角砂糖一個

増田朋美

角砂糖一個

角砂糖一個

ノロは落ち込んでいた。

本来なら今日来てくれるはずのお弟子さんが、今日はというか、もう二度とやって来ないことを知っているからだ。

理由は簡単なことだ。生徒さんに、この先生は、くらいの高すぎる頑固じいさんという、評判が立ってしまったのだ。自分としてみれば、邦楽を守り抜きたいと思っていただけなのに。どうして若い人たちは、沢井忠夫みたいな、ああいう作曲家をカッコいいと思ってしまうんだろうか。本来、日本のお箏は、ああいう気持ち悪い音楽である、必要は無かったはず。最近では、音楽大学の、邦楽専攻の先生までもが、クラシックと邦楽の、中間的な楽曲をたくさん作りたい何て言う発言をして、もう日本の邦楽奏者の人は、古典箏曲を置き去りにして、どこかに行ってしまったようだ。

そんな邦楽事情を抱えたまま、ノロは相変わらず家元して、箏曲の指導をしていたけれど、そんな中、先ほどの事件が起きたのだ。

ある時、富士市内の稽古場で、お弟子さんに、箏曲の指導をして居たとき、一本の電話が入って来た。

「家元、お電話が入っております。」

稽古場の事務員が、コードレスの電話機をもって、稽古場にやってきたのである。

「何ですか。稽古中は電話には出れませんよ。」

ノロがそういうと、

「はい、それがどうしても出てほしいというのです。なんでも家元と、直接お話をしたいとかで。」

お手伝いさんは困った顔をした。

「一体誰から電話何ですか?」

ノロが聞くと、

「はい、広上鱗太郎さんとおっしゃる方で。」

と、こたえる事務員さん。はあ、またあの人ですか、と、ノロは一つため息をついて、仕方なく受話器をとった。

「はいはい。もしもし、野村ですが。」

「あ、はい。あの広上ですが、今度の音楽会うちのオーケストラと一緒に出てくれませんでしょうか!」

広上さん、偉く単刀直入に言うな、と、ノロは思った。

「何ですか。その件ならお断りですよ。わたくしは、邦楽は洋楽と、手を組むものではないと思っていますから。」

「そうなんですけど、こっちも、年々音楽会への来場客が、集まらなくなってきて、困っているんですよ。ですから、ぜひ皆さんが、びっくりするような演出をしたい。そのためには、異色の先生との合同演奏というのをぜひやりたいんですよ。それに野村先生であれば、もう邦楽家として、全国的に名前が知られているんですから、客を呼べる事間違いなし。そういう訳ですから、是非出てもらいたいです。お願いしますよ。あ、曲もね、もう候補は用意してあるんですよ。例えば、えーと、沢井忠夫のファンタジア、、、。」

「もう結構です。沢井という作曲家は、邦楽をぶち壊した悪徳者です。そんなもの、わたくしがやりたくもありませんね。」

ノロはそういって、電話を切った。この時初めて、お弟子さんが、この電話を聞いていたことに気付いた。

「先生は、ヤッパリああいうモノは嫌いなんですね。」

そんなことをいうお弟子さん。その顔はどこか笑っていた。

「家元というのは、その流派そのものを、シッカリ継承して守っていくのが本来の勤めです。沢井忠夫という、邦楽をぶっ壊すような真似をする人が、どうしてそのようなことができますか。そういう訳で、わたくしが、沢井という作曲家の作品を、演奏するわけにはいかないんですよ。」

ノロはお弟子さんにそう言うのだが、お弟子さんは、変な顔をした。まるで、自分の事を小ばかにしているような、そんな顔をして。

「さて、稽古を続けましょうか。おしまいまでしっかり稽古を続けましょうね。はい、美園の松、手事からどうぞ。」

そう指示を出して、お弟子さんはとりあえず従ってくれたけれど、もうやる気は何もなさそうだ。そういうのは、音を聞けばすぐわかる。真剣身がなくなってしまったのだ。

もう終わりかなあ、というのはそういうところから見て取れる。

翌日、そのお弟子さんがやめていくと連絡があったと、稽古場の事務員さんから伝言が来た。もう来ないんだという事だ。たぶん決定的なのは昨日の事だろうな。ノロはがっかりしたというより、落ち込んでしまった。

