第353話 【真珠】『TSUKASA』映像アーカイブ


 母が淡々とした口調で、父に言葉を投げた。


「誠一さん、わたし昨夜言ったわよね? 克己くんには迷惑をかけないでって」


 答えられずに口ごもる父を真っ直ぐ見据えていた母は、次いで紫織ゆかりと克己氏に視線を移す。


「聞いたわ、紫織くんから。今日、紅子がこのホテルにやって来たのは、あの子と──葵衣と会うためなんですってね。みんなしてコソコソと……影で何を示し合わせているのかと思えば──」


 母の怒りを感じた克己氏が、慌てて紅子の擁護にまわる。


「誤解しないで欲しいんだけど。紅ちゃんが葵衣さんに会っているのは、美沙ちゃんに他意があったわけじゃ──」


「知ってるわよ! 紅子がわたしに何かするわけないでしょう。そんなこと、わたしが一番よく分かってる。いまは夫婦の……家族の問題なの。だから、克己くん──アンタは少し黙ってなさい!」


 ピシャリと克己氏の口を閉じた母は、今度は父と貴志に向かって仁王像のような表情を見せた。


 克己氏は母の暴言を受け、一瞬だけポカーンとした顔を見せたものの、今度は目を細め「美沙ちゃんの『アンタ』呼び──懐かしいね。影のボスは健在だ」と口元をおさえ、なぜか嬉しそうに笑っている。


 母からなじられても笑みを絶やさぬ克己氏は、聖人君子?──いや、穿った見方をするとM属性!?


 紅子を愛せる夫というだけで偉人に匹敵するとは思っていたのだが、やはりちょっと……失礼ながら、凡人とは違う何かを持っているのだろう。多分。



 薄目を開けて寝たふりを続行中のわたしの身にも、母の様子を冷静に見守っていられない状況が差し迫る。


 美沙子ママがグイッっと貴志と父に詰め寄ったのだ──つまり、母はわたしの目の前にいるということ。


 現在、わたしは貴志に抱っこをされているため、母の怒気を直に浴びている状態だったりする。

 今後の展開を思うと胃が痛くなるはずなのだが、どうしたことか、ホッと安堵する自分が心の中心に居座っているのだ。


 ──その理由は、母の怒り方にあった。


 わたしの予想では、静かに怒りを湛え悲劇のヒロインよろしくウジウジと俯くものと思っていた母は、その想定に反し、感情を隠すことなく大噴火中なのだ。


 無言で恨みがましく非難の感情をぶつけられるよりは、こうやって爆発してくれた方がマシだ。そう思うのは、怒りの矛先が直接わたしに向いていないからなのかもしれない。


 それに加え、この場で安心材料を発見できたことも、わたしが安堵した理由のひとつだ。


 安心するに至った要因とは、克己氏の態度だ。


 彼が現在見せているのは、美沙子ママを見守るかのような穏やかな微笑──予測でしかないけれど、おそらく克己氏は母のこの怒り方を知っていて、それを懐かしいとさえ感じている節がある。


 母のことを昔から知る彼が、慌てる素振りを見せないと言うことは、つまり、そこまで深刻な事態に突入しているわけではない──と、言うことなのだろう。




「聞こえたわよ、誠一さん。わたしに訊きたいことがあるんでしょう──初恋の相手? 真珠のバイオリンを隠した理由? この際、全部答えるから、質問してちょうだい」


 母はまず最初に、ターゲットを父に絞ったようだ。

 その父はと言うと、珍しく激しい剣幕を見せる母にタジタジだ。


 蛇に睨まれた蛙の如く、何も言い出せない父に代わり、母の声が廊下に響く。


「わたしの初恋の相手は、貴志の本当の父親──月ヶ瀬正幸さんよ。克己くんには高校時代に正幸叔父さんの選んだ進路について、話をしたことがあったの──そうよね? 克己くん?」


 母が確認すると、克己氏は静かに頷いた。


「僕が進路選択で迷っていた時に、美沙ちゃんの叔父さんが留学していた話を教えてもらってね。そこで美沙ちゃんから、叔父さんが初恋相手だと教えてもらったことがあるんだ」


 なるほど!

