第165話目 寺井愛美

 ~4年後~



「マナ、忘れ物はない?増本先生にもちゃんとご挨拶するのよ」


「はいはい、何度も言わなくてもわかってる。っていうか、いくつだと思ってんのよ」


「お姉ちゃん、本当に先生みたいだね」


「本当にって、何よ。失礼ね。でも本当にそう見えるかな?」


「スーツだしね」


「そこ?ま、あんたが私と同じ高校に行かなくてよかったって、心からそう思っているよ」


「お姉ちゃんを先生って呼ぶなんて、こっちこそ何かの冗談みたいな話だよ」


 小学生の頃にはあんなにベタベタしてきて、お姉ちゃんお姉ちゃんって言ってた子が、高校生になってから、いつの間にか対等な口の利き方をするようになり、制服が可愛いからお姉ちゃんと同じ高校に行くと言っていた本好きの美菜は、やっぱり司書の資格が取れる文学部のある大学に行くと、あっさり進学校へと舵を切った。


 4月1日。


 いよいよ今日から出勤だ。


 愛美は学生の頃には自転車で通っていたその通勤先に、今日は自分の車で行く。自分の車と言っても、母のお下がりの軽自動車だ。慣れるまで新車は止めておけという父親のアドバイスで、前倒しで母が車を乗り変えることにしてくれたというわけだ。が、これは有り難い話で、車用に貯めたバイト代をしばらく使わず済む。


 就職が決まってから、母や美菜を横に乗せ、何度も練習で走ったその道を、今日は一人で走る。やはりドキドキと胸の鼓動を感じた。本来、慎重すぎる愛美にとって、一人で運転というのはしばらく慣れそうもない。


 駐車場に着くと、かなり早めに家を出たため止まっている車は少なく、まだほとんどの人が出勤前だ。はじめての駐車場に車を止めることも慣れないため、しばらくはこのくらいの時間に出勤するつもりだ。


 数回切り替えしながら、なんとか枠の真ん中辺りに車を止めホッとしていると、先に止まっていた車から一人の男性が出てきた。


 げっ、誰か乗ってたのか……見られちゃったな。と、その顔を目にして心臓が跳ね上がった。真崎先生だ。


 あれ?車が違う。ああ、そうか、この4年の間に買い替えたんだな。……結婚とか、したのかも。


 真崎先生だと気付き、敢えてその顔に目を向けずに車の方に目を向けながらも、自分の荷物を持つ準備してますみたいな仕草で目線を落とし、真崎先生が駐車場を出て行くところを横目で追った。


 真崎先生、こんなに早くくるんだな。


 どうしよう。数人の教員は来ているようだが、真崎先生がそこにいるとわかっていると、車を走らせているときとは明らかに違う、さらに早くなる鼓動がドキドキという音を響かせ、顔を熱くする。


「ふぅ~~~っ」


 愛美は深く息を吐くと、しばらくゆっくりと呼吸を整えてからカバンを持ち、車を出た。


 職員用の通用口を入ると、そこは生徒の時には目にしてた場所だけれど、使うのは初めてだと、妙に感慨深く感じ、自分の名札の入った下駄箱の扉を開けた。


 廊下に出て職員室に向かおうと顔を上げると、そこから見える職員室の前に、真崎先生がいた。その姿は、愛美の鎮めた鼓動を再び動かすには十分すぎるものだった。


 この場面を通らないと、ここでの仕事が始められない。4年前のこと、真崎先生だとわかっててブログで交流していたことを、どこかで一度は謝らないといけない……そう思いながらも、愛美は何事もなかったような顔をして、そこに向かう。


「おはようございます。今日からお世話になる寺井愛美です。よろしくお願いします」


 声の震えを気取けどられないように、自分から、大きめの声で挨拶した。


「おはよう。まあ、3回は切り替えしてたけど、上手く止められたじゃん」


「こっそり見てるなんて、趣味悪いです」


「はははっ」


「真崎先生、……あの、……」


「寺井さん、これ、あげるよ」


 何かを握った手を出した真崎先生の前に、愛美は小さく首を傾げながら手を出した。


「はい」


 真崎先生はそう言って、愛美が広げた手の小指に、自分の小指の先を触れた。その瞬間、直人の小指は愛美の小指に絡みついた。それはまるで、『げんまん』でもするように。


「おかえり」


「……ただいま」


 愛美もその小指を握り返した。

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私が知るあなたの知らない私 村良 咲 @mura-saki

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