そんなわけでノロは今日一日、落ち込んでいるのである。

とりあえず、お弟子さんはほかにもいるから、その人たちへも指導をしなければならないが、お弟子さんたちに教えながら、なにか考えを巡らせた。もう、邦楽を若い人に伝えていくためには、ああいう気持ち悪い音楽に、助けてもらわないとダメという事なんだろうかな。でも、自分はどうしても、沢井忠夫の音楽が、すきになれないのである。

「先生、有難うございました。次回のお稽古は、来週の火曜日でよろしいんですね。曲はえーと、臼の声という曲をやればいいわけですね。」

と、ふいにお弟子さんが言った。

「はい、まずは本手のほうをやってみてください。地のほうはわたくしが、担当いたします。もし、奏法記号など、わからないことがありましたら、お稽古のときにお尋ねください。」

ノロがそういうと、お弟子さんはにこやかに、わかりました、といった。

「了解しました。臼の声の楽譜を出来る限り探します。」

と、お弟子さんは言うのだが、とりあえずその場は其れでよかった。とりあえずその場は。お弟子さんを送り出して、次のお弟子さんを待つ。ノロの日々はそんなことの連続である。その日は、そのお弟子さんで最後だったので、少し休憩しようかなと、稽古場の休憩室に行って、コーヒーを飲むことにした。どういう訳か、この稽古場は、生徒さんや講師の先生のために、休憩室が設置されていた。ただ、自動販売機ではなく、自身でコーヒーや紅茶を作る必要があった。

ノロが、コーヒーに、角砂糖を一個溶かしたその時である。

「先生、佐藤さんから、お電話が入っています。」

と、稽古場の事務員さんに言われて、ノロはまた渡された電話機をとった。

「先生、あのすみません。今、お箏屋さんにいるんですが、お箏屋さんのご主人の話ですと、臼の声はもう絶版になってしまって、楽譜がもう手に入らないそうなんです。二度と再販される、見込もないと、お箏屋さんに言われてしまいました。先生、申し訳ありませんが、曲を変更してもらう訳にはいきませんでしょうか。」

申し訳なさそうに言うお弟子さんに、ノロは改めて申し訳ありません、というしかなかった。しかたなく、別の曲の名を出して、溜息をついて電話を切る。そして、電話機を、事務員さんに返し、コーヒーを飲んだ。最近はこのような内容の電話も、並行して多くなってきているような気がしてきた。新しい曲を、お弟子さんにやらせようって思うと、必ずというか、確実に楽譜がないという言葉が返ってくる。

そのまま、ノロはちょっと稽古場を出ることにした。お弟子さんが言う通りなら、ほかの曲も品切れしているかもしれない。どの曲が今入手可能なのか、確認しておく必要があった。東京のお箏屋さんに行けばまだあるのかも知れないが、大体ここで教室をしている以上、それだけは自分も把握しておく必要があった。

「全く、必要な曲がどんどんなくなっていきますな。」

そうつぶやきながら、お箏屋さんへ向かって歩き始めた。まず第一に、お箏屋さんに行くには、バスに乗っていく必要があるので、とりあえず、バス停まで歩いて行って、バスを待つ。バスは、五分ほど待ってやってきた。富士のバスは、結構本数があるところが良かった。バスに乗り込むと、バスは混んでいた。椅子には座れそうもないので、立って乗る事にした。

暫くそうやって乗っていると、前の席に座っていた女性が、急に立ち上がった。

「おじいさん、この席に座ってください。」

「どうもすみませんねえ。」

と、ノロは、言われたとおりに席に座った。その女性の顔を見ると、彼女はどこかで見たことのある顔だと思った。それに、持っている鞄の中から、細長い箱が見えたので、それはフルートのケースであると、ノロにはわかった。その女性も、彼が誰なのかわかったらしい。

「あら、野村先生じゃありませんか。野村先生、私の事を覚えていらっしゃいませんか?あの、下村苑子さんと一緒にやっている、」

「言わなくてかまいません。浜島咲さんですね。覚えておりますよ。」

そう言った彼女に、ノロはにこやかに笑った。

「はい、そうです。浜島です。覚えていてくれてうれしいです。奇遇ですね、こんなところで、お会いする何て。」

咲も、にこやかに笑い返した。

「先生は、どちらへお出かけなんですか?私は、これからうちへ帰るところなんです。ちょうど、今日のお稽古が早めに終了したから、どこかのカフェでも寄ろうかなとか。」

「そうですか。わたくしは、お箏屋さんに行ってみようと思いまして。じつは最近、売っていない曲がまた増えてしまいましてね。どれがまだ在庫があるか、確かめに行こうという訳でして。」

