餓鬼岳
山田沙夜
第1話 足が震えた夏
果てしない星空、畏るべき天の川を横ぎってゆく薄い雲。その夜空を闇で切りとる槍ヶ岳。槍ヶ岳を浮かべる雲海。
「雨の中を登ったご褒美だね。美しい」と杏子が言う。
「……だね。雨が小雨でよかったよ」と実樹はくふふと笑った。
わたしは星空と槍ヶ岳と雲海に見惚れて、話しかけないで、と思っていた。
「九時に消灯だから、部屋に戻るよ」と杏子に肩を揉まれ、「真っ暗にならない前に寝よう。ヘッドライトをつけて歯磨きしたり、トイレに行ったりしたくないでしょ」と実樹に肩を叩かれた。軽くだけどね。
窓に向かって天井が低くなっていく屋根裏部屋的風情の部屋は、初老の夫婦と同室だった。隙間なく五人が横になる。
目の前の手がまったく見えない暗闇の中、燕山荘の夜が更けていく。
明日は四時起床だ。
朝六時、餓鬼岳へ向けて出発する。遅い出発といえそうだ。
燕岳から餓鬼岳へ向かう人は少ない。わたしたちより先に燕岳頂上を下りてきたのは男女二人と、女性三人男性二人のパーティーだけだった。
「燕山荘に泊まってたほとんどのパーティーは、表銀座へ行くからね」
同室だったご夫婦は、わたしたちが朝ごはんを食べはじめたとき、「おさきに」と挨拶してくださり、大天井岳へ向かった。
ガッチガチの山女でリーダーの杏子は「表銀座は二度歩いたから今回は餓鬼岳にした」と言うし、ボルダリングが趣味の実樹は、「風景としては岩稜がいいわね」と言う。
表銀座という名前だけは知っていても二〇〇〇メートル級登山は初体験、はじめまして北アルプスというわたし。
初心者向けだから大丈夫、という杏子の言葉を真に受けた自分に「軽はずみ」というレッテルを貼るしかないだろう。岩稜って岩だらけの稜線ってことだよね。
下ったぶんは登るんだろうなと思いつつ、大きな岩を巻きながら下り、そして登る。
稜線に出る。
東沢乗越へ向けて、どんどん下りてまた登る。
眼下にお花畑。
中房温泉へ下っていく道標を見つけて、ここから下山してしまいたいかもと思いながら、急な登りをひいはあ登る。
先頭は杏子、わたし、後ろに実樹。ふたりともわたしのペースに合わせてくれる。
鈴鹿のお山しか登ったことのないわたし、無謀だったかな。来た道をおいそれと戻れないのが登山なのだと身にしみる。でもわたし、意外にうきうきしている。
東沢岳。
少し雲がかかる稜線に鋭い岩々が雲間に見え隠れしている。この風景を岩稜というのか。
たしかに実樹が好きそうだ。そして、わたしも……。
「あれが剣ズリ」杏子が指差す。
「かっこいいね」と実樹。
同感です。
「あそこは登らないから、大丈夫。大きく巻いていくよ」
ほっ……。
杏子が右手で大きくUカーブを描く。つまり……どんどん下りてどんどん登るってこと。
「餓鬼岳はどこ」
「あれかな」
杏子が指さす「あれ」がどれなのかわからなかったが、遠すぎるほど遠いのだけは理解した。彼方の岩に赤い丸の道標を見つけてしまったときは、さすがにがっくり消沈したが、顔にはださなかったつもりだ。
岩を巻いて下りていくうちに樹林を歩いていた。樹林! そんなに下りたの!!
滑り落ちたら果てしなく転げていくようなジャリジャリのガレ場は、木も岩もなく開けて、霞んで見えるほど下まで落ちこんでいる。そこをまっすぐ横切る。怖くて足元を見られない。
「この岩場、垂直だよ」
「そんなことないよ。角度は目視で三〇度ぐらいかな」楽しげな実樹。
「いいから、鎖をしっかり握って下りてきなさい」
イエス、マム。
目の前が岩というのはなんとなく安心感がある。
杏子と実樹はこの岩場を先に下りていて、万が一、わたしがドジったら受け止めるつもりのようだ。ふたりに怪我をさせられない。万が一にもドジはできない。軍手の中で、手に汗握る。
木の梯子を下りたり登ったり、鉄の梯子を登ったり下りたり、大きな岩に添わせた四角い木を足場に、鎖を伝って移動するのはなぜか怖くなかった。
けれど稜線を歩くのは足がすくみがちで、景色を楽しみたいけれど、そんな余裕がないのがなんとも悔しい。
稜線を這いあがってきた雲が昇りながら上空の雲と融合していく。
「ほら、餓鬼岳小屋がはっきり見えてきた」
「今日の宿泊地。いいねえ、いかにもって感じ」
「縦走が終わるんだね。なんか寂しい」
餓鬼岳小屋に近づくにつれ、風に乗った雨粒がレインジャケットにあたってパラパラと音をたる。霧がジャケットを濡らす。
午後三時ごろ餓鬼岳小屋到着。まず濡れたものを脱ぎ、乾燥させる。
のんびりした行程だったんだと思う。
杏子と実樹が、たくさん休憩を取ってくれたのは、わたしのためだとわかってるよ。
途中、三つのパーティーとすれ違った。
餓鬼岳小屋はわたしたちのほかに、四組十五人ほどが泊まるようだ。
燕岳から先行した、男女ふたりと男女五人のパーティーもいる。
小屋でうとうとしながら休憩していたら、「ブロッケンがでていますよ」と誰かが呼んでくれた。
太陽を背に雲が立つ東を見ると、わたしの影が光の輪のなかにいた。
杏子と実樹とわたし、肩を組んで、光の輪のなかの三人の影ににピースしたり、手を振ったりしながら、スマホで何枚も写真を撮った。
明日は雨模様のようだ。
noteより転載(2018/12/02擱筆)
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