第4話 あと13分


「梨帆さん」

「……」

「梨帆さーん」

「……」

 何度呼ばれても梨帆は微動だにしなかった。馨の首に巻きつき、馨の頭に頬を寄せたまま、難しい顔をして黙り込んでいる。


「そろそろ首が締まるんだけど」

「あ、ごめん」

 梨帆がパッと両手を離す。意図せずヘッドロックのようになっていたようだ。

 馨の首に異常がないか、梨帆はしげしげ見ると優しくさすった。


「どうしたの」


「……そわそわする……」


 時刻は22時46分。もう梨帆は3時間も前から――いや、今日という日が始まってからずっと、心ここにあらずだった。


 1時間と8分後には、馨がその人生と共に歩んできた、ニコモンの新作ゲームが発売するのである。


「なんで梨帆さんが」


「だって馨くんずっと楽しみにしてたじゃん」


 馨でさえここまでそわそわしていない。なのに梨帆は明日が近づけば近づくほど、ものすごく緊張してきていた。


「口から胃が出そう……」

「どうどう」

「駄目だ。馨くん。横になって」


 馨は訝しみながらも横になった。洗面台で自らの化粧水と乳液、そしてカミソリとはさみを取ってきた梨帆は、馨の頭部付近に座る。


「お客さん、初めてですか?」

「そういえば数年前にも来た気がします」

「お好みの眉毛はありますか?」

 指で馨の眉毛をなで付ける。男の眉毛らしく、伸びっぱなしのために、指の腹で撫でるとすぐに毛は流れた。


「自然なのがいいです。あとはお任せします」

「へいらっしゃい」

「待って。ガチガチじゃん」

「大丈夫。手元は狂わないから、大丈夫」


 大丈夫、ともう一度呟くと、梨帆ははさみを持つ。


「目は閉じててくださいね〜」

「はい……」


 恐怖を諦めで閉じ込め、馨はそっと目を閉じた。梨帆ははさみを器用に動かし、眉を整えていく。


「最後にリンパのマッサージもしときますね」

「手持ち無沙汰感すごいね」

「何かしてないとドキドキが止まらない……」


 化粧水と乳液をいい具合に混ぜた物を、馨の顔に塗っていく。顎から頬骨、頬に小鼻。手のひらを使って丁寧に塗りつけた後、自分の顔にするように、リンパを流していく。


「お客さん、どうですか?」

「気持ちいいです」


 十人中十人が、「へー、そっか」と思う声だったが、梨帆は「ほー」と口にした。


「馨君って嘘、上手いのにね」

「……少し、痛いです」

「少しだったら多分、嘘は上手いままだね」

「大分痛いです」


 顎から耳のリンパを流し、耳の裏のところをぐりぐりとすると、体がぎゅっと強張った。力を緩めると、体のこわばりも解けていく。優しい力で、何度かさすっていくと痛みは消えていったようだ。

 しかし、気をつけて見ていないと、それすら梨帆に気を遣った嘘の場合がある。もしくは、早く止めて貰いたいための演技だ。


「結婚する前とかは、全然嘘とかわかんなかったなー」

 何しろ梨帆は、馨のことをめちゃくちゃに誠実な人だと思っていた。

 それは、馨が誠実であろうとしてくれていただけなのだと、結婚して数年も経つとわかるようになった。


「ずっとわかんなくってもよかったのに。梨帆の損になるような嘘はつかないつもりだから」


 目を瞑ったまま馨が言う。


「きゅんとして力加減間違えちゃいそう」

「それは出来るだけ頑張ってください」


 笑いながら、梨帆は慎重に馨の顔を撫でる。


 時計の長針が、コチッと一つ進んだ。



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