外伝 ユタカとグッデイ
チェスイー川の雪解けから間もなく、本当に、本当に珍しいお客さんが、不思議屋マドゥカのドアを叩いた。ドアを開く前に、いつものようにマドゥカが言う。
『ハーディ、お客さんだよ』
そして、その思ってもみなかった訪問客は、ハーディに思ってもみない初体験をもたらすこととなった。
「はい、いらっしゃいませ」
ハーディの声に応じて開いたドアの向こうに立っていたのは“海の民”の子、ワタリの兄のユタカだった。相変わらず鋭い眼差しの彼は、何の挨拶も前置きもなしに、いきなり言った。
「一緒に来い」
目をパチクリさせたハーディは、反射的に答えてしまっていた。
「はい。ぼくでよろしければ」
――というわけで、ハーディは歩いている。もうかれこれ、四十分以上は。
「……あの」
ようやくハーディは口を開いた。
春が来たとはいえ、まだ肌寒い気温をものともせず、たくましい二の腕をさらしている彼は、ずんずんずんずん、歩いていく。
「ワタリ、ぼくたち、どこに向かってるんでしょう?」
これは本来、店を出る前に尋ねておくべきことだ。が、ハーディは“何となく”、こんなことに付き合ってしまう性質で。
「いいから、ついて来い」
そう言われてしまうと。
「わかりました」
納得できずとも、そう答えてしまう少年であった。
何だか、だまされて嫁がされる花嫁のような状況だが、ハーディにはハーディなりの言い分がある。
(だって、ユタカだし)
何の説得力も根拠もないが、とにかく、ハーディはそんな少年で、ユタカの方も、年端もいかない少年相手に悪いことを考える大人ではなかったということだ。
では、そんな悪い大人ではない彼は、これからハーディをどこに連れて行こうというのか。
そして、それを口にしない理由は何か。
歩きに歩いて、一時間。ハーディは辿り着いた海岸、というよりは崖に近い場所で目にしたものに、大きく目を見開いた。
「
「――そうだ」
なぜか苦しそうに、ユタカは言った。
話は、十数年ほど前に遡る。
ある“海の民”の子は、いつもそこで膝を抱えていた。
その子の悩みは、自分が臆病なことだった。
大きなクジラを目にすると、どうしても身が竦んでしまう。大人たちは笑うけれど、あんな大きな生き物、自分が仕留められるとは思えない。傍らに置いた銛を見るたびに、憂鬱になる。
クジラを仕留められない自分に、お嫁さんだって来てはくれないだろう……。
今日も臆病なまま、日が沈んでいく。ため息を一つつく。
そんなとき、決まって彼は鳴いた。
――オロローン。
少年は立ち上がり、海に向かって叫んだ。
「オロローン!」
ざあっ、と音がして、巨大な光亀が姿を現す。
それは、少年にとって、たった一人の友だちだった。
「……お前には、あれの言葉が分かるんだろう?」
ややあって、ユタカが口を開いた。
「……まあ」
自分が“聴こえる者”だというのは、誰も表立って言わないけれど、周知の事実というやつだ。特に、ワタリはそんなハーディを羨ましがっている節があるから、よきにつれ、悪しきにつれ、ユタカがそれを知っていても不思議ではない。
「……俺は」
やっぱり苦しそうに、ユタカは言った。
「俺は、あいつの気持ちが知りたい」
ハーディは、目の前の老いた光亀を、じっと見つめた。
グッデイには、一つ、気懸りがある。
それは、あそこでいつもしくしく泣いていた幼い男の子のことだ。
“海の民”、かつて外の人間からそう呼ばれていた彼らが、自分たち一族の背を必要としなくなって、すでに久しい。人間に背を貸すなんて、そう笑っていた地上の彼らが一転、自分たち一族に憐みの目を向けるようになったのは、何の皮肉と言うべきか。
――ああ、それにしても人間というやつは面白い。
必要なときには、崇拝どころか、懇願というほどに相手を求めるのに、一旦、必要でなくなってしまうと、それを必要とした歴史からすら、目を背けようとする。
自己憐憫でもなく皮肉めいた気持ちでもなく、グッデイには、そんな人間の心持の変化が、変化する人間の本質の真髄を見た気がして、非常に面白いものに捉えられていた。
一族のすべてが人間に幻滅し、世界のどこかに姿を消した後も、グッデイは一人、その海岸に留まり続けた。かつて“海の民”と呼ばれ、自分たちを必要としていた一族が、どんな風に変わっていくか、それを見続けるために。
『ああ、年はとりたくねえなあ』
思わず呟いたひとことに、泣いていたあの子が連れて来た子が、ぴくりと反応した。
おや。このぼうやは、あたしの言葉がわかるらしい。
面白くなってきて、さらに、ぼやいてみる。
『ああ、腹減ったなあ』
その子は言った。
「何が食べたいの?」
ああ、やっぱり聞こえてる。
いつも泣いていたあの子に気づかれぬように、そっとその子に呼びかける。
『今のはお試しってやつさ。――それより、ぼうや。このじじいの話を聞いてくれるかい?』
その細い首っ玉に
ああ、このぼうやは、本当に賢い。
というわけで、グッデイは最後に少しだけ人間と話をすることにした。
いつも泣いていた、あの子にまつわる話を少しだけ。
このじじいがあの子に会ったのは、そうさ、ほんの十数年前。このじじいにとっちゃ、瞬きするくらい短い時間だよ。あの子は、いつもいつもあそこで泣いてた。クジラが怖い、自分は小さい。とても立派な猟師になんかなれないって。
懐かしかったなあ。
このじじいの背に乗った家族たちの、特に酔ったときの男たちはみんなそう言ったもんさ。
陸に上がった人間というのはよくない。わしらの背に乗っていた人間は、みんな臆病で謙虚だった。陸に上がると、人間というやつは傲慢になるよ。
そんな話はさておき、このじじいは感動したのさ。
陸に上がった人間にも、こんな怖がりがいるのかと。
だからなあ、このじじいはいつも泣いていた小さな男の子をちょっと応援したくなったのさ。臆病なのは、お前さんだけじゃない。海と共に暮らした男も女も、その子たちも、みんなみんな臆病だったのさってな。
やがてその小さな男の子は背も伸びて、お嫁さんを貰って、なんと子どもまでこさえたっていうじゃないか! 驚いたね。でも、もっと驚いたのは、結局その子の臆病は直ってないってことだ。でも、臆病の内容が変わった。前は、自分の命を失う怖さが立ってたってのに、今は、自分が死んだらせっかくもらったお嫁さんと自分の子がどうなるか、果ては一族がどうなるのかってことに怯えてる。
そして今は、このじじいの命が尽き果てることに怯えてる。
……ああ。
嬉しいもんだよ。
このじじいの一族が、いつも泣いていたあの子の中に存り続けるのは。
これだから、人間ってやつは面白い。
これだから、あたしは人間と共に存り続けたかった。
できれば、一度くらいは、このじじいの一族がそうしていたように、あの泣いていたぼうやの家族を背に乗せて、冬は暖かい南の海に暮らし、春はここで暮らす。 そんな暮らしをしてみたかったもんだね。
……さて、ぼうや。
わかっているとは思うけど、どうか、あたしのこの言葉は、いつも泣いていたあの子には伝えないでほしい。叶わない望みを口にするのは、残酷ってものだからね。
そうさ、あの子が思っているとおり、あたしは死ぬ。もうすぐさ。
けどね、ぼうや。あんたが思っている通り、このじじいも、いつも泣いていたあの子も、あたしたちは互いに不幸じゃない。ひとことたりとも、言葉を交わせなかったけれど、それでも不幸じゃないんだ。それは、聞こえるぼうやには、身に染みてよくわかっているだろう?
だから、このじじいが、いつも泣いていたその子に残す言葉はただ一つ。
光亀が、ふいに身を翻した。
「! 待ってくれ!」
ユタカが、身を乗り出す。
高らかに、彼は鳴いた。
オロローン……!
波が立って、大気が震えた。
オロローン!
土色の大きなひれが、まるで万歳するように、波の上で跳ねた。
ユタカが駆け出した。ばしゃばしゃと、波がうるさく音を立てた。
「ユタカ!」
思わず叫んだハーディの前で、波の音が止んだ。
海で膝まで埋まった彼は、振り絞るように叫んだ。
「……オロローン!」
何度も、何度も。
「オロローン、オロローン! ……オロローン、オロローン!」
海の向こうからも、聞こえてくる。
オロローン、オロローン……。
オロローン、オロローン……。
まるで意味を成さない声だった。それでも二人は叫び続けた。
やがて、どちらともなく、声が止んだ。
ユタカは長い間、動かなかった。
――やがて。
「……あいつ、なんて?」
静かに、ユタカが尋ねた。
ハーディは、簡単には答えなかった。
「……えっと」
何を告げればよいのか。
彼の名はグッデイ。君たち“海の民”が裏切った光亀の一族の中の変わり者。でも、人間を、君を愛してた……。
吹き荒れる言葉の嵐のうち、一体何を伝えるべきか。
ハーディが考えあぐねているうちに。
「――いや。やっぱり、いい」
きっぱりと、ユタカが言った。
「いいの?」
驚いて、目をぱちくりさせるハーディ。
「ああ」
さらに驚いたことに、彼は笑顔を浮かべていた。
「いいんだ。俺にはずっとわかってた。ただ……」
久々に昇る太陽を迎え入れたジマーの青空のようにすっきりした顔で、ユタカは言った。
「俺以外のやつにも、知って欲しかったんだ。俺の友だちを」
海と空を分かつ直線には、もう何も見えない。
それでもなお彼の姿を見送るように、その場にしばらく佇んで。
「……遅くなったな、送ろう」
ユタカは、穏やかな声で告げた。
店に戻ったハーディは、そっと呟いてみる。
「オロローン」
そっと、もう一度。
「オロローン……」
上から声が聴こえた。
『なんだい? そりゃ』
「ねえ」
だしぬけに、ハーディは尋ねた。
「マドゥカ、ぼくたちの関係って何だと思う?」
やや面喰ったように、彼女は言った。
『なにって……。あたしのご主人は、あんたの父さん。だから、あたしゃ、あんたの保護者』
「……保護者かあ」
がっかりついでに、もう一度。
「オロローン」
ハーディはそっとため息をつく。
やっぱり、自分ではダメらしい。
二人だけに通じていた言葉は、宙に虚しく消えた。
小さな臆病なぼうやと、大きな亀のじいさん。歳の離れすぎた友だちたちは、意味のないこの言葉を通じて、どんな心を交わし合ったのだろう。それはきっと、何千、何万という言葉を重ねるより素敵なこと。
(……いいな)
心の中で呟いた言葉に、自分が一番びっくりした。
そして、悟った。
人を羨むとは、こういうことなのだと。
「オロローン」
『だからさ』
「オロローン」
『それってなんだい?』
「オロローン」
満足げにハーディはロッキングチェアを揺らし、生まれての初めてのこの感情にもうしばらく浸っていることにしようと思った。
不思議屋マドゥカと常冬の女王 竜堂 嵐 @crown-age2016
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます