第21話

 ――面目ない。

 全身でその気持ちを表現しながら、マックは謝罪する。

「悪いな。カール」

 氷漬けが溶けたばかりの体に鞭打って急いで引き返してきたせいか、全身が重い。が、そんなことは言い訳にはならない。――なにしろ。

「結局、バルバザンに逃げられちまった」

 我ながら不甲斐なさすぎて、幼馴染の顔をいまだにまともに見ることができない。

「仕方なかったんだよ!」

隣にいた、ダーティが声を張り上げた。

「マックと同じように氷漬けになってたはずなのに、あいつ、やたらすばしっこくてさ……」

「やめろ」

手をあげて、ダーティを止める。

「マック! けど……」

「理由はどうあれ、俺たちはバルバザンを連れ戻すことができなかった。任務は、失敗だ」

「……」

 マックはようやく顔を上げ、いまだ何も言わない幼馴染の顔を見た。

「本当に、悪かったな。カール」

 カールはにっこり微笑んだ。そして、言った。


「いいのよう」


 マックが目を大きく見開く。

 驚きより、戸惑いの現れた声で彼は言った。

「いや、でも……」

「まあ、確かに」

 困ったようにカールは笑い、

「おかげで、歴史の証人を一人失っちゃったわけだし」

「……」

「光妃アンナは、愛する旦那さまと再会できないわけだし」

 ぐっさりと、とどめを刺す。幼馴染と少年は、そろってうなだれた。

 さすがに二人が可哀そうになったのか、カールは優しい声で言った。

「でも、仕方ないわよう。だって、そもそも無茶な頼みをしたのはこっちだし。生きているマックと違って、あっちはもともと肉体的疲労とは無縁なんだから、そりゃ、氷漬けが溶けた途端に、すたこらさっさと逃げられるに決まってるわ」

「けど……」

 なおも言い募ろうとするマックを、今度はカールが制した。

「本当にいいのよ。あの絵の存在は、民衆にはまだ正式に公式されてなかった。――罰が当たったのね。無事修復されたら、いきなりばーんとお披露目して世間の度肝を抜いてやろうなんて思っちゃったから」

 心のこもった声で、カールは言った。

「本当にありがとう、マック。それにぼうや。――それから」

 マックの頬に、カールの手がそっと手を添えられる。

「――それから、早く体を治しなさいよ」

「――ああ」

 マックは、幼かった子どものころに返ったかのようなあどけない顔で言った。

「またな、カール」

 約束するように、言った。



 ……罪悪感からか、何度も何度もこちらを振り返る彼らに手を振る。

 森の中に彼らが完全に姿を消したのを見計らって、笑みを浮かべ、人知れずカルチェロッタは呟いた。

「……さて」



「アンナ、すまない」

 バルバザンは、素直に頭を下げる。至宝美術館の暗い地下に、バルバザンは再び戻ってきていたのだ。

「あの女を倒すことは、できなかった」

 少女は答えない。バルバザンは、彼女のご機嫌をとるように言った。

「だが、心配しないでくれ。あの女は必ずおれが倒す。大丈夫、ちょっと油断してただけだ。今度は――」

「この役立たず!」

 ヒステリックな罵倒に、バルバザンの引きつった笑顔が凍りついた。

「あ、アンナ……?」

 なまじ整っているだけに、激しい怒りに駆られたそれは見るに堪えない。

 鬼のような形相のアンナは、絵から出てつかつかと歩みよるなり、バルバザンのほほをぴしゃりと叩いた。

「せめて、あの本だけも始末してくれればよかったのに!」

 平手打ちされたほほを抑え、バルバザンは戸惑ったまなざしをアンナに向ける。

 愛する女性のこんな冷たい目を、彼は初めて見た。

「どうしても始末しなけりゃいけなかったのよ!」

 口汚く、アンナは言った。

「でないと、ばれちゃうじゃない! 本当はあたしが英雄でも光の聖女でもなかったことが!」

 バルバザンの顔が驚愕に染まる。

 激情に駆られた彼女に、バルバザンの表情の変化を読み取ることは不可能だった。

「はっきり言っとくけどね、あたし、あんたのこと好きじゃなかった」

 常冬の女王の吹雪より冷たい視線で、彼女は言った。

「ここに来たとき、正直ラッキーって思ってたのよ。学校の連中はうざかったし、あたしには霊感があるんだから、もっと特別な女の子になりたいって、ずっと思ってたのよね。あんたたち聖霊の自由なんか、最初からどうでもよかった」

