第2話 初配信

 ノートパソコンが悲鳴をあげている。約5年間、苦楽を共にした相棒は、今日も僕と世界を繋いでくれる。文字入力は数秒遅れて反映されるし、右クリックの反応なんて、ファストフードの提供よりもはるかに遅い。最近は予告なく電源が落ちるようになって、少し困っている。それでも僕は、こいつが好きだ。

 僕のアバターはこのノートパソコンで作った。アバターというのは仮想空間でのキャラクターみたいなもの。背景も写真を加工して作った。音声入力の設定やらなんやらも抜かりはない。このオーディオインターフェイスというやつは使いこなせる気がしなくて、いまいち好きにはなれないが、僕の声をほんの少し、可愛くしてくれる優れもの。仕事のできるエリートというやつは、みんなこんな印象なのだろう。そんなことを考えながら、僕は配線を確認し、マイクテストをする。

「あーあー。マイクテストです」

 部屋には誰もいないが、誰かに聞かれている気がして、少し恥ずかしくなる。ヘッドホンから返ってくる僕の声は、少しハスキーで、甘ったるい、アニメみたいな声。よし、これなら、知り合いがたまたま聞いたとしても、気付かれることはないだろう。ノートパソコンが唸りをあげる。

 パソコンを使って、リアルタイムに動画を配信できるサービスにアクセス。アイドルの配信、声優の配信、それらを目指す少女たちの配信。生まれて間もないこの世界は、今日も新しい日常を切り取っていく。その眩しさは、朝日に似ている。これから一日が始まっていく期待感と、いつもの一日である倦怠感。それらが絶妙にブレンドされた、清々しい朝。

 アバターで自分の姿を隠し、声は遅延なく加工される。名前もペンネーム。僕が僕である要素は何もない。完全なる別人。僕はいわゆる「中の人」でしかない。

 そう、僕は今日から、拝師ねるというキャラクターになる。そう考えると気持ちが軽くなる。鳥のように、とはいかないが、埃のようにふわふわ浮遊できそうだ。僕、という一人称も、キャラクターになりきるからこそ、そう言える。ぼくっ娘が好きな僕は、自分の発する僕という言葉にも少し萌えることができた。

 音声やらアバターやらの微調整を繰り返し、もうどれくらい時間がたっただろう。準備は万端のはずだけれど、ここから先に進めない。

 誰も見てくれなかったらどうしよう。叩かれたらどうしよう。うまく喋れなかったらどうしよう。

 配信開始のボタンを押すまでに、一時間もかかってしまった。それはまるで、初恋の男の子に、初めて声をかける少女のように、臆病に、慎重に、それでも自分の中では大胆に。そうやって僕は扉を開いたのだった。


 僕は震えていた。比喩ではなく、カタカタと足はいうことを聞いてくれない。約一千人もの観衆の前に立たされたアマチュアシンガーソングライターは、こんな気分なのだろうか。その人数が多いか少ないかはきっと人それぞれ。普段、誰にも聞かれることのないまま、アイドルに憧れて一人で歌を歌っていた少女が、いきなり舞台に立つことになった。

 そういった状況を、僕は頭に思い浮かべ、苦笑した。憧れてもいなかったし、練習すらしていない、それが僕だということに気づいた。

 そんな現実逃避をしながら、沈黙している間も、人は増え続け、コメント欄も埋まっていく。ライブ配信というものは、視聴者がコメントをすることができ、それに受け答えしながら進行していくのが基本、だと思う。僕が今まで見てきたアイドルの子たちはそうしていた。

 ひとりごとに近い素人の配信に約一千人もの視聴者が集う。いったい今の世の中はどうなっているのだろうとすら感じる。この人たちは何を求めているのか。アイドルのような可愛い表情? 可愛い仕草? 可愛い声? 僕は何も持っていないけれど。

 面白いトークを期待しているのだろうか。いや、こうやってしどろもどろになるのをわかっていて、それを面白がって見に来たのだ。なんとも憎らしいやつらめ。などと、黒い感情が芽生え始めたところで、ひとつのコメントに目がいった。

「どんな小説を書いているの?」

 そう、僕は小説家として配信を始めた。ルーム名は「小説家拝師ねるの日常」。ならば、それは聞かれて当然のことだった。

「えっと、今度出版予定で、小説投稿サイトなんかで書いてて……」

 声が震えていく。なんで僕は一千人もの前で、まだ誰にも話していないことを喋っているのか。ノートパソコンの音が耳に障る。

「ジャンルは?」

 完全に失敗だった。予想される質問には予め回答を考えておくべきだった。いや、よくて数十人程度しか見に来てくれないだろうという見通しも甘かった。桁が違う。

 結局何も喋れないまま、初回配信は終わった。正確には、しどろもどろになりながらも、何かは喋っていたけれど、それは当たり障りのない、僕の表面。

 これではいつもと何も変わらない。リアルと何も変わらない。なんのために、僕は拝師ねるになったのか。少し心に火がついた。

 何を言われようと、何を思われようと、思っていることを喋ればいい。背伸びをする必要も無ければ、知ったかぶりをする必要もない。まずは、ありのままの自分でいよう。自分をさらけ出すのはその先だ。

 

 この段階で拝師ねるは生まれたと言えよう。物心つき、よちよちと歩き出した。進む方向はまだ見えない。それでも歩いていこうと決意した。

 配信を終えたとたん、ノートパソコンは寝息のような涼やかな音へと変化した。

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