最終話 「制服の第二ボタンを」

「私、思ってたんだ」


 卒業式の最中、朝倉菜摘は僕にしか聞こえないような小さな声で言った。

「多分、水沼君は私のことを鬱陶しいと思っているだろうな、って」

 事実を淡々と説明するような口調。

 それがかえって彼女の心の中に沸き起こっている思いの大きさを、僕に伝えていた。

「――そんなことはないよ」

 僕がそう否定すると、菜摘はこちらをちらりと見て、小さく笑いながら言った。

「水沼君、嘘つく時はいつもより話を始めるタイミングが遅れるから、すぐにわかるよ。知ってた?」

 知らなかった。

 僕が黙り込むと、菜摘は正面を向いて、再び小さな声で話を続けた。

「水沼君。実は高校では女の子からすごくモテていたんだけど、気がついてた?」

「いや」

 それは全然知らなかった。

「ふうん、本当に知らなかったんだね。今度は即答したから」

「……」

「私も、最初のうちはずいぶんクラスの子から相談されたんだ。水沼君と仲良くなりたいんだけどどうしたらいいんだろう、って。幼馴染だってみんな知っていたからね。でも、最近は誰もそんなことは言ってこなくなった。どうしてだと思う?」

「それは……」

 その時点で、僕は彼女の言いたいことがすっかり分かっていた。逡巡したのは嘘をつくためではなくて、なんだか自意識過剰な気がしたからだけれど、結局はそのまま言うことにした。

「……菜摘がいつも僕のそばにいて鬱陶しいほどに話しかけていたから、他の子が近づけなかったんだろう?」

 横目で菜摘のほうを見る。彼女の横顔は気持ちよいほどに笑っていた。

「そう。その通りだよ。でも、話のネタってそんなに豊富にあるわけないじゃない? だからといってテレビとか天気とかの話題じゃ、全然つまんないし。それで、思いついたままに変な質問を繰り返してしまったんだけど、水沼君はそれに対して真面目に答え続けてくれた」

「……」

「嬉しかった。と同時に、そんな姑息なことをして、鬱陶しがられている自分に腹が立ってもいた。幼馴染という立場を利用して、水沼君の邪魔をしているような気がしていた」

「……」


「ねえ、水沼君。どうして卒業式の後、制服の第二ボタンを好きな子にあげるのかな」


 彼女がいつもどおりのどうでもよい質問をする。

 そして、僕は当然のことながらその答えを準備していた。咳払せきばらいしてから、説明を始める。

「おほん。学生服メーカーのカンコーによると、その理由には三つの説がある。まず最初の説だけれど、通常の学生服にはボタンが五つあり、その一つ一つに意味があると言われている。一番上が『自分』、二番目が『大切な人』、三番目が『友人』、四番目が『家族』、五番目の意味は謎なんだけど、それはともかくとして、『一番大切な人になりたい』という気持ちをこめて二番目のボタンを贈ると言われている」

「ふうん、なんだかこじつけみたい。第五ボタンが謎ってあたりが、だけど」

「まあまあ。そして、次が『第二ボタンは心臓に近いところにある』ことから、心を掴むという意味で第二ボタンをもらうという説」

「ああ、それが一番良く聞く説じゃないかな」

 自分が質問したくせに菜摘がそう言ったので、僕は苦笑した。

「そして最後が、『大切な人に最後の想いを伝えるため』という説。学生服の始まりは軍服と言われているけれど、昔、戦場に旅立つ際に形見として大切な人に軍服の第二ボタンを渡したことの名残、と言われている。なぜ第二ボタンかというと、一番上のボタンでは襟元がだらしなくなるけれども、第二ボタンであればばれにくい、というのが理由だそうだ。一九六〇年公開の『予科練物語』という映画にそのシーンがあって、それが元ネタだという説もある」

「ふうん……」

 そう言ってからしばらく間が空く。

 僕がまた横目で見ると、菜摘の横顔は真剣だった。彼女の唇が小さく震えている。

 しばらくして、その唇が動いた。


「……じゃあ、迷惑をかけるのはこれで最後にするから、卒業式の後で第二ボタンを私にくれないかな」


「……」

 僕が答えをためらうと、彼女の横顔が項垂うなだれた。

「ごめん、忘れて。ごめんなさい、鬱陶しくて。水沼君、卒業したら東京の大学に行くんだよね?」

「……」

「本当のことを知りたくなくて、いままで聞けなかったけど、水沼君の成績ならば合格して当然のはずだよね? 私も相当頑張ったんだけど――自分史上最高に頑張ったんだけど、一緒のところに行くことはできなかった。だからもう、これ以上隣にいて鬱陶しくすることすら出来なくなる。それで最後の最後になんだか変なこと言っちゃった」

「変じゃないよ」

 そう言ってから、僕は小さく咳払いをした。


「第二ボタンの件を即答しなかったのは悪かった。ただ、『あげたくない』という意味じゃない」


 僕の視界の端で、菜摘が僕のほうを向く。

 僕は横目のままで話をつづけた。

「僕は第一の説も第二の説もピンと来ていない。第三の説がそれっぽいなと思っている。だからこそ、君に第二ボタンをあげることはないんだよ」

 菜摘の目が大きく見開かれる。

 僕は小さく笑いながら言った。

「僕は東京にはいかない。これからも君のどうでもよい質問に答え続けるつもりだから、宜しくお願いします」

「……はい、お願いします」


 その後、校歌斉唱の間ずっと、僕の隣からは言葉にならない歌声が聞こえることになるが、その件は詳細に語らないことにする。


( 完 )

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「私、思うんだけどさぁ」 阿井上夫 @Aiueo

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