エピローグ

 冷たい玉座に、女王はぐったりと凭れかかっていた。

 意識は混濁していた。夢も見なかった。

 ふいに、足音が聞こえた。夢ではない。物理的な音だ。

 誰が来たか、姿を見る前にわかった。

『ミンディ?』

 びくっと、ミンディの足が震えた。

「は、はい」

『それに、ハーディも一緒ですか?』

「はい。常冬の女王様」

 女王の消耗は、相当に激しいようだ。客を前に、背筋を正す余裕すらないらしい。

(そう言えば)

 ハーディは思った。女王のほか、ここには他に誰もいない。

 身の回りを世話する者も、女王を守るひとも。

『元気になったのですね。よかった』

 疲れの滲む声で、女王は言った。

『このたびは、わたくしの勘違いで誠に相すまないことをしました。許して下さい』

「い、いいえ」

『せっかく来てくれたのに残念ですが、わたくしは疲れています。申し訳ないのですが、もうお帰りなさい』

 ハーディが、ミンディの肩にそっと手を置く。

「帰ろう。ミンディ」

「あ、あの、女王様!」

 ミンディが突然、叫んだ。

『何でしょう?』

「あ、あたし、ここに残って、その、女王さまのお世話をしたいんです! いけませんか?」

 ぎょっとしたのは、ハーディだ。

「ちょっと、ミンディ! なに言ってるの?」

 どうしても女王様に伝えたいことがあると言うから、連れてきたのに。

「だ、だって……」

 泣きそうな顔で、ミンディは言った。

「女王様、このままじゃ、また一人ぼっち……」

『――ミンディ』

 静かな声で、常冬の女王は言った。

『孤独なのですね』

 ミンディが肩を震わす。彼女はぽろぽろと大粒の涙を零した。

『ミンディ』

 女王は諭すように言った。

『すでに使い古された言葉ですが、人はみな、孤独なのです。それを知っているからこそ、幸せが欲しいのかもしれません。孤独に対峙するために』

 ミンディの涙は止まらない。彼女のすすり泣きは大きくなっていく。

『ミンディ、あなたはまだ若い。そして、死を求めるほどの絶望は、まだ感じていません。そのような者を、わたくしは傍に置くことはできない。わたくしは常冬の女王。みなに平等に安らかな死を与えるもの。しかし、それは本当に生きることに苦しんだ者に、まず与えられるべきものなのです。――お前が面倒を見ていた男のように』

 ミンディが驚いたように顔を上げる。

「女王様」

 ハーディが口を挟んだ。

「女王様は、ジョゼッペさんが何に苦しんでいたか、ご存知ですか?」

『存じません。わたくしはただ、安らかな死を望む者にそれを与えるのみ』

 女王の言葉の響きは、少し違っている気がした。

 が、ハーディは訊かないことにした。

 なんとなく、いまはそれに触れないほうがいいような気がした。

『ミンディ』

 女王は、泣いている小さな娘を忘れてはいなかった。彼女は静かに言った。

『お帰りなさい。お前はまだ生きることをあきらめるには、幼すぎます』

「レ、レティアが、幸せになるのをあきらめたのは、わ、わたしより若い頃です!」

 ミンディの屁理屈のような抗議を、常冬の女王は咎めない。どこまでも優しく、女王は言った。

『レティアとお前は違います。ミンディ、お前にはお前を心配してくれる人が、すぐそこに、あなたの後ろにいるではありませんか』

 ミンディは、ハーディを見た。ハーディは、小さくうなずいた。

「じゃあ、帰ります……」

 ミンディが唇を噛み締め、後ろを振り向こうとしたその時。

『――そうだ』

 女王が思いついたように言った。

 そして、一冊の本をミンディに向かって差し出した。

 それは、レティア・モリガンのスクラップ・ブック。

『これを、持ってお行きなさい』

「女王様、それは……」

『お願い。持っていて』

 切ない口調で、女王は言った。

『それは、約束です』

「約束?」

『はい。わたくしが、二度と愚かな行為には走らないという』

 ミンディは、じっとスクラップ・ブックを見つめた。

『本当は』

 女王は苦しい本心を打ちあけるように言った。

『本当は、ただのおせっかいなのかもしれません。人々の幸せを考えるなんて』

「女王様……」

『そうです。きっと、我々もただ、寂しいだけなのです。――“お父様”も』

「女王様」

 ハーディは、もう一つだけ質問した。

『何でしょう?』

「常春の王とレティア・モリガンは、どのような約束を交わしたのですか?」

 女王は、じっとハーディを見た。そして、きっぱりと言った。

『言えません。あれと――レティアとの約束です』

 あれ、という呼び方に、海よりも深い愛と、母のような愛着を感じる。

 ハーディは思った。何百年たとうとも、女王は約束に対して、誠実であり続けるであろう。そして、常冬の女王とは、常春の王との約束を果たす。ただそれだけのために存在している存在なのかもしれないと。