「言っとくけどさ、あんたたち聖霊を縛っているものなんか、もう何もなかったの。ただ、人間も聖霊もお互いがいなきゃ存在できない、この絆は永遠なんだって信じてただけ。――あのさあ」

 バカにしたような目で、彼女は言った。

「魔法ってさ、いつかは解けるのよ」

 アンナという聖女。

 バルバザンが固く信じ続けてきた魔法。

 怒りが仮面を被る余裕を失わせたのか、それとも、バルバザンの愛は自分にあるという傲慢からか。

 いや、これはただの八つ当たりだった。

 長い間積み上げ続けてきた光の聖女という虚像。

 それが脆くも崩れ去るかもしれないという不安の裏返しに、とにかくアンナは彼女の言うところの『役立たず』の傷つく顔が見たかったのだ。

 彼女の歪んだ希望は叶った。

 ――だが。

「じゃあ、お前、お前は……」

「ついでに言うとさ、あんたが自分の子どもだと思ってた、あの二人もあんたの子じゃない。あの二人の子はね、別の男の子ども」

 これは、余計だった。

「う、嘘だ……」

「幽霊と子どもなんか作れるわけないじゃない。バッカみたい」

「う、うそだああああ!」

 近くにあった絵の具の壺をとる。

 それは、黒の絵の具。「何するのよ!」、アンナの顔が一気に青ざめた。

 彼を止めようと駆け寄る。一歩遅かった。絵から出たアンナが消えた。

「消えろ、消えろおおお!」

 アンナの顔、左半分が黒く塗りつぶされた。残った半分から、悲鳴があがる。

 

 ――べしゃっ、べしゃっ。

 

 音がするたび、黒い絵の具が、どんどんアンナの顔を塗りつぶしていく。

 もう、悲鳴も聞こえない。

「ふー……、ふー……」

 カンバスの中で、黒い絵の具に塗れた右手が、助けを求めるように小刻みに震えている。

 

 ――べしゃり。

 

 黒い絵の具が、右手首から先を、塗りつぶした。

「こんなの、アンナじゃない、こんなの、アンナじゃ……」

 カンバスにほほを押しつけ、バルバザンは呟いた。

 ずるずると崩れる膝にあわせ、その顔に、べったりと黒いラインが引かれていく。

「あーあ」

 後ろで声が聞こえた。

「せっかくの絵を台無しにしちゃって」

 そこにいたのは、カルチェロッタ・リズヴールとかいう女だった。

 後ろには、リジーとかいう若い男を従えている。

 バルバザンは、虚ろになった瞳で尋ねた。

「アンナは……。おれのアンナは……。本物のアンナはどこにいる?」

 カールはにっこりと微笑んで、バルバザンの後ろを指さす。

「それなら、そこ。いま、あなたが消しちゃったじゃない」

「違う!」

 カンバスを、どんっと突き飛ばす。

 ヒステリックに、バルバザンは叫んだ。

「ちがうちがう、ちがうちがう! こんなのアンナじゃない!」

 バルバザンの両目からは滂沱の涙が。鼻からは大量の鼻水が。口からはよだれが伝う。

「アンナは、アンナはもっと、もっと……」

「――違わないわよ」

 冷たいカールの声が響いた。

「……あ?」

 彼女の顔には、聖女のような笑みが浮かんでいる。

「存在再現法と想念実現魔法の違いは、ただ一つ。それは、『この人はこんな人だった』と思うものを創るか、本人の想念を使うか。前者はもちろん本人じゃないけど、後者は違う。あんたが病床のアンナを描かせたときに使った魔法論式は、存在再現法。つまり、あんたはちゃんとアンナを創った」

 カールがすっと彼の横を通り過ぎた。

 彼女はカンバスを立て直し、転がった絵をかけ直す。顔面が完全に潰れ、右手も無残に黒く塗りつぶされたその絵を、カールはじっくり眺める。

 

