眠り
たいらやすし
第1話
あまりの激務に身心を削られ会社を辞めてからというもの、わたしは一日のほとんどを布団の中で過ごしていた。
どれだけ寝ても眠気はあっという間にわたしを捉え、心地よく飲み込んでしまう。
布団はだから敷きっぱなしで汗と埃のにおいが染みついていたけれど、それを気にする事もなくなっていた。
どうしてこんなに眠れるのか。
怖いくらいによく眠れる。
誰かと会うのも新しい仕事を探すのも面倒で、現実から逃れるようにしてわたしはひたすら眠り続けた。
それは確実にわたしを蝕んでいたのだろう。
ある日の事、酷い頭痛と吐き気で目覚めたわたしは、とうとう布団から体を起こす事もできなくなっていた。
部屋中がぐるぐると回り全身は砂袋みたいに重い。
目の奥が鋭利に痛み、痙攣した胃から搾り出された胃液は喉を焼いて何度も咳き込んでしまう。
助けを呼ぼうとたぐりよせたスマホはとうに充電が切れて沈黙したまま、これはいよいよまずい事になったと焦り出す頃には再び抗いようもない強烈な眠気にさらわれ、わたしは呆気なく意識を手放してしまった。
やけに硬い椅子に座りながら見回した部屋は、わたしの暮すアパートではなかった。
ドアと窓がひとつずつあるだけの、狭くも広くもない中途半端な四角形のこの部屋には、わたしが座っている椅子以外に家具はない。
窓の外は夜なのかひどく雲っているのか、暗い色に塗りこめられている。
耳鳴りがするほど静かで何の匂いもないこの部屋が急に怖くなったわたしはギュッと目を瞑り、思わず信じてもいない神様に祈ってしまった。
ふと気配を感じておそるおそる目を開けたわたしの前に、ひとりの男の子が立っている。
違う。男の子じゃない。
小さいだけで、その顔は大人のものだ。
「川向こうが沈んだって。さっきラジオで言っていたよ」
喉に絡む声で告げる小さな男はどこからともなく自分用の椅子を出してわたしの前に腰掛けた。
「次はどこが沈むのか、賭けをする連中も居なくなってしまった。みんな沈んじゃったんだね」
曖昧に頷いてはみたけれど小男の話がよく掴めない。
「もうすぐここも、きみだって、すっかり飲み込まれて沈んでしまうだろうね」
「ここは一体どこなの?」
隙間風みたいに頼りない声で訊ねると小男は愉快そうに目を見開く。
「どこ?!どこって……そりゃあ、ねえ?」
もったいつけるような物言いに苛立ち語気を強めて再度訊ねると、小男は椅子から転げ落ちるくらい笑った後で真顔に戻ってこう言った。
「世界の果ての庭に決まってるじゃないか」
カーテンの隙間からねじ込まれた光が眩しかった。
ここがどこで自分が何をしているのか、しばらく分からなかった。
埃っぽい空気と湿った布団の感触。
奇妙な夢から覚めた安堵に全身が緩んだ。
夢の手ざわりに身震いしながらどうにか起き上がり布団から這い出すと、わたしは久しぶりに窓を開け、まとわりつく眠気を洗い流すように新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
気を抜くと倒れこみそうになる布団をどうにか干して、それからなるべくきちんとお茶をいれて飲んだ。
体があたたまると今度は空腹を感じ、トーストを焼いて食べた。
どうにか眠りと折り合いをつけねばならない。
すっかり飲み込まれる前に、どうにかしなければいけない。
夢の中の小男の言葉が胸をよぎる。
誰かに会いたかった。誰でも良かった。生きている人と話したかった。
スマホを充電してはみたけれど、平日の昼間に電話できる相手が思い浮かばない。
就職してからというものとにかく仕事が忙しく学生時代の友人達とはすっかり疎遠になっていたし、元同僚にかけるのも気が引ける。
実家に電話してみようかとも思ったが昨今の特殊詐欺を警戒して父も母も固定電話には出なくなっている。
携帯は両親ともに持っているが、わたしからかける用事もなかったので番号を控えていない。
自分がまるでこの世界に参加していないかのような感覚は、胸の内に小さくはない空隙を作った。
その空隙から眠気があふれてきそうで、わたしは慌てて外出の支度をする。
このままではいけないのだ。
平日の午後の公園にはさまざまな人達がいた。
子連れのお母さん、サラリーマンに小学生、ベンチに座って目を閉じているおばあちゃん。
今日という日にきちんと参加している人達。
このところ眠ってばかりいたわたしは今日が何曜日なのかも分からなくなっていた。
ほんの少し休みたかっただけなのに、いつの間にかこの世の流れから外れてしまったように思った。
眠りに身を任せる内すっかり動けなくなってしまい、世界の果ての庭に迷いこんでしまったのだ。
戻れるだろうか。
すべてが沈んでしまう前に、この場所に、わたしは戻れるのだろうか。
あどけない色の遊具に額をあてると鉄の臭いがした。
現実の手ざわりに励まされるようにしてわたしは、ようやく目覚めたように思った。
眠り たいらやすし @yukusaki
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