ボンボン亭の番犬
安良巻祐介
ボンボン亭の番犬は、青カビの生えた泥まみれの布を被され、店跡にある暗い穴から出入りする。
行き会う者には、汚れた布の下から泥で毛の固まった獣の足が四本、出ているようにしか見えず、その顔や体を目視したという話は、聞かない。
そいつが、「13時のボンボン亭」の番犬であったことは皆知っていても、店の人間が流行り病によって死に果て、朽ちてしまった店の跡地から、なぜあのように現れるのかは、誰も知らない。
ボンボン亭は繁盛しているとはとても言えなかった。店主もその家族も、何か妙なところで狂気的で――例を言うならば、銀食器を卓に積み重ね、客がいるのに讃美歌の輪唱をし、それもまるで出鱈目な節をつけて歌うとか、見たこともない動物の大きな剥製を、本日のおすすめの硝子ケースに入れておくとか、ゴヤの不気味な絵に因んだ真っ黒いメニューを頼んでもないのに出してくるとか――料理の腕が悪いというわけでもないのに、土地の者たちからは避けられがちだった。店に出入りするのは、おおむね鼻つまみの酒吸いたちか、流れの商人か、怪しげな野良細工師などがほとんどだった。
そのうち、きっと何かしらの問題を起こすだろう――昔からひそひそとそう囁かれつつ、しかし結局は何事もないまま、町に覆い被さった流行り病によって、ボンボン亭の歴史は閉じた。
番犬は店の生きていた当時から陰気な眼をした犬だったが、犬種がなんであったか、不思議とこれもまた忘れられてしまっている。ただ、その目つきと、やたら舌を出していつもハアハアと荒い息をしていたことは、人々の脳裏に嫌な色で刻み込まれていて、今もどうやら、布の下からハアハアと息をしているらしい。
番犬を呪いの具現だというものもいたが、今のところ何をするでもなく、店の跡地から現れては、人々の間を擦り抜けて、路地を走っていくだけである。
保健所が入り、捕まえようとされたこともあったが、そのたび、犬は煙のように姿を消し、全く尻尾の先をも掴ませなかった。
そしてまた、奇妙な事には、往路の犬を見かけるものは何人もいるのに、復路――店へと帰っていく犬の姿は、誰も見たことがなかったのだ。
今夜もまた、犬は店の跡地から現れて、町を横切った。人々の目に、その姿を刻み込ませてゆくらしい。
まるで、何かを咎めるように。忌まわしいその姿そのものが、暗示であるように。
さて、皆知っていながら、誰も口にしない事実が一つだけあって、それは病によってボンボン亭の親父が息を引き取ったちょうどその時、正午を告げる壁の時計が、なぜか十二度鳴った後でもう一度、追加で音を鳴らしたということだ。
その事が、あの不気味な番犬の出現と何か関わりがあるのかはわからないけれど、その追加の一度の時計の音が、犬の死ぬときの声に似ていたというような話もあって、町の人々は、番犬のことは知らぬふりで、ああやって薄く目を開けてばかりいるらしいのだ。…
ボンボン亭の番犬 安良巻祐介 @aramaki88
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます