凝視

清野勝寛

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凝視



 まるで、体が急速冷凍されてしまったかのようだった。今は夏だというのに。けれど、体を伝う汗の感触は、はっきりと分かった。動けない。全身の筋肉が硬直してしまったかのようだ。いや、動こうと思えば動けるのだろうが、それを全身が、脳が拒否しているような感覚がある。実際は、ただ目が離せなくなっただけだった。

 そう純粋に、目が離せなかった。彼女から。

 教室の隅、窓側の席、後ろから二番目。肩に掛からない程度の黒髪が、カーテンと一緒に風に揺られていた。汗だくの俺とは違い、彼女は一切汗をかいていないように見える。彼女の周囲だけ、少し気温が低いのかもしれない。それならこの時期、もう少し彼女の周囲には人がいそうなものだが。

 彼女がこちらを向いた。目と目が合う。これだけ見つめていれば目が合うことなんて幾らでも機会がありそうなものだが、そんな機会は彼女と同じクラスになってからの一年半、一度もなかった。それは、彼女に気付かれないように細心の注意を払い、時折盗み見るようにしていたからだ。話をしたことすらない。

 彼女は、普段から一人でいることが多かったような気がする。真面目な性格なのか、休憩時間もノートに何かを書いたり、本を読んだりしている。そうやって彼女が俯いている時に、俺は彼女を見つめていた。それだけの関係……いや、関係というのもおこがましいくらい、彼女と俺には接点がなかった。

 それなのに今、教室の端と端、これだけの距離があるというのに、彼女と俺は目が合っていた。普段から人見知りである俺は他人の目を見続けることが得意ではない。だというのに、まるで蛇に睨まれた蛙のように、俺は彼女の冷めた視線から目を逸らすことが出来ないでいる。そして、どういうわけか彼女も、俺から目を逸らそうとはしない。

 わけがわからなかった。俺みたいな人間を見ていても楽しいことなんてないだろうに。自分の心臓の音が、耳の中で反響する。どうすればいいのだろう、俺は。このままずっと固まっているわけにもいかない。次は移動教室なのだ。少しずつ教室の喧騒が遠くなっていく。いつも一緒にいるクラスメイトは、こんな時に限って俺を置いて先に行ってしまったようだ。このまま彼女と二人きりになるなんて、気まず過ぎて心臓が張り裂けてしまう。


 どれくらいの時間、そうしていただろうか。

 不意に、彼女が薄く微笑む。そして机の上のノートやら教科書やらを机の中にしまい、別の教科書とノートを取り出し、立ち上がる。まずい、こっちにくる。そうだ、いっそこのまま遠くをぼんやりと眺めるふりをしてやり過ごそうか。なんなら次の移動教室は体調不良ということで欠席しても良い気がする。一時間もあれば、彼女の中で俺と見つめ合っていた時間など消えてなくなるだろう。そうなれば御の字だ。そして二度と、彼女の表情を見ることはないだろう。……後ろ姿を眺めることくらいはあるかもしれないが。

 脳内で現実逃避をしているうちに、彼女が視界から消えた。そのまま彼女は俺がいる側の扉とは反対の扉を開き、出ていった。良かった。そのままさっさと移動してしまってくれ。


彼女の足跡が遠くなっていく。


そして、教室からは誰もいなくなった。


 予鈴が鳴り響く。よし、計画通りだ。俺はようやく動けるようになった体を軽く解す。数度深呼吸をすると、眩暈がした。なんとなく呼吸が荒い気がするし、視界が少し霞んでいるような気もする。まさか、本当に体調不良になるとは思わなかった。だが、これで嘘を言わずに時間を空けることが出来るだろう。俺は保険室を目指そうと振り返り教室を出る。


「よ」

「ぉわ」


 教室を出たところに彼女がいた。思わず飛び上がり、そのままその場に尻餅をついてしまう。なんでここにいるんだ。もう予鈴はなっているのに。普段の冷たい表情からは想像出来ない、いじらしい表情で彼女は俺を見下した。

「驚きすぎ」

「……いや、だって」

 視線を逸らすと、スカートを折りたたみ、俺の目の前にしゃがみ込んでくる。距離が近くなって、少しだけいい匂いがした気がして、カッと頭に血が昇る。

「出てくるの遅いよ。予鈴鳴っちゃった」

 俺のことを待っていたということだろうか。意味が分からない。俺には彼女の思考を読み取ることも、行動を読むことも出来なかった。なんと答えていいか分からず、とりあえずごめんとだけ呟く。

「そうだね、せっかくだし、サボっちゃおうