第7話 恋におちれば

 目の前に横たわる男は動くことさえ辛そうで、放っておいても息絶えてしまうような気さえしていた。アイの細腕でも、たった一本の小さなナイフでも止めを刺すのは容易い。


 殺めろ。


 そもそものアイの目的を手助けするようなお膳立て。それを遂行すれば、自分だけは助かるかも知れない。


「……やっぱり、出来ません」


 カランカラン。


 握っていたナイフが、手の中から滑り落ちた。


「人を殺める事は……徳さんを殺める事は、私には出来ません」


 震えている。


 ナイフを離したアイの手が、身体が、その両目が。涙を流して震えていた。


「だって、徳さんに天使だって言われて……泣くほど嬉しかったから! こんな私を好きだって言ってくれてドキドキしたから! 私も……徳さんが好きになったから!」


 キッ!


 流れ落ちる涙を切るように徳に背を向け、その身を挺して徳を守ろうと両手を広げた。


「愚かな……ハーキョックなんて魔界のバケモノを素直に相手していたラヴリエルの下に付いていただけあって、貴女も生きるのが下手クソなんですね」


 グッ。


 巨大な拳。ただそれだけで、アイの体よりも大きな拳を強く握り締める。


「命令通りその人間を殺していれば、貴女に生きる道もあったでしょうに」


 ズゥウウウウウウン!


 衝撃で地面が、城の全部が揺れ動くような振動がした。当然の如く徳も、その前に立つアイも一瞬にして潰される……はずだった。


「っ!?」


 ケコンシキーの拳は、寸での所でアイの体まで届いていなかった。


 大剣。


 巨大な拳を、同じく巨大な剣によって受けている。それを持つ男は徳。右手で大剣を、そして左の手は、アイの体を守るようにして握られている。


「なっ、マナソードが!?」


 元々の大きさも人が両手で持つのも苦労するような大きさだったにも関わらず、今のマナソードはそれよりも数倍大きな剣となっていた。しかも徳は、それを軽々と片手で握っているのだ。


 ――ドゴォオオオオオオオオオオオオオオン!


 爆音と共に、ケコンシキーの巨大な拳が弾かれる。


「バカな! たった一人を愛しただけの力が、これ程の物になるワケが無い!」


「そうかもナ……でも!」


 むぎゅっ。


 アイを抱える左手に力を少しだけ加えた。掴んでいるアイの体。正確にはその慎ましい胸に触れている手に力を加えた。


「あっ、あの徳さん。守ってもらえて非常に嬉しいのですが、だからきっとこれは不可抗力でしょうが……ムネに、そのっ、手が」


 フッ。


 徳はアイに微笑みかけると、さらにその手を何度もモニュモニュと動かした。


「不可抗力? それは違うな。もし俺がアイを守ろうとして、偶然手がおっぱいに触れたら只のラッキースケベだった。でも、俺はおっぱいを触りたくて触ったスケベラッキーなんだ!」


「それは只のスケベです!」


 ぷくーっ。とアイが頬を膨らませるが、徳はその手を離さなかった。大好きな女の子を守りたいから、それもある。でもそれ以上に、愛している女の子に触れたいから。


『フフフ……ハーッハッハッハ!』


 マナソードから、ハーキョックの高笑いが聞こえてくる。それを聞いて、これまで顔色一つ変えなかったケコンシキーが初めて曇った表情を見せた。


『ようやくマナソードの真の力を……邪剣マナソードを開放したようだな』


「邪剣……まさかこの人間は!?」


『フフフ、そうだコイツはモテたいのにモテる事の無い運命だった可愛そうな男。そして心の奥底に欲望を渦巻く変態。もはや邪心の塊。邪剣マナソード……いや、今や立派なヨコシマナソードの使い手だ!』


 ヨコシマナソード。


 人の想いを強さに変えるその剣が、今は徳の欲望のままにその力を発揮する。


「俺は……アイのパンツが見たい!」


 ドゴォオオオオオオオオン!


 再び爆音。拳だけでなく、ケコンシキーの巨大な体に傷が付く。


「一緒にお風呂入って、体を洗うフリしておっぱいを触りたい! そんでもって『もうっ、徳さんはエッチですね』って叱られたい!」


 ドゴォオオオオンン! ドゴォオオオオオオン!


 ケコンシキーの巨大な体に、怒涛の斬撃が浴びせられる。


「スク水姿のアイが見たい! ブルマもたまらんだろう! ネコミミにメイド服のアイにお世話されたいんだぁあああ!」


 ドッゴォオオオオオオオオオオオオン!


 容赦ない攻撃。徳の想う欲望の限りを言葉にしながら、ヨコシマナソードを振り回す。


 ズ、ズズゥウウウウウン。


 ケコンシキーが、その巨大な体が膝を付く。


「ハァ……ハァ……人間よ、そして使途よ。本当にこれで良いと思っているのですか?」


「ええ、魔人ハーキョックの事……ですよね」


 魔人。


 その力は強大な物である事は、天使や悪魔とは無縁だった徳にでも分かる。大天使ヴァーカップルと一戦交えた時のフリンでさえ、あれだけの力を持っていた。その遥か上の存在である魔人は、神はおろか天界や人間。全てを滅ぼす力を持った存在だと、徳にも理解出来る。


「貴方達が結ばれる事で、一生恋人の出来ない運命の貴方が恋人を作る事でハーキョックは魔界で自由を得る。それはつまり人類も天界も、全てが滅ぶ事と同じです!」


 バァアアンッ! バンバンバァアアアンッ!


