Ⅴ 闇の王

「無礼なのはどっちだろうな? 私のを勝手に引き止めたくせに」


 ふわりとした濃い金色の髪に紅玉色の瞳をした地下の王は、くるぶしまで隠れる黒衣の裾をひらめかせ、この世のものとは思えぬ程の美貌を歪ませて微笑した。


「まあいい。久しぶりに青の乙女の麗しい顔が見たかったものでね。なんせ地下は騒がしい亡者どもばかりでうんざりだ。で、お前がそうだな」


 ミディールは身動きしないノルンの顔を覗き込んだ。

 ノルンは薄い唇を噛みしめたまま、闇の王の瞳を冷静に見返している。


 死と闇を支配するミディールに触れられると、生ける者はその命を吸い取られ、死してのち永久に彼の傀儡と化す。

 ノルンはすでに魂のみの存在になっていたが、その形はまだ人の姿を保っている。

 

 ミディールの真紅の瞳が喜色に輝いた。

 満足げに肩を揺らし、くつくつと闇の王は地の底から響くような声で笑った。


「いかな私でも一国の都市を海に飲み込ませ、何千もの命を奪ったことはない。よかろう。お前は私を呼び出すのに相応しい堕ちた魂だ」


 闇の王はノルンの翠の瞳の上に、黒い手袋をはめた右手を滑らせた。


「ミディール、待って! お願いです!」


 青の女王の声にノルンの手が一瞬ぴくりと動いた。

 ミディールもまた唇に意地悪げな微笑を浮かべながら、ノルンの眼の上に手をかざしたまま動きを止めた。


「……ストラーシャ。お前がこの男を憐れんでいるのはわかるが、若いお前にこやつの魂は浄化できん。救うどころか、何百年が過ぎても消滅しないタチの悪い悪霊になり、海を荒らされるのがオチだ」

「わかっています」


 青の女王は碧い瞳を細め、凛とした態度で闇の王と対峙した。漆黒の闇の中にあってもその姿は自ら神聖な光を発し続けている。真珠のように。

 ミディールはそんな彼女の顔を蕩けるような優しい眼差しで見返した。


「ならば私を止めるな。美しき青の乙女よ。我が闇の眷属になることがこの男の唯一の願いでもある」


「願い?」


「ああ。海に飲まれた時私を呼んだ。風神ケイロスの加護を自ら捨て去り、審判の角笛が鳴り響くまで、我が元で使役したいそうだ。あの老鷹はこの男の魂が海に沈んだことを随分と悔しがっていたが、わかる気がする」


 ミディールのどちらかといえば冷酷さを帯びた顔に、一瞬だけ憐憫の情が浮かんで消えた。


「ケイロスといい青の乙女といい……人よりも神々が魅入られる純粋な魂の持ち主だ。死してなお人の姿を保ち続け、己が悪霊にならないよう腐心している。感心なことだ」


 ミディールはノルンの眼の上にかざしていた右手を黒衣の中へとしまった。

 再び現れたノルンの翠の瞳が、こちらへ向けられていることに青の女王は気がついた。


「ミディール。わかりました。ノルンはそなたの所へ行くのが一番良いのかもしれません」


 ミディールは小さくうなずいた。


「では早速連れていくことにする。世話になったな、ストラーシャ」

「待って下さい。彼の旅路は暗くて長い。その道を自ら選んだのですから、ひとつだけ私から餞別せんべつを授けたい」


 ミディールは羨むように隣に立たせているノルンを見つめた。


「神界で青の乙女は太陽神と一、二を争う美姫。人の子の分際でその情けを受けるなど、身に有り余る程の光栄だぞ」


 ノルンは眼を伏せミディールに同意した。

 彼が言葉を発しないのは、人の姿を保つのがそろそろ限界だからだ。


 青の女王はノルンの前まで歩み寄ると、白い両腕を広げて昏き体を優しく抱きしめた。先程、内に抱える悲しみが溢れそうになった時、彼が自分をそうして支えてくれたように。


「……ノルン。私がそなたを救ってやりたかった。でも今の私では無理なのです。だから、ほんの少しだけでいい。そなたの抱える悲しみを私に預けて下さい。そなたの魂が少しでも早くえきを終えて、輪廻の輪に戻れるように力を貸したいのです」


 青の女王は抱擁を解き、両手をそっとノルンの頬に添えた。ノルンの姿は足先から徐々に本来の魂の姿――海の底と同じ闇色へと変化しつつある。


 ノルンは瞳を閉じていた。その睫の影から一滴の涙が流れた。

 青の女王はそれを大切に両手で受けた。

 深い深い青をいくつも重ねたノルンの涙は悲しみの色に染まっている。

 その滴は真珠のように小さかったが、岩のようにずっしりと重い。


「ノルン、ありがとう」


 目の前にいるノルンの姿は、もはや人のそれではなかった。

 ゆらゆらと黒い闇の炎となって中空に浮いている。

 ミディールは満足げに唇を歪ませると、右手を伸ばして黒き炎へ触れた。

 炎が一瞬大きくゆらめくと、それは一羽の黒い鷹となった。


「亡者の国の風はきついぞ。けれどお前ならそれを制して私の目となれるだろう」


 闇の王は鷹を肩に止まらせ、青の女王に向かって優雅に礼をした。


「ストラーシャ。無粋な訪問をした非礼は謝る。すまなかった」


 青の女王はミディ-ルに背を向けた。

 ノルンの残した涙の滴を胸に押し当て、叫ぶように声を上げた。


「行って下さい。早く――!」


 ミディールはもう一度頭を下げて、自ら呼び出した闇の中へと姿を消した。




 ◇




 その日の海は深い深い青色に染まっていた。

 心の奥がぎゅっと締め付けられるような、そんな濃さを帯びた青だった。


 果ての海のどこかにある『水晶の塔』で、青き乙女は一番深い悲しみを胸に抱き待ち続けている。


 審判の角笛が高らかに鳴り響き、海があお色を取り戻すその時を。






『水晶の塔』 -完-




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水晶の塔 天柳李海 @shipswheel

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