Ⅳ 悲しみの色
青年――ノルンは目を閉じたままうなだれていた。
まるでその光景を再び目の前で見せつけられていて、それを見まいと必死で目を閉じているようだった。
「よく話してくれました。ノルン」
青の女王はそっとノルンの青ざめた頬に手を伸ばした。
うっそりとした瞳が力なく見開かれる。
「そうだ。あなたにはお礼を申し上げなければなりませんでした。青の乙女。海に沈んだ多くのエルウエストディアスの民の魂を、あなたの御手で救って下さって」
青の女王は静かに頭を振った。
「ノルン。そなたの抱える悲しみはきっとこの海の底よりも暗くて深い。けれど先程も言った通り、そなたの罪は死によって贖なわれました。だからそなたも、私に苦しみと悲しみを渡すのです。そうすればそなたも天へ昇れます」
「青の乙女。私にはそんなことなどできません」
薄絹の肩を掴むノルンの指にぐっと力が込められた。
「ノルン」
「青の乙女。あなたに救われてこの水晶の塔に来てから、ずっと考えていたことがあります」
「それは何?」
ノルンの薄い胸に頭を寄せたまま、青の女王は訊ねた。
「私はこの塔から見える海をずっと眺めていました。海面に近い所は太陽の光が無数に差し込み、明るい
ノルンは視線を上から今度は水平へと落とした。
「今、あなたと共に見ている海は深い群青色です。ざわついた心もいつしか鎮まり、ここなら永久に憩えるような安らぎがあります」
青の女王はうなずいた。ここは塔の中間の高さにあたる部屋で、自らも疲れを感じた時立ち寄る場所だ。
「そして塔の最下層――」
ノルンの声が低くなった。
「そこは果てしなく濃い青が重なり、ひとすじの光すら通らぬ深い闇の色をしています。ここには、ここにはあなたの――あなたの抱える悲しみが満ち溢れ、息苦しいまでの重圧しか感じません」
「ノルン、私は……」
青の女王は再び心がざわめくのを感じた。
けれどノルンの翠の瞳はじっと青の女王から離れない。
「私はこの塔の中から海を見てずっと思っていました。海に飲まれし者達の悲しみは、一体どこに行くのかを」
「それは」
「青の乙女。多くの悲しみや不安を内に取り込んだ御身は苦しくないのですか? 苦しくないはずがない。だって海は『悲しみ』の色に染まっているから」
「悲しみの……色? 私はそんな風には思いません」
ノルンは月影色の髪を否定するように震わせた。
「ならば海は
「ありがとう――もう大丈夫です。手を離して」
青の女王はようやくノルンの腕の中から自らの意思で立ち上がった。
「しかし、お顔の色がすぐれぬご様子ですが」
「……」
青の女王はノルンの気遣いを嬉しく思い頬が上気するのを感じた。
しかしそれを見られたくなかった。青の女王は紺碧の髪を揺らして踵を返すと、群青色の世界が無限に広がる水晶の壁へと歩み寄った。
淡い薄絹の衣が磯場に砕ける波のように揺らいで、白い足首に絡みつく。
「確かに、海には多くの悲しみが満ちています。それを溢れさせているのはノルン、そなたのいう通り私のせい。私が海を守る神として、まだ未熟である証しなのです」
「青の乙女――」
青の女王はノルンの呼びかけにゆっくりと振り返った。
その背には一段と濃さを増して広がっていく海がある。
「この塔は、私が取り込んだ『悲しみ』を一度に海へ溢れさせないために作ったもの。私は海を司る青の女王。海そのものです。海神たる私が悲しみに沈んでしまったら、海はたちまち生気を失いあらゆる生き物が死に絶えます。だから私は――」
青の女王はそっと両の腕で自らの肩を抱いた。
先程取り込んだ何千という人間達の思いが胸の奥でざわめいている。
ノルンが自らの力を暴走させて沈めたエルウエストディアスの民達の思いを、一度にすべて受けとめたせいだ。
「私が取り込んだ負の感情は、この塔に籠ることによって、徐々に鎮められ浄化されて海に還ります。けれどまだ鍛練が足りない私は、すべてを浄化しきれないのです。浄化できない思いは黒き澱となって海の底に沈みます。だから、あそこに落ちればそなたは二度と救われない」
ノルンは微動だにせず立っていた。
青の女王の手を擦り抜けていった時のように、強い拒絶に満ちた双眸でこちらをじっと見つめている。けれどその瞳が不意に柔らかなものへと変わった。
ノルンはゆっくりと頭を垂れ眼を伏せると厳かに口を開いた。
「私の悪行のせいですでに御身には多くの悲しみが満ちています。それなのにあなたは私をこの塔へ連れ帰り、一時の安らかな時間を与えて下さいました。私はこれ以上、あなたを悲しみの色に染めたくありません。これは私が自分で海の底へ持って行きます」
「ノルン!」
青の女王は紺碧の髪を大きく乱してその名を呼んだ。
ノルンの犯した罪は重いが、彼は救いを拒むことで贖いをしようとする意思がある。そして彼もまた、陰謀にはめられ無惨にその命を奪われた、憐れむべき人間なのだ。
「私は万能ではありません。ですが、そなたの悲しみを受け止められないわけではありません。どうしてそなたは私を信じてくれないのです!」
「……」
ノルンは青の女王の問いに答えなかった。
けれどその心は、どんな責苦でもすべて受け入れる覚悟ができているのだろう。
ノルンは穏やかな表情を厳しいそれへと変えて、静かに口を開いた。
「青の乙女。私はそろそろ行かねばなりません」
「……私は……」
青の女王は唇を震わせた。
救いのない闇の中がどれほど恐ろしいか。
この青年はそれを知っているのだろうか。
「青の女王ストラーシャ。人間の魂ごときに何を迷っている?」
突如低く艶やかな声が塔の中に響き渡った。
「もとい、こやつが中々私の所へ来ないものだから、慣れない海の中をしこたま探し回るはめになってしまったぞ」
水晶の塔を囲む群青色が、どんどん濃さを増して限り無く黒に近い闇色に深まっていく。
「……っ」
ノルンが小さく息を飲む音が聞こえた。
翠の瞳を見開き、まるで身動きが取れなくなったかのように体を強ばらせている。その背後で、海神の力の結晶ともいえる石英の壁が水のように揺らいだかと思うと、部屋の中には黒い影が一つ立っていた。
「地下の闇の王――ミディール。随分無礼ですね。無理矢理私の住まいに入ってくるなんて」
青の女王は闇の王に強い抗議の眼差しをくれた。
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