 ――すんすん。はっはっ。――すんすん。はっはっ。

 

 バルバザンの喘ぎが、次第に大きくなっていく。

「だめね」

「……あああ」


 バルバザンの口から、堪えきれぬそれが漏れた。

「ああああ! ああああ!」

 両手で頭を抱え、バルバザンは芋虫のように転げ回る。

「――ほんと」

 両腕を組んだカールは、振り向きもしない。

「ほんとあんたは、バカな聖霊。本当に自分を思ってくれる人のことなんか、考えもしないで、こんなバカな女に言われるがまま、彼女を処刑した。その結果があれよ。聖霊たちは姿を消し、歴史の語り部はいなくなった。正しい歴史を伝えるものを、あんたは潰した」

 苦しみと悲しみにもだえるバルバザンに、カールの言葉は聞こえない。

「地面に埋められたレティアは、百年も苦しんだ。あんたは幸福ね」

 カールの大きな手が、バルバザンの頭を鷲づかみにする。頭蓋に、めりめりと指が食い込んでいく。バルバザンは、先ほどとは違う、苦痛の呻きを上げた。


『いまひとたび、我が腹に戻れ。存在抹消』


 砕かれた頭は、砂になって消えた。残った身体も砂と化し、消える。

 カンバスに向かって、リジーが腰を下ろす。ぽつりと彼は言った。

「――失敗しましたね、館長」

 

 べしゃり。

 

 カンバスに、べったりと黒い絵の具が飛び散った。

「ほんとにねえ」

 カールが、ため息をつく。

「せっかくアンナちゃんに、常冬の女王のこととか、スクラップ・ブックのこととか、色々吹き込んだのに……」

 光妃アンナの胴体を塗り潰したそれを、リジーはパテで丁寧に塗り広げていく。

「可哀想ねえ、彼女。それに、バルバザンも」

 カールは二人への同情を口にした。憐れみのひとかけらも込めずに。

「作戦に関しても、少しばかり発想が単純すぎたわ。まさか想念と魔力を本に戻し、戻し切れない余剰魔力をもう一度集めて、まったく別の魔術を編むだなんて。しかも召喚獣を使って、それを効率的に撒くとはねえ」

「さすがは“さすらう者”、と言ったところでしょうか」

 黒が、どんどんカンバスを侵食していく。やがて、絵は一面黒いだけの絵になった。

「描けそう?」

「任せて下さい」

 短くリジーは言った。白を乗せた絵筆が、二人の人間の輪郭をとる。

「でも、どうしますか? これで聖霊先史時代のことを知る手掛かりは――」

「聖霊先史時代のことなんか、どうでもいいわ」

 ぴしゃりと、カールは言った。

「それより、時の魔法よ。時に関する魔法。“さすらう者”が持っているだろうそれを、あたしはどうしても手に入れたい」

 カールの表情が変わった。平生、到底想像できぬほどの沈痛な口調で、彼女は言った。


「……産まれることのなかった、あの子のために」


 次の瞬間、表情が翻った。明るい声で、彼女は言った。

「リジー、あんたもそうでしょう?」

 自分の腕を這う蔦を見る。同意を求めたそれに、努めて冷静に彼は応じた。

「――ええ」

 その時ふいに。

 どうした気まぐれか、カールの頭を一瞬、ほんの一瞬だけ、あの少年の顔がよぎった。


 ――なんでここ、死霊と魔霊がいないんですか?


「……見抜かれちゃったかしらねえ」

「何か?」

 リジーが振り向く。

 カールは急いで頭を振った。

「何でもないわ」

 いつもと変わらぬ陽気な口調で彼女は言った。

「ま、お楽しみは次にとっておきましょう。次に……。ね?」

 楽しげに、カールは笑う。艶然とした、しかし、見た人々を震え上がらせる笑みだった。リジーは再び黒いカンバスに向き直った。

「――はい、カルチェロッタ。偉大なる“名も無き聖霊王”の妻――聖霊たちの母よ」

 二人の周りを、死霊と魔霊が悲鳴をあげながら踊り狂った。


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