 ハーディとミンディは、氷宮殿を後にした。

 ミンディはよほど後ろ髪引かれるらしく、何度も何度も宮殿を振り返っていた。

 やがて、氷宮殿の周りを吹雪が吹き荒れ始めた。二人は急いで村に向かう。途中、氷漬けから解放されたらしいマックと、ダーティに会った。結局、二人はバルバザンに逃げられたらしく、これから急いで至宝美術館に報告に向かうらしい。

「またな、ハーディ!」

 いつの間に回復したのか、ダーティの肩に飛び乗り、ハーディに手を振るグラッセと、まだ感じる寒さのためか、それとも報告しにくいことを報告しに行かなければならないプレッシャーのためか、青ざめた顔のマック。二人と一匹を見送り、ハーディとミンディは、村に戻りがてら、まずジョゼッペを訪ねた。

 彼はとうにこと切れ、冷たくなっていた。しかし、その口もとには笑みが浮かんでいた。何かから解放されたような、そんな神々しい表情だった。

 ミンディは冷たくなった彼に覆い被さり、少しだけ泣いた。

 ジョゼッペのことを村長に知らせに行くというミンディと別れて、マドゥカへ向かう。

 

 扉を開く前から、予感はあった。


 ひと足先に戻ったエリーの足元には、ランナウェイの丸い背中が、ぽつんと。

「こんなしけた店、二度と来ないんじゃなかったの?」

『……うるせいやい』

 力なく悪態をついたランナウェイの目は、すでに真っ赤だった。

 白樺の女王に言われて、急いで駆けつけたけれど、間に合わなかった。そんなところだろう。

「ブックマーク」

 呼びかけに答える声はない。

 妻と子供に囲まれているその体が、冷たく硬直しているのが、この距離でもわかる。

 多分、ブックマークはずっと死に場所を探していたのだ。

 初めてここに来たときから、ずっと。

 冷たくなった彼の傍らで、子どもたちが必死に父親に呼びかけている。

 彼の妻が、こちらを向いた。

『ハーディ』

「キャンドル」

 彼女は、すん、と鼻を鳴らして言った。

『このひと、逝ったわ』

「うん」

『あんまり、苦しまなかった』

「うん」

『でも、悲しいの』

「うん」

 ハーディはややためらったのち、こう言った。


「ぼくもだよ」

 

 キャンドルが道を開けた。

 ハーディは黙ってそこを進む。

 冷たい体を持ち上げた。


『ハーディ』

 

 小さな子どもたちが問いかける。

『お父しゃん、どこに行くの?』

 ハーディは彼を抱きあげたまま、言った。

「ちょっとだけ、待っててね」

 ブックマークを土の中に埋めてやった後で、ハーディは子どもたちを連れ出した。

 空には星が瞬き始めている。

 それを指して、ハーディは言った。

「えっとね、お父さんはあそこにいるよ」

『あそこ?』

 さっきまで父親がいた腕の中から、彼の二匹の子どもたちが身を乗り出す。

「そう。あそこ」

『綺麗だなあ』

「うん。綺麗だね」

『あそこに、お父しゃん、いるのか?』

「うん。いるよ」

 ハーディは淡々と言った。

「ぼくたちの体は魔力でできている。みんな、いつかはあそこに帰るんだ。だから――」

 ハーディはそこで言葉を止めた。

『だから?』

「――だから」

 

 ――だから。

 

 父の声が、重なる。

「何も悲しむことは、ないんだ」

 ハーディは、あの夜のことを思い出した。

 スカイが死んだあの日、ハーディは確かに悲しくなかった。ただし、こう尋ねたのだ。


――ねえ、父さん。スカイは『かえる』って言ってた。スカイはどこにかえったの?


 あの夜にはオーロラがあった。今夜は、星がある。

 突然、どどど、と轟音が轟いた。

 体の奥から突き上げられるような、激しい振動。

 チェスイー川の、雪解け。


「ブックマーク」


 空を見上げる。そこにあるだろう彼の魂に向かって、ハーディはひっそりと囁いた。

「春が、来たよ」

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