 先ほど克己氏が、貴志のことをチラリと視界に入れたのは、そういう理由があったからなのか。


 この貴志の父親だ。

 きっと内面も素晴らしい男性だったに違いない。


 美沙子ママとわたし──月ヶ瀬母娘は、揃いも揃って直系の血に惹かれる運命だったのだろうか。


 いや? それって、祖父が血にこだわり続けるあまりに、娘と孫の遺伝子にその情報が組み込まれてしまったということか?──などという、どうでもいい考えが頭に浮かぶ。



 直後──我に返った父が、母に向かって新たな疑問を投げかけた。


「じゃあ、これは──克己のボタンの入ったこの袋を眺めては、昔から時々溜め息をついていたじゃないか……その理由は何だったんだ?」


 克己氏の手にあった黒い袋を指さし、父は訝しげな表情を見せた。



 待て待てっ 父よ!

 それは、いま訊いたら絶対に駄目なやつだ。



 その袋を勝手に持ち出したことが美沙子ママにバレるぞ──と焦ったのは、両親を除いたこの場にいる面子全員一致の意見だ。



 けれど──


「あら……いやだわ。着替えているときに美容室で、未使用の小物はご家族に渡しました、って言われたのよ。その袋のことだったのね。

 昨日、から取り出したから、わたし……うっかり持ち物に混ぜてしまったのね……」


 まったく違うのだが、ここで訂正を入れては進む話も進まない。

 よって、誰も何も答えない。


 沈黙は金なりを貫く貴志と克己氏は、余計な火種を呼び込まないよう即座に示し合わせ、「何も語るな」と、お互いに意思の疎通を完了させていた。


 察しの良い二人の対応に、わたしもホゥと息を吐く。


 父としても、妻愛しさのあまりに口をついてしまった失言だと、すぐに気づいたのだろう。

 周囲の咄嗟の機転によって、命拾いしたと感じているのは、その表情から読み取れた。


 だが、母はたった今「ボタンを隠していた」と断言した。

 先ほど、父が克己氏に対して「人目に触れないよう隠してあった」と説明した内容が、父の勘違いではなかったのだと証明されたことにもなる。


「やはり……隠していたのか……」


 肩を落として小さく呟いた父。

 母は「ええ、そうよ」と肯定した後、悪びれもせずに次の言葉を続ける。


「紅子と会ったあとに、いつも気づくのよ。このボタンを返そう返そうと思って、つい忘れてしまったことを──名前入りだから、捨てるのも流石に申し訳ないし……」


 そう言えば昨日、紅子は我が家を訪問し、貴志と追いかけっこをしていたのだった。


 そうか。だから、母はその袋を取り出して「また返しそびれてしまった」と溜め息をついていたと、そう言うことなのだろう。


 母の溜め息の理由は、理解できた。

 でも、どうして返却しようと思ったのだろう?

 それに、隠していた理由ってなに?


 次から次へと疑問が湧いてくる。


 男性陣も押しべて、同様の疑問を抱いているようだ。

 だが残念なことに、怒れる母の語りを途中で遮り、質問を繰り出すことのできる猛者はこの場にはいない。


「穂高と真珠が小さかった頃、この袋の中身を取り出して遊んでいたことがあってね。その都度慌てて取り上げて隠したのよ。この大きさのボタンを子供が口に入れたりしたら、誤飲の心配もあるでしょう? ずっと……意固地になって母親役を放棄していたとは言え、命に関わることについては、これでも一応注意はしていたのよ。それに……ほら──来年にはまた、赤ちゃんも生まれるから」


 そう口にした母は、申し訳なさそうにわたしを視界に入れた後、今度はその視線をお腹へと移した。


 母は、まだ膨らみさえ見えない下腹部を、大切そうにさすっている。

 その姿からは、過去の確執に苦しめられるあまり、己の殻に閉じこもる後ろ向きな様子は微塵もない。


 いや──それどころか、どちらかと言えば「前を向いて歩き始めている」と言った方が似つかわしい気さえする。



 それにしても克己氏、まさにビンゴだ──先ほど「名前入りのために捨てるのが忍びなかったのでは?」と言った克己氏の予想は、見事的中したのだ。


 こんな窮地にいると言うのに、思わず感心してしまう。


 母のことを、実は我が父よりも理解しているのではないか?──とさえ思える、ドンピシャな正解には畏れ入るばかり。



 ──しかし、誤飲か。


 母が、その袋を人目につかない場所に隠していた理由がここで判明したのだが、親になったことのないわたしには想像すらできなかった回答だ。


 初恋を忘れられない疚しさから克己氏のボタンを隠していたものと思い込み、傷心していたであろう父。

 だが、母の真意を知った今は「そう言うことだったのか」と、その理由に納得したように頷いている。



 『真珠』の記憶をひっくり返してみると、そういえば……金色でキラキラしたその丸いボタンには、なんとなく見覚えがあるような気が……しないでもない。


 掌で握ると丁度良い大きさだったこともあり、時折そのボタンを宝物に見立てて宝探しをしては、握りしめて遊んでいたような記憶も……ある。


「誤飲……確かにそれは危ないね。捨ててもらっても構わなかったのに、美沙ちゃんは相変わらず義理堅いというか……でも、ここに僕が居合わせたのも何かの導きだ。そういうことなら、ボタンはこのまま僕が預かるよ」


 克己氏は『誠一パパ、小袋持ち出し事件』については一切触れず、サラリと話を纏め上げていく。

 恩着せがましくもなく、スマートな対応には拍手喝采を送りたい気分だ。



 金ボタンの件でワンクッション置かれ、母の苛立ちは幾分緩和されたのかもしれない。

 母の声とオーラの両方から憤怒の色が消え、徐々に落ち着きを取り戻していく様子が伝わった。



「それから……真珠のバイオリンを隠した理由はね……わたしの過去のトラウマも、勿論かなり含まれているのは否定しないけど──それだけじゃないの」



 そこで突然、母の声がすうっと潜められた。



「克己くん──わたしが公開を禁じてほしいとお願いした、この子が倒れた時の動画──あれは、『TSUKASA』の映像アーカイブに、残っているんでしょう? 悪いけど後日、それをわたしと誠一さんに見せてほしいの……」



 わたしは驚愕のあまり、思わず目をパチッと開けた。



 あの演奏は、母の手によって闇に葬り去られたものと思い、完全に安心しきっていたのに。

 まさか、今になって、この話題が掘り返されることになろうとは、誰が想像できただろう。



 呼吸すら忘れたわたしは瞬くこともできず、目の前に立つ母の姿を追った。



 あの動画を改めて観た両親は、わたしの変化に何を思うのだろう?



 物理的な震えと、心理的な不安。

 その双方を必死に抑えたくて、わたしは貴志の首に回した自分の腕に──知らず……力を込めていた。








【後書き】


■更新について■


長患いが続いていたのですが、ここにきて急激に体調が悪化してしまい、先週は更新できずに申し訳ありません。


体調不良の件で主治医と話し合い、来春手術を受けることが決まりました。

痛みで思考不能状態になることも多く、しばらくの間は日常生活優先で、体調の良い時は先行公開しているメインサイトで物語を進めることに力を入れようと思います。

(単なる転載作業ならナントカできそうなのですが、推敲もしている関係で、思考が纏まらないとカクヨムさんにて更新出来ない状態なのです……)


更新を楽しみにしてくださる読者の皆様には大変申し訳ありませんが、日常生活に気力体力を回し、手術までの時間をなんとか切り抜けたいと思います。


手術は春先を予定しておりますので、手術が無事終わりリハビリも落ち着きましたら、転載作業を再開する予定でおります。

ご理解いただけますと嬉しく思います。


青羽根深桜

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その悪役令嬢、音楽家をめざす!〜恋愛音痴でごめんなさい。バイオリンが恋人です!〜 青羽根 深桜(あおはね みお) @Ao-ba

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