雪桜
紺道ぴかこ
雪桜
ミツキは雪の絨毯をざくざくと踏みしめ、急勾配の坂を登っていた。雪に覆われた大地が、太陽の光を浴びて銀色に輝いている。冬の穏やかな日光が、木々の合間を縫って地上に差し込んでいた。
辺りを雪に囲まれているとはいえ、日差しも相まって歩き通しの彼の額にはうっすらと汗がにじんでいる。雪山を歩くだけでも充分体力が削られるというのに、
「ねえ、待って。――待ってよ!」
後ろからついてくる子供の相手をしながらであるのだから、その疲労は計り知れない。
仕方なく立ち止まって振り返ると、黄色いマフラーと手袋をした六、七歳の少女が、小さな足を雪の中に沈めるようにして懸命に歩いていた。
少女はミツキの目の前までやってくると、肩で息をしながら上目遣いに見つめてきた。
「おにいちゃん、歩くの早いよぉ! もう疲れた……」
「誰のためだと思ってるんだ?」
容赦のない言葉に、少女が肩をすくめる。大きな丸い瞳が湿気を帯び始めたのを見て取り、まずい、と思った。どうも子供の相手は苦手だ。
そもそも、なんで僕が子供のお守りをしなきゃならないんだ。自身に問いかけて、やれやれと首を振る。考えるまでもない、うっかり目が合ってしまったからだ。あの手のものは面倒しかもたらさないのだから見つけても無視するよう努めていたのに、ふとした瞬間に気が緩んでしまった。
それに、どうしても放っておけなかったのだ。幼い少女が路上に落とした暗いまなざしを認識した途端、体が勝手に動き出していた。それはよく言えば優しさ、悪く言えば自身の甘さゆえか。
なんにせよ、もう関わってしまったのだ。過去を悔やむより、やるべきことがある。
「う、うぅ……」
今にも泣きだしそうな少女を、どうにかしてなだめなければ。
「疲れたならその辺で休んでろ。僕が探してきてやるから」
「やだぁ! ユオが自分で見つけるって決めたもん!」
「だったら一人で行けばいいだろ。だいたい、なんで僕があるかどうかわからない桜なんて探さなきゃならないんだ」
「あるよ」
思わず本音を漏らしたミツキの服を、手袋に覆われた小さな手がぎゅっとつかむ。少女は目を潤ませながらも、力強くミツキを見つめていた。
「雪の桜はあるよ。この山で見た、ってパパとママが言ってたもん!」
「そう思うなら泣くな」
少女の手を振り払い、ミツキは再び歩き出す。背後から聞こえた「うぅ」といううめき声が、後に続いた小さな足音によってかき消される。ついてこなかったらどうしようかと思ったが、杞憂に終わったようだ。
その後、二人は黙って歩き続けた。静かな雪山に、二人分の足跡が増えていく。進めども同じ景色ばかりが広がり、時間が刻々と過ぎていった。
ふと空を見上げると、太陽は元気をなくしてしまったのか、空は闇に侵食されていた。
「くしゅんっ」
振り返ると、少女が自分を抱きしめるようにして小刻みに震えている。夜が近づき、徐々に冷え込んできている。ミツキの肌にもそれは感じられた。
開きかけたミツキの口を、強く吹きつけた風がつぐませる。
白い粒子が風に揺らされ、宙をふらふらと泳いでいた。
「雪?」
いや、違う。つぶやいた言葉を、即座に自身で否定する。本来空から降ってくるはずのそれは、闇の向こう――山の奥からやってくる。
「あ……」
少女も宙を舞うそれに気がつき、驚きと期待の入り混じった声を上げる。二人は互いに顔を見合わせると、闇に向かって歩き始めた。
急だった坂は進むにつれ緩やかになっていき、辺りを覆う木々も徐々に数えるほどに減っていく。
やがて、視界が完全に開けた。
目に飛び込んできた光景に、ミツキは言葉を失った。彼の背中から顔をのぞかせた少女も、呆然と立ちすくむ。
凍りついた川の向こう岸に、太くたくましい幹が、夜の寒さをものともせずに胸を張っている。幹から派生する枝が、純白の花をいくつも咲かせている。開けた空から差し込む月の光を受けて、白い桜はぼんやりと光を放っているようだった。
数枚の花弁が、風とともに舞い散る。ミツキが目の前をよぎろうとした一枚をそっと手で包んでみると、ひんやりとした感覚が掌に落ち、一瞬にして消えた。掌を開くと、そこにはなにもない。
「これが、雪の桜……」
「だから言ったでしょ!」
感嘆の息を漏らすミツキの袖を、興奮した様子で少女が引っ張る。
「雪の桜はあったんだ! パパとママの言う通りだった!」
はしゃぐ少女を尻目に、ミツキは桜に見入っていた。子供の戯言と思っていただけに、衝撃は大きかった。
「……おにいちゃん」
それまでとは打って変わった落ち着きのある声に、我を取り戻す。隣に視線をやると、照れくさそうな微笑みを浮かべた少女がミツキのことを見上げていた。
「一緒に探してくれてありがとう。もう、大丈夫だよ」
その言葉がなにを意味しているのか、すぐに理解した。こうなることは初めからわかっていたのに、いざそのときを迎えてみると、胸の奥がうずいた。
「どうして、……この桜を、見たかったんだ?」
柔らかな笑みを浮かべ、少女が静かに答える。
「最後にどうしても見たかったんだ、ユオに名前をくれた桜を。『この桜みたいに美しくなりますように』って、パパとママが名前をくれたの」
穏やかな少女の声に、胸の痛みが大きくなる。
おそらく、少女はわかっているのだろう。両親の夢が、すでに潰えてしまったことを。
「それにね、この桜を見た人は、願いが叶うんだって」
少女の頬を、温かい雪が一筋滑り落ちる。それでも笑って、少女はミツキに問いかけた。
「ユオの願いも、叶うかな?」
ひときわ強く風が吹き、花弁が空にさらわれる。
花弁はごうと音を立て、ミツキの視界を白く埋め尽くした。花の吹雪に包まれたミツキが、思わず目をつむる。
目を開けたときには、少女の姿はどこにも見当たらなかった。
「……行ったか」
ミツキは辺りに視線をさまよわせた。目に入るのは、凍りついた川と向こう岸で雪を咲かせる一本の桜の木だけだった。理解しているはずなのに、虚しくなる。去り際の言葉を、頭の中で反芻する。
――ユオの願いも、叶うかな?
散り際、少女は桜になにを願ったのだろう。今となってはもう、それを知るすべはない。
「願い、叶うといいな。……
後日。雪山の奥で、黄色いマフラーと手袋をした少女が、冷たくなって発見された。
雪桜 紺道ぴかこ @pikako1107
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます