Ⅲ 滅びの風


 私はエルウエストディアスという国で、風神ケイロスに仕える宮廷魔術師でした。私の力は歴代の宮廷魔術師の中でも稀なほど強く、私もまた、己に操れない風はないと――思い上がっていました。


 父も母も早くに亡くなり、天涯孤独な私には、風の魔法だけが心の拠り所でした。かの魔法だけを生涯愛そうと心に決めた結果、私はいつしか国一番の風使いとして名を馳せ、宮廷魔術師という称号も得られました。


 そしてついに私は、病床にあった現王の枕元に呼ばれ、大臣達を証人とし、彼の娘を娶り次期エルウエストディアスの王になるようにと望まれたのです。


 しかし私は、玉座には興味がなかった。

 けれど王の娘――レイリア姫には好意をもっておりました。西の大国エルウエストディアスの王位継承者として相応しい品格と知性を兼ね備えた姫君です。


 姫君には隣国シーリルアのレント王子と良い仲だという噂がありました。けれど姫も私の事を好いて下さり、父王の遺言通りに私達は式を挙げたのです。


 私は確かに幸せでした。

 風の魔法の他に、初めて心から愛するものを得られたのですから。


 けれど婚姻の儀の夜。熱狂的な祝宴の喧噪から解放され、レイリアと二人で酒を飲んでいた時、私は体の異変に気付きました。舌が根元から貼り付いたようにしびれ、体も指一本動かすことができません。

 しかもレイリアは黒い外套に身を包み、その後ろには数名の兵士を従えていました。


『ごめんなさい。ノルン様。私はシーリルアのレントの元へ行きます。そのかわりこの国はあなたに差し上げます。だから許して下さい』


 私は耳を疑った。けれどレイリアの姿は部屋から消えました。

 扉が冷たく閉まる音だけが今も耳に残っています。


 私は国など欲しくない。欲しかったのは姫君の心だけ。

 しかし私との婚儀が嫌ならその本心を伝えて欲しかった。


 私はそれが悔しくて、レイリアが飲ませた薬の力に抗いました。術者というものは薬学にも通じています。私は持ち歩いていたアマランスの葉を口に含み、その毒を葉に吸わせました。


 体が動くまで待つのがもどかしく、這うようにして城のテラスに出てみると、城下の港から小さな船が出ていくのが月明かりに見えました。

 さらに目をこらしてみると、海上にその船を待つかのように大きな異国の船が一隻います。


 私の心は熱い憤りに震えました。

 レイリア。

 貴女はこのエルウエストディアスの王女であるというのに、国民を守る王族の務めを捨てて、一人の女として、かような男の元へ行こうと言うのか。


 私はいつしか風を呼んでいました。

 彼女が私を捨てたことなど


 けれど貴女の国民を捨ててはならない。

 ここは貴女のだ。


 私は彼女の乗った小舟に向かって風を吹かせました。断じて港外で待つ異国の――シーリルアのレント王子の船まで行かせる気はない。


 小舟はたやすく港まで押し戻りました。

 私は風を吹かせたまま、レイリアを連れ戻すべく騎士隊長を呼びつけようと城内の方へ振り返りました。その時。


『風を操るお前なら、そうするだろうと思った。あれはそれを見越しての囮の船だ。卑しい術者め』


 聞き覚えのある男の声が間近でしたかと思うと、背中に焼け付くような鋭利な痛みを感じました。私は信じられない思いで身を振り解き、よろけて再びテラスへ背中を預けました。そこには二人の人影がありました。


 黒髪の背の高い男は紛れもないシーリルアのレント王子。その男の赤と金の豪奢な衣装の影に隠れるようにして、レイリアが怯えた目つきで私を見ていました。


『確かに薬を飲ませたのに……! 何故あの人は立っているの?』


『レイリア、術者に薬などきかぬよ。それにこいつを生かしておけば、お前を求めていつシーリルアに乗り込んでくるかわからぬ。エルウエストディアスをどこの馬の骨とも知らぬ術者ごときにくれてやる気はない』


 私は止めを刺そうとこちらへ向かって歩いてくるレント王子に目はくれず、ただレイリアの血の気の失せた白い顔を呆然と見ておりました。


 私は二度彼女に殺されたのです。

 そして二度死ぬのです。

 最初は心を。最後に命を。


 レント王子が私の血で濡れて黒光りする刃を振り上げました。

 その刹那。

 私は再び風を呼んでいました。

 これ以上傷つきたくなかったのかもしれません。


 そしてレント王子に止めを刺されなくても、己の生命がまもなく尽きることだけはわかっていました。


 レイリア。

 一時はその心を得たいと強く願いましたが、私の呼びかけに応える風に私の気持ちはそちらへ昏倒しました。


 国などいらない。そしてレイリア――も。

 私の心を満たしてくれるのはやはり風だけだった。

 私が風だけを愛していれば、貴女もレント王子と添い遂げられただろうに。


 私の頭上には黒き雲が渦を巻いておりました。

 風はレント王子とレイリアの体を黒き雲まで吸い上げました。そしてエルウエストディアスの黒曜石で築かれた堅固な城すらも、私の呼んだ風のせいで大きく揺れ始めました。


 私は風神ケイロスとの盟約で、己が死ぬ時はその魂をかの神に捧げると誓っていました。我々術者は仕える神に捧げる代償が大きければ大きいほど、それに見合った力を振るうことが許されます。


 テラスに寄りかかった私の目に、あの黒き雲の間から風神ケイロスの姿が見えました。神々しい四枚の羽を持つ純白の鷹がこちらへと飛んできます。

 鷹は私を戒めるように厳しい表情で警告しました。


『ノルン。お前の心には空虚と憎悪の風が吹き荒れている。それはこの国を滅ぼす風だ。今すぐやめよ』


 ケイロスが言う通り、エルウエストディアスの城は崩壊しつつありました。

 いや――城だけでなく、その周りに住まう国民の家屋すら吹き飛ばした黒き風は、海にも影響を与えました。海は風にあおられ低いうなり声をあげながら高き壁となってエルウエストディアスの街を飲み込みました。


 私は城壁がぼろぼろと崩れ落ちていく城からその様を眺めていました。

 そして気付きました。己が何をしたのかを。

 けれど私にはもう風を止める力など残ってはいませんでした。

 私の力が尽きるまで、黒き滅びの風はこの地で吹き荒れるのです。


 私は瞬き一つできぬまま、ケイロスの姿を探しました。

 純白の鷹は私が起こした黒き雲を、その清涼な風で吹き飛ばしている所でした。私の起こした風などかの神の力には到底及びません。


 ケイロス。我が主。

 あなたは私の最期の時に駆け付けて下さった。それだけで私は満足です。

 捧げると誓った私の魂は、憎悪で醜く澱み今は腐臭を放っています。

 そのようなものを差し出しても、きっと御身を穢すことになるでしょう。

 ですから、このまま私が御身から離れることをお許し下さい。


 私はその美しい姿を目に焼きつけて、風神に別れを告げました。

 そして私の意識は途切れました。

 もう足元まで海の水が来ていたから、エルウエストディアスの罪のない人々と一緒に深い海中へと飲まれたのです」


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