第164話目 真崎直人6

 愛を諦めきれない直人は、KENと2人で会ってからも、待つだけではなく、時折愛に関する言葉を思い出しながら検索にかけて探したり、実家に残した卒業アルバムや文集を漁り見て、忘れているかもしれない「まな」という名前を持つ人を探してみたが、とうとう見つけられずに、気付けば時は逃げるように2月が過ぎ、いよいよ今日は高校の卒業式だ。


 1年を受け持つ直人には、今回も放送の担当が回ってきていた。要するに、卒業式の裏方だ。スーツ姿ではあるが、講堂の裏の、放送のスペースにいることになるため、式の間は卒業生たちと顔を合わせることはないが、部活の子たちの見送りもしたいし、卒業生が講堂から出るときの見送りには並ぶつもりだ。


 いつもよりだいぶ早めに部屋を出て学校に向かった。登校してくる生徒たちを門のところで迎えようと思ったのだ。いつもは挨拶当番の日にしていたことを、当番でもない、当番すらいない卒業式にその場に足を運ぶ教員も少なくはない。


 生徒の多くは、親も出席する卒業式に、いつも通りの交通手段で友人と登校する子がほとんどで、裏門で「おはようございます」と挨拶を返してくる子の中に部の子を見つけると、生徒たちはいつも以上に親しみを込め、何故かしらいつもと違う大人の表情をまとい、笑顔を作り挨拶を返してくれる。


 生徒たちの表情の中に大人の顔を垣間見るのは、今日が卒業式だとわかっているからだろう。教員になって、自分の目にはそう見えるということに気付き、意識の持つ力は案外大きいんだなと、しみじみ思ったものだ。


 今日、こうして登校してくる卒業生は、みな、少しだけ大人の顔を見せつつ、そしていつも感じることのない、他人感を見せている。


 あ、あの子は増本のクラスの寺井だ。あの子と顔を合わせるのも今日が最後か。


 直人は寺井という生徒がくれた、車につけっぱなしの雪の結晶のストラップを思い出し、今日の昼はラーメンにしよう。そんなことを考え、また思考は愛に飛んだ。今日も、あのラーメン屋に行こう。愛さんとニアミスしたことがあるかもしれない、あのラーメン屋に。


「おはようございます」


 その寺井の声に思考を引き戻され、「おはようございます」と返した。


「真崎先生、卒業式の後に職員室に行ってもいいですか?渡したいものがあって……」


「え?あ、いいですけど、なんだろう?」


「じゃあ、あとで」


 なんだろう?まさか教えた札幌のラーメン屋のお礼とか……いや、あのお礼はお土産でもらったよな、なんだろう?まあ卒業生は卒業の時にお世話になった先生に何かしら置いて行く子もいるしな……ん?なんか世話したっけ?やっぱラーメン屋か。


 どうもあの寺井は=(イコール)ラーメンだな。あの子も今日はなんだか少し大人びた顔をしている。4月から大学生だもんな。そんなことを心の中で思いながら、登校してくる卒業生にする最後の朝の挨拶を続けた。



 準備万端でした放送の失敗もなく無事に卒業式を終え、直人は職員室の給湯スペースで淹れたコーヒーで、ホッと一息入れた。子どもの頃には砂糖とミルクを入れた甘いコーヒーが好きだったが、いつの間にかコーヒーはブラックになった直人は、甘いものあったっけかなと机からチョコを出し、口に含んだ。


「真崎さん、生徒さんが面会だそうですよ」


 職員室にやってきた隣の席の篠宮にそう声をかけられ、ふと入り口に目をやると、そこに寺井がいた。なんだ入ってくればいいものをと思ったが、行くことにした。


「お、きたな。なんだ、入ってくればいいのに」


「いえ、さっき卒業したので」


「おいおい、名目上は31日まではここの生徒だぞ」


 そう言った真崎直人に、鼻でクスッとした寺井はこう続けた。


「真崎先生、札幌の美味しいラーメン屋さん教えてくれてありがとうございました。最後なのでもう一度、ひと言お礼をと思って」


「そんなこともう気にしなくていいよ。こちらこそ、お土産ありがとう」


「先生、これ、気持ちだけですけど……」


 そう言って、何やら握った手を差し出した寺井に向け、「いいのに……」と言いつつ手を出した。


「……ありがとうございました」


 そう呟いた寺井の小指が、直人のひらいた手の小指に触れた。


「え?」


 思考が停止した。


 小指に小指で……これは、なんだ?そうだ、約束したんだ。愛さんと。会えたら小指で合図を……小指の先だけでもいいからあなたに触れたいと、そんな話をした時に決めた……2人だけの合図……


 小さく微笑んだ寺井は、一つ頭を下げて背を向けた。


 整理しきれないままそこに立ちすくしていると、こちらに向かい増本がやってきた。寺井と増本がすれ違いざまに何やら言葉を交わしたことに気付いたが、まだ思考が動かない。


「真崎さん?」


「あ、あの、今、寺井さんからラーメン屋のお礼だって……そういえば、今更ですけど寺井さんの名前って……」


「ああ、寺井?まなみだな。寺井愛美。愛に美しいだ」


 まな、み……まな、まなみ……愛……


 あああ……なんだ、なんてこった……まなみ、寺井愛美か……


 クリニクラウンの時、そうだ、病院で見かけた。写真の展示会、クラウンフェスタ、そうだ、何回も見かけてたじゃないか。あっ、ディズニーランドもだ。寺井が長かった髪を切った……確かそれも愛さんと同じ頃か……


 想像すらしなかった現実が押し寄せ、直人は混乱した。いつの間に戻ったのか、自分の席に着き冷めたコーヒーを口に含み、愛の言っていたことを次々に頭の中に繰り出していた。


 『今までの取捨選択は間違いではなかった。直人さんと出会えたから』


 確か、愛はそう言っていた。そして、こうも言っていた。


 『取捨選択を間違うとすれば、それは直人を想っているから』……だと。


 間違うとすれば、直人を想っているからだ。


 そうか、そうだな、だから姿を消したんだな。ははっ、はははっ、そうだな、生徒とこんなやり取り、そうだな、そりゃ言えないよな。そうか、俺のためか。そうだな、真崎先生のために、愛は消えたんだ。


 ごめんな、気付いてやれなかったな。ごめんな……こんなに近くにいたのにな……


 直人は、ずっと願い続けた、小指が触れ合ったその場面を、何度も思い返していた。


 『もし愛さんの小指が触れたなら、そしたらもう、離さないから』


 直人が愛に伝えた言葉が、寺井愛美の消えた廊下の向こうに、吸い込まれて、消えた。

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