せかい

安佐ゆう

一人暮らしの咲月の世界

 カチリ。

 聞きなれた小さな音がして、視界が急に明るくなった。

 分かってはいたのにまぶしくて、咲月さつきは軽く目を閉じる。

 部屋の灯りをつけたのは咲月自身。アパートの廊下の電灯が切れてもう一ヵ月ほどになるが、付け替えられる様子はない。月もないこんな夜に真っ暗な廊下は少し不自由だし危ない。

 けれど咲月は暗闇の中を歩くのが嫌いではない。スイッチの位置だってもう体が覚えている。

 玄関の鍵は忘れず閉める。靴を脱ぎ、丁寧に靴箱に収めてから部屋に入った。


 咲月の世界はとても狭い。

 狭くて、きちんと整っている。


 朝は決まった時間に起きて布団を畳む。いまだにベッドを買わないのは、それを置くほど部屋が広くはないからだ。

 朝食には時間をかけない。トーストとコーヒーで簡単に済ませて仕事へ向かい、そのまま暗くなるまで働く。今の仕事は大変だけれど嫌いではない。始業時間が遅くて朝の支度にゆとりがあるのが気に入っている。

 仕事が終われば、コンビニで弁当を買って家に帰る。独り身の咲月の夕食は、大抵弁当で済まされる。最初の頃こそ家で料理も作ったが、今では包丁もまな板もキッチンの飾りにすぎない。


 今日も小さなちゃぶ台に弁当を置いて、電気ポットで一杯分の湯を沸かす。お気に入りのマグカップはコンビニでおまけに貰ったもので、もう何年使っているだろうか。ティーバッグで簡単にお茶を入れて、ちゃぶ台のところに戻る。

 誰も見ていないけれど、手を合わせて無言で頭を下げてから弁当を食べた。

 家の中で声を発することはほとんどない。

 一人暮らしとは、そんなものだろうと思う。


 最低限の家具しかない部屋は殺風景で、いわゆる女性らしさというものは感じられない。唯一必需品ではなさそうなものは、部屋の隅に置かれたカラーボックスだけ。そこにはこの部屋に不似合いなカラフルな背表紙の本が数冊と、雑多な小物が並べられていた。

 咲月はちゃぶ台を片付けてから、小物のひとつを手に取った。一番お気に入りのそれは、古びて白っぽくなった革のバングルだ。男ものだろうか、咲月の細い腕には緩すぎて使えないが、埋め込まれた赤い石を眺めるだけで、幸せな気持ちになれる。


 しばらくの間うっとりとバングルを眺めてから、それをもとの場所に戻す。雑貨の棚に統一感はない。アクセサリーや人形があると思えば、その隣には拳ほどの大きさの石が並んでいる。どこの国のものとも分からない古びたコインや小さな木の実のようなもの。それらの一つ一つには決まった場所がある。バングルは木の実の隣に鎮座した。

 棚を眺めて、咲月はほうっと息をついた。


 シンプルに片付いた部屋を一度、確認するようにぐるりと見まわしてから、咲月は居間の灯りを消す。

 カチリ。

 部屋が闇に包まれる。

 外からの灯りもカーテンにさえぎられて入ってこない。真っ暗な部屋の中で一人、咲月は目を閉じた。

 すると、暗いはずのまぶたの向こうが、ぼんやりと明るくなる。その灯りに向かってゆっくりと、咲月は足を踏み出した。

 一歩、また一歩。明かりはだんだん強くなる。咲月は一層きつく、ぎゅっと瞼を閉じた。

 一歩、また一歩。


「痛っ」


 何かにつまずいて、思わず目を開けてしまう。そこは相変わらず真っ暗な部屋の中だった。手探りで足元を探すと、小さな何かが手に当たったのでそれを拾う。

 咲月は元の位置に戻って、部屋の灯りをつけた。

 カチリ。


 手に持っていたのは、何かの金属と木のようなものを組み合わせたオブジェだった。矢じり……のようにも見えるが、それが何かは分からない。

 ただ、確かにそれは、さっきまで部屋の中にはないものだった。


「今日こそは、行けると思ったんだけどな」


 向こうの世界へ。

 暗闇の中で目を閉じると、ぼんやりと見える灯り。その向こうの世界へ。


 手に持ったオブジェをカラーボックスの所に持って行った。置き場所はもう決まっている。

 寝る支度を整えて、明かりを消し、いつものように冷たい布団に入った。目を閉じると、真っ暗なはずなのに瞼の向こうはぼんやりと明るい。

 咲月はその灯りに向かって手を伸ばしかけて、やめた。

 また明日がある。

 明るい闇の中で、咲月は一人静かに眠る。


 咲月の世界はとても狭くて、きちんと整っている。


 いつでも心置きなく、向こうの世界へと行けるように。


【了】

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