Ⅱ 青の乙女

 人間達が『果ての海』と呼ぶ、誰も知らない場所にその塔はあった。

 塔の最上階はきらきらと陽の光に揺れる水面を眺めることができ、果てまた最深部はその光すら全く届かない暗き海の底にあるという、とても大きなものだった。

 塔の外観は真珠と珊瑚と透き通った石英でできている。

 それゆえ海の眷属達は、海神の住むこの塔を『水晶の塔』と呼んでいた。


 青の女王は連れ帰った青年に塔の一室をあてがった。

 そこは塔の丁度真ん中あたりの高さにある部屋で、四方を囲む水晶の壁からは、真っ青な海中が透けて見えた。


 この塔にいる限り青年は、あの底が見えないほどの暗さに満ちた闇の中へ落ちることはない。


 時の呪縛から解放された青年は、傷一つなく磨かれた水晶の壁の前に立ち、じっと海の中を見つめていた。


 月影色の淡い金髪を束ねることなく瑠璃色のマントの上に流し、青ざめたその横顔は彫像のように固く微動だにしない。


 体の線がはっきりとは見えない、ゆったりとした白の長衣は腰の所で細い飾り紐が結ばれている。


「気分はどうです?」


 青の女王は人の姿をとって青年の部屋を訪れた。

 その外見は二十に満たないうら若き乙女。

 青の女王もまた、生まれてからさほど年月を重ねていない若々しい神だった。

 波のようにうねる長い紺碧の髪を揺らし、淡い薄絹を幾重にも重ねて美しいひだを作った衣から素足をのぞかせて歩み寄る。


「何故私をここに連れてきたのですか?」


 青年は疲れたように目を伏せ息を吐いた。

 青の女王は静かにその隣へ立った。


「私の役目は、海に飲まれた者の魂を転生の輪に還すこと。そなたは自らの意思で私を拒み、そのまま海の底へ落ちていく所だった」


 青年はそっとまぶたを開いた。

 海の中では決して見ることのない地上の緑――それらを育む風の色。

 そんな目の色をしている。


 鮮やかな翠の瞳は美しかったが、青の女王の胸中はさざなみのようにざわめいた。

 この青年の心には確かに深い悲しみがあると、かの瞳の中に見い出したからである。


「いや、むしろそれが望みなのです青の乙女。今からでも良い。私を解放して下さい」


 青年の瞳は未だ空虚な光を宿していた。青の女王は紺碧の髪を震わせた。

 そんなことを、未来永劫続く苦しみを、自ら望む彼の心が理解できない。


「海の底に落ちた魂は、私でも二度と救うことができない。よって転生の輪に還ることもできず、いつしかそれは闇に蝕まれ悪霊となる。悪霊は自らの内に巣食うありとあらゆる責苦に苦しみ、呪いや魔詩まがうたを吐き続け、それが海を荒らして多くの船を沈ませるのです。そなたは本当にそうなることを望むのですか?」


 青年はゆっくりとうなずいた。


「ええ。私はあなたの救いを得るに値しない人間です。海に飲まれる前に、悪霊に喰われ消えてしまえばよかった」


「そなたがどんな罪を犯そうとも、その死をもってすべては贖われる。私がここにいるのは、そなた達人間の生きてきた苦しみや悲しみを受け取り、再び天へ魂を還すため。善人も悪人も関係ない。それが生きとし生けるものに等しく与えられた唯一のものであり、守らなくてはならないことわりでもあるのです」


「けれど、そのことわりから外れる者もいる。だからこの世に悪霊が存在している」


 青年の冷えきった声に青の女王は唇を噛みしめた。

 そう、青年のいうことは


「神とて万能ではない。私だって救えるわけじゃない」


 青の女王は紺碧の髪を震わせ、思わず青年から顔を背けた。薄絹の合間からのぞく白き腕で己を抱きしめて、胸の奥底から急に迫り上がるものを抑えた。


 いつもはその存在を意識しないようにしていた。

 そして外に溢れ出ないように眠らせていた。

 けれど突如としてそれが心を圧迫するように、波濤のように押し寄せてくる時がある。


 抑えなければ――海が。

 海が、死んでしまう。

 ――助けて。

 思いもしなかった言葉が唇からこぼれた。


「青の乙女」


 自分を呼びかけるその声は、海上を渡る風のように穏やかで力強い。

 青の女王はその風に身も心も預けた。

 するとこの身を引き裂かんとするかのように沸き起こった衝動が、再び胸の奥へと引いていく。伸びていた触手がするすると暗き闇の海へと戻っていく。


「……ああ」


 青の女王は目を開いた。そこには間近に憂いを帯びた青年の顔がある。

 青年は自らの足で立てなくなった青の女王の肩を抱き、水晶の床に膝をついてその体を支えてくれていた。

 剣を握るより、どちらかといえば琴をつま弾く方が似合いな指で。


 月影色の淡い金の髪が流れる肩も胸も細く華奢なのに、どっしりと構える山のように強大な力がこの青年にはある。

 その力に青の女王はいまだすがっていた。それを察したのか青年は翠の瞳を細めてうなずいた。


「あなたは万能ではない。私もそう思います。だからこそ、私はあなたの慈悲を受けたくないのです」


 青年の胸に額を寄せたまま、その手に肩を抱かれたまま、青の女王は力なく瞳を閉じた。


「私ではそなたを救えぬと? だから救いはいらないというのですか」

「いいえ」

「では何故?」

「それは……」


 しばし間を置いてから、青年は小さく嘆息した。


「青の乙女。私の長い話を聞いて下さいますか?」


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