明日にはきっと、

清野勝寛

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明日にはきっと、



 テーブルの上には、離婚届。二人の印が押されている。テーブルを挟んで向かい合う男女。男は無表情にテーブルの上で手を組んで離婚届を見つめている。女は驚愕の表情を浮かべ、紙切れと男を交互に何度も見ていた。

 やがて、女がいつものように叫ぶ。

「……しんっじらんない! あんた、どんな神経してたらこれに名前書けるの!? 判を押せるの!?」

 女は叫びながら、テーブルを思いきり叩く。深夜にこれだけ騒げば苦情の一つも入りそうなものだが、高層タワーマンションはしっかりと防音されており、誰にも女の怒りは届かない。目の前の男にさえ。

「……これが僕の気持ちだよ、それじゃ」

 男は静かな口調でテーブルの上にあった紙を手に取り、家を出ていった。

 とうとう、男が女を視界に入れることはなかった。部屋には人形のように椅子へ腰かける女が、ただそこにいるだけだった。


 次の日になっても、男は女の下へ帰ってこなかった。女はただ怒っていた。自分を放って何処かへ行ってしまった男に対して。ただ、それだけだった。スマートフォンで男に連絡をしても、返信がない。電話は着信拒否されているようだ。女は更に激昂した。部屋の中を暴れまわり、散らかした。けれど、その怒りは誰にも届かなかった。

 次の日も、その次の日も、男は女の下へ帰っては来なかった。女は少しずつ冷静になっていった。まさか、本当に……。一瞬過った不安は、中々拭えない。専業主婦として二十年近く男に養われてきた女は、男がいなければ、生きていくことさえ出来ないのだ。けれど、女は誰にも相談が出来なかった。

 両親とは絶縁関係にある。男と出会うまで、女は両親から「出来損ない」と言われ、激しい暴力を受けていた。女は両親を恨み、家を出て、そこで男と出会ったのだ。男は、女に優しかった。二人は直ぐに同棲し、籍を入れた。けれど、一緒に住み始めてから、女は少しずつ、男のずぼらな所が鼻につくようになった。

 最初は優しい口調で、少しずつ改善していこうと提案していたものが、何年かの間に、怒りに変わっていた。自分より五歳も年上のくせに、どうしてそのくらいのことが出来ないのかと罵った。男は女に謝った。次から気を付けると頭を下げた。何度目かの男のその台詞に、女の怒りは爆発した。

 それ以降、女は毎晩、仕事から帰った男に説教した。「何も考えていないから同じことを繰り返すのだ」「悪いと思っていないから、心が痛まないのだ」「このくらいのことも出来ないお前は出来損ないだ」と。時折男に物を投げつけたり、腹を蹴ったりもした。


 そこまで思い出して、女は気付いた。自分がやっていることは、これまで自分が両親にされてきたことと全く同じなのだと。女は絶望した。あんな両親みたいには絶対になりたくない、幸せになってやると家を飛び出した筈なのに、今女は両親と同じことを別の人間にして、幸せなどほど遠い、怒りと悲しみしかない生活をしていたのだと。これでは男に愛想を尽かされても、何も文句は言えない。女は祈るように、男に「自分が悪かった、やり直したい、だから帰ってきて欲しい」と連絡を入れた。返事は来なかった。


 ようやく男が女の下に現れたのは、それから三ヶ月後だった。家の扉が開く音に、女は嬉々として玄関に駆けていく。まず最初に、謝らなければ。地に頭をつけて、誠心誠意謝ろう。

 女が出迎えると、男は、見知らぬ男と一緒だった。久しぶりに見る男の顔は、自分と一緒にいた時よりも明るく、目の下のクマも消えていた。

「おかえりなさい、あの、その方は……?」

 女が男に問うと、男ではなく、もう一人の、女の見知らぬ男が答えた。

「弁護士をしております、佐藤と言います。本日裁判所への来訪に貴女が応じられないため、直接、日取り等をお知らせするために参りました」

 佐藤と名乗った男が、何を言っているのか、女ははじめ理解出来なかった。応答せずにいると、佐藤が続けて、話していく。

「郵便物を確認頂けてないようですので、改めて奥さまの現状から、今後の裁判の流れについて、説明していきますね」

「ちょ、ちょっと待って、裁判って……」

 女の戸惑いを意に介さず、佐藤は話を進める。

「ええ、裁判です。届け出は済んでいるようですが、財産分与と、旦那様からの慰謝料請求とが争点となります。調停は済んでいるとの認識ですが、ご納得頂けない場合、そちらも含めて、裁判となります。日付は……」


