゃくと前時代のロボットのような歩行しかできなかった。
「さあ、温泉がまってるぞ」
実樹が高らかに笑い、三人で勝ち鬨の声と拳を上げた。
noteより転載(2018/12/13擱筆)
餓鬼岳 山田沙夜 @yamadasayo
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