ノロがそう言うと、咲は、興味深そうな顔をした。

「へえ、お箏屋さんですか。私、フルートに関連する楽器屋さんだったら、散々お世話になっているのに、お箏屋さんというところはいったことがないんです。苑子さんと一緒にやっているから、勉強のためにでも、ちょっと、覗いてみたいですね。」

「まあ、つまらないところではありますが、お箏関係のものはたくさん売っています。」

ノロがそう答えると、

「いや、つまらないところではないでしょう、先生。面白そうじゃないですか。きっと、私の知らないものが売っているんだろうな。」

と、咲は笑って言った。

「それなら、ちょっと寄ってみますか。本市場というところで降りていくんですよ。」

ノロが言うと同時に、バスのアナウンスが、

「次は本市場、本市場、御降りのかたは、押しボタンでお知らせください。バスが完全に止まるまで、席を立たないようにお願いします。」

と、聞こえてきた。ノロはすぐに、そこで降りるため、押しボタンを押す。バスは、近くのバス停で停車した。二人は、運賃を運賃箱に入れて、バスを降りた。

バス停から、少し離れたところに歩いていくと、三田邦楽器店という小さな看板が見えた。咲は、箏を売っているんだから、和風の作りをした建物なのかなと思ったが、建物はよくある四角い建物だった。ノロは、すみませんと言って、その建物の入り口の戸を開ける。

「いらっしゃい。」

応答したお箏屋さんも、かなりのお年を召した人だった。

「今、お茶出しますね。あ、それよりもコーヒーのほうがいいですかね。野村先生。」

お箏屋さんに言われて、ノロはコーヒーをといった。二人はお箏屋さんに言われた通り、設置されていた、テーブルに座る。

「今日は野村先生、何の御用ですか?」

お箏屋さんが、二人分のマグカップを、二人の前に置いた。

「はい、博信堂の譜面を見せてもらえないでしょうか。」

ノロがそういうと、お箏屋さんは、

「そうですね。申し訳ありませんが、もうあんまり残っていませんよ。あと、十冊もないかなあ。博信堂は、つぶれて10年以上たっていますからな。」

という。ノロが、

「しかし、博信堂でないと、入手できない曲もあるんですがね。」

というが、

「いやあ、そういったってねエ、もう取り寄せようとしてもできませんよ、野村先生。いくらお願いされたって、会社がないんですから。まあ、まだあきらめていないなら、インターネットのメルカリとか、ラクマとかそういうところで、大量出品されているのを買うしか、ありませんでしょうな。そういう訳ですから、博信堂の楽譜を買うのは、もうあきらめてください。」

と、お箏屋さんは言った。確かに出版社がなくなってしまえば、店には入ってこない。そういう事であるのだが、聞いている咲は、なんだか寂しい気がしてしまうのだった。咲も、インターネットで曲を入手するのは、余り好きではなかった。

「わかりました。それも時代の流ですから、仕方ありません。まあ、そういう事ですのなら、わたくしも、インターネットで曲を入手するようにさせます。」

ノロも、顔つきはにこにこしているが、きっと胸の内では悲しいのではないだろうか。

「すみませんねエ。まあ、新しいお客さんも来ないし、お箏屋という商売も、だんだん必要ない商売になっていくんでしょうかねえ。あーあ、そうなってしまうのは、なんだか悲しいね。野村先生。」

ノロとお箏屋さんがそういうことを言っている間、浜島咲は、店の中をぐるっと見渡した。確かに、お箏の楽譜とか、いっぱいあるのだが、果たしてこれが、どれくらい売れるのか、見当のつかない代物であることがわかった。

ノロが、またコーヒーをかき回しているのをみて、自分も何かしたくなった咲は、

「あの、すみません。」

と、言うのだった。

「あの、こちらのお店では、古典箏曲ばかり売っているんですか?」

「あ、はい。うちは古典を中心に販売してきましたが、最近はそうでもなく、洋楽の作品ばかりが売れるようになっています。」

と、お箏屋さんが答える。確かに、売っている本のタイトルを見ると、ビバルディの四季とか、ヘンデルの水上の音楽とか、そういうよく知られた洋楽の曲を、編曲したものが大量に置かれていた。後は、咲も苦手である、沢井忠夫とか江戸信吾とかそういうもの。ああいう人たちの作品は、美しいという気がしない。何か、ショスタコーヴィチの曲をそのまま箏にしたような、そんな気がしてしまうのである。なんでわざわざそういう風に、してしまうんだろうな。そういうやり方はしないでほしかったのだが、、、。