 膝を付いたまま、思い切り城の地面を叩き始める女神ケコンシキー。ヨコシマナソードの力に押されて、悔しくて叩いているようには到底見えない。


 バッゴォオオオオオオオオオオオン!


『っ!?』


 徳が、アイが。城中の天使達が驚いた。地震とは無縁であろう空の上。天界の城が、ケコンシキー城がグラグラと揺れだしたからだ。


「徳さん逃げてっ、城が崩壊します!」


「おっ、おう!」


 ビュビュビュンッ!


 大慌てで城の中から逃げ出す天使達に紛れて、アイを抱きしめたまま脱出する徳。ヨコシマナソードの力で飛びながら移動する際に、徳は違和感を覚えた。


「ん?」


 天使達の動きが早い。いや、徳自身の動きが遅くなっている事に気付いた。何とか城の崩壊より先に脱出は出来たが、何故だか嫌な予感がした。


「アイ!」


 徳はアイを強く抱きしめた。触れたいから、抱きしめたいから。温もりを感じたいから。でも一番は、不安だったから。


 スゥーッ。


 ヨコシマナソードが徳の手から離れるようにして消えていった。


「徳さんっ!」


 ヒュゥウウウウウウ――。


 高い高い空の上の世界。天界から地上へと落下していく。


 徳とアイはお互いに抱き合ったまま、天から真っ逆さまに落ちて行く。


「ハーキョック! おいどうなってんだ、マナソードが消えたぞ!」


『…………』


 呼びかけるが、剣そのものが無い事もあってか返事は無い。マナソードの力が切れたのか。徳自身の体にも、魔力がほとんど感じられなくなっている。ようやく愛する人を救い出したのに、このままでは確実に二人とも命は無い。


「……徳さん。ごめんなさい、私なんかを助けに来たばっかりに」


「アイ……謝らなくていいんだ」


 涙。


 自分のせいで、こんな事に巻き込んでしまったとアイは責任を感じているのだろう。その目には涙が浮かんでいた。それを見た徳は、天から落ち行く中で不思議と冷静さを取り戻した。


「こんなに近くにアイが居るんだ。何も悪い事なんてないよ」


「私なんかっ、何の役にも立たない使途で……本当の天使だったら、徳さんを助けられたのに」


 スッ。


 徳はアイの顔から涙を拭うと、ギュッと体を抱き寄せた。


「……んっ」


 重力に引かれて体は地面に向かって落ちているのに、二人の顔と顔は愛の力によって自然と引き寄せ合ってその距離がゼロになる。


 柔らかい。


 周りの時間が止まってしまったかのような錯覚。


「ふふっ、キス……しちゃいましたね」


 その瞳には、まだ流れきっていない涙が確かに溜まっていた。それでも、アイは幸せそうに微笑んでいた。


 思えばアイの笑った顔を初めて見た。出合った頃には泣いていて、使途だと虐げられては泣いて、迷惑をかけたと謝っては泣いてばかり居たからだ。


「泣き虫のアイも可愛いけど、やっぱり笑った顔の方がもっと可愛いナ」


 ぎゅっ。


 愛おしい。そんな想いでアイを抱き寄せ、二人はまた口付けを交わす。落ちている間に何度この行為を繰り返しただろうか、何度も何度も愛し合った。


「徳さん……私、もっと一緒に居たいです」


 バッ!


 出合った頃は、翼を失くした天使のように思えた少女だった。しかし、今のアイの背中には他の天使達のように羽がある。白い羽ではなく、真っ黒な翼だ。


「えっ、これって……?」


『フン、ようやく堕ちたな』


 驚くアイに、ハーキョックの声が届いてきた。ここにマナソードは無いのに、確かに声が聞こえてくる。元々マナソードから話していたわけではないのだろうか、とにかくハーキョックは言葉を続けた。


『これで貴様は堕天使だ。早くその男と地上に降りてくるんだな』


「堕天使……そうですよね、女神ケコンシキー様に逆らったから」


 今まで天界で使途として生きてきたアイは、少し寂しげに自身の黒い羽を見た。でも、今はこれで徳を救える。これからも一緒だ。そう思うと、自然と笑みがこぼれる。


『オロカモノ。もっと違う理由がある事くらいは、自分でも分かるだろう』


 フッ。


 姿は見えないが、その声からハーキョックは笑っているように感じた。


『人間が、まさか使途を堕天使にするとはな。人間界の奴らも天界の奴らも、まだしばらくは生かしておくか……』


 ボソリと呟くその言葉は、果たして徳やアイには届いたのだろうか。


「徳さんっ!」


 バサッ!


 漆黒の羽が、宙に舞う。勢い良く落下していた景色が、ふわり。ふわりとなだらかに見えるようになった。


「その黒い羽も、綺麗だよ」


「もうっ、からかうと徳さんだけ落としちゃいますよ」


 うふふっ。


 アイの顔は、もうすっかり涙は消えた満面の笑み。そして二人はゆっくりと羽ばたきながら落ちていく中で、幸せなキスを何度も何度も交わし合った。


 堕天使。


 それは天使が神に反逆した成れの果て。


 徳に天使だと言われた時から、アイはもう堕天使になっていた。何故なら、その瞬間から二人は恋に堕ちてしまっていたのだから。

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泣き虫天使と恋におちれば かさかささん @richii

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