 佐藤は何かを説明し続けたが、女は何一つ理解することが出来なかった。何故なら女は、本気で男と離婚したくて、離婚届を用意したわけではなかったからだ。数年前から、男に自分の話を真剣に聞いてもらうための道具として使用していた。女は自分の愚かさに涙を流し、地に頭を伏せて、謝った。許しを請う。けれど男は佐藤に「行きましょう」とだけ行って、さっさと部屋を出ていった。


 女は考えた。どうすれば男とやり直せるのかを。まず、男の実家に一人向かった。家を出た男がいるかもしれないし、話し合いの場を取り持ってもらえるかもしれないと考えたからだ。

 結果、男はおらず、門前払いをくらった。玄関に伏せた女に、男の両親は塩を撒いた。やむ無く女はその場を離れる。

 次に、男の職場に出向いた。男の上司や同僚なら、話を聞いてもらえると思った。

 男は仕事を辞めていた。今何処にいるか知っているか聞いても、知らないの一点張りだった。

 女は諦めなかった。男に謝罪して、やり直さなければならない。いつの間にかそれは、自分の使命であるかのように女は考えていた。お互いもうすぐ人生を折り返す。子もいない。男も私も、このままでは孤独になる。孤独のまま死んでしまう。それはダメだと、女は思っていた。

 女は探偵を雇い、男の居所を調査してもらうことにした。女が自由に使える金は、底をついたが、家にあるものを売って、なんとか耐えた。

 男はなかなか見つからなかった。まるで女の行動をすべて読んでいたかのように、男は姿を消していた。

 女は、男が雇った弁護士の佐藤に連絡を取った。電話を掛けたが、なかなか繋がらず、直接出向いた。

「顧客の個人情報はお教え出来ません」

 佐藤は憐れんだ目で女を見下し、そう言った。

「周辺に盗聴、盗撮に使用する機器がありましたので破棄しました、と依頼した探偵の方へご連絡ください。あまりこういうことは言いたくありませんが……あなたがやっていることは、ストーカーですよ。こちらから訴えれば、さらに酷い目を見ます。これは善意です。潔く身を引いて、裁判までお待ちください」


 女は、がらんどうの部屋で、ひたすら泣き続けた。何を食べても味がしない。体も顔も、すっかり痩せてしまった。どれだけ祈っても願っても、全てが元に戻ることはない。けれど、女は諦めていなかった。明日にはきっと、男が自分の下へ帰ってきて、今までのような生活が出来る。これは罰なのだ、男へ自分がしてきたことへの報いなのだ。どんな地獄にも、終わりはある。それならば、どんな惨めな思いをしても、耐えてみせる。女は地獄の終わりを待った。ひたすら待った。


 それから数週間が立った頃、家の扉が開いた。家の中には、人形のように動かなくなった女が横たわっている。空腹で動けなくなった女の下に、足音が近付いてくる。

(あの人が帰ってきてくれた……! ああ、帰ってきてくれた……!!)

 目を開き、虚ろな視界で女は足音の主を捉える。


 つなぎを着た二人の男と、女は目が合った。そこにいたのは、女が待ち焦がれた男ではなかった。

「う、くせ……うわぁ! ひ、人だ! 人がいる!」

「生きてんのか、こいつ……と、とにかく、救急車!」

 二人の男は口元を抑えながら、外へ走って出ていった。

「……そんな……」

 女は絶望した。地獄は、終わらない。何処までも続く。終わらない。男には会えない。この苦しみから解放されない。けれど女は文字通り渇いてしまったため、涙さえ流せなかった。女はこの部屋と同じく、がらんどうだった。


 女は運ばれた病院のベッドの上でも、男が現れるのを待った。医師の問診にも答えられないほど衰弱していたが、それでも、女の意志が薄れることはなかった。


 点滴中の女の下へ、男が現れた。女は何度も目を擦ったが、男は消えない。今度こそ本物だ。女は感激のあまり、涙した。けれど、声が出ない。女は衰弱しすぎたせいで、声を失っていた。

 男が病室の窓辺に歩いていく。女は何とか力を振り絞り、よろよろと男の後ろを付いていく。あぁ、あぁ、これでようやく、地獄が終わる。夢見た明日が待っている。今度こそ、やり直そう。今度こそ、ちゃんと向き合って、幸せになろう。


 月明かりが女を照らす。男が空へ空へと女を導く。女は男に導かれるまま、窓を乗り越え――空を飛んだ。



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