「あの、それなら、御宅で販売してほしい曲があるんですが。」

咲は、鞄の中から、楽譜を一冊取り出した。

「之、私が一緒に仕事をしている、下村苑子さんの息子さんが作った曲なんです。」

お箏屋さんもノロもその楽譜に目を通す。書きかたは、博信堂の譜面と同じような書き方で、内容を理解できないのは、咲だけだった。

「フルートと箏の二重奏ですか、尺八ならともかく、そんな異色の組み合わせ、果たして売れるんでしょうかね。」

「角砂糖、一個ですか。不思議なタイトルですが、どこか古典の趣はありますよ。」

確かにノロが言う通り、どうもその曲は洋楽らしくなかった。何処か、古典の匂いがした。

「しかし、それを販売してもうけになりますかね。」

「ええ、音源は動画サイトで公開すればいいでしょう。それにひかれた人が買いに来るのではないかと思います。確かに、出版社を介さなくても、楽譜の印刷や製本は、今の人であれば、パソコンで作ることもできますからな。」

と、ノロは言った。お箏屋さんは、若い人に先を越されたみたいで、なんだかなあと思っているような顔をした。

「私、苑子さんからこういわれました。古いものがなくなったなら、どんどん新しい物を作っていかなければならないって。其れは悲しいことではない、うれしいことだって。皆さん嬉しいとは思わないんですか?」

と、にこやかな顔をして咲は言うのだが、ノロも、お箏屋さんも、なんだか悲しそうなかおをしているのである。確かに博信堂の譜面は、もう手に入らないし、もう作られることもないという事も確かだ。だからお箏屋さんだって、悲しいというのも確かなのだが。

「そうですね。わたくしもそう思いますよ。ぜひ、彼女の作品を発売してやってください。きっと楽しいと思いますよ。」

ノロがにこやかにそういうが、まだ、無理をしているようだった。

「しかし、いいんですか?野村先生のような人が、そんなことを言って。」

お箏屋さんがそんなことを言うと、ノロはニコリと笑った。

「いえいえ、わたくしたちは、もう年を取りすぎました。もう若い人にやってもらわなければなりません。

もう、交代の時です。」

ノロはそういうことを言って、出されたコーヒーを飲んだ。

「是非、浜島さんの曲を販売してやってくださいませ。この曲であれば、、古典箏曲に近いものを持っています。古典の良いところが、新しい曲の中にしっかり登場してくれたのをはじめてみました。」

「野村先生がそう言ってくれるんだったら、うちの店にも、なにかきっかけができますかねえ。」

お箏屋さんは、ノロの言葉を聞いて、決断したようだった。

「じゃあこの譜面、販売しましょうか。いやあ、新しい曲が入ってきてくれて本当に良かったなあ。」

お箏屋さんもそういって喜んでいる。そうなると、お箏の世界に、新しいものが入ってくるというのは、本当に滅多にないという事だろうか。本当に閉鎖的な世界だった。

「本当は、わたくしたちではなく、若い人にももっとやってもらいたいんですけどね。ただ、変な風に解釈したものではなく、古くからある、良いものとして知られている音楽に、触れてもらいたいものですな。そのためには、博信堂の譜面の存在は、とても大きなものだったのですが、それがなくなってしまったのは、真に遺憾ですよ。その代わり、沢井のような、おかしな曲ばかりが、流行ってしまっております。そうじゃなく、本物の箏曲はああいうモノではないんです。そこに早く気が付いてほしい。」

ノロがいう様に、箏曲の世界では、そうなってしまうのだろう。でも、そうなってしまったら、本当に箏曲というものがなくなってしまう。新しく、若い人向きに作り変えてしまうのではない。曲はそのままの形で、古く良い形で、のこしてもらうべきなのだ。

そのまま、咲とお箏屋さんは、楽譜の販売について、話し始めた。ノロは、今回の騒動で、ほんの小さな幸せだけど、本当の幸せとはこういう事なのかな、と思って、小さな溜息をついた。

きっと、古典箏曲の楽譜が全部なくなってしまう日は、あと少しのところまで来ているのだろう。でも、こうして、古典を取り入れた曲を作ってくれたのであれば、古典はまだ消えてはいない。そう、この苦い味のコーヒーを、ちょっとだけ甘くしてくれる角砂糖一個のように。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

角砂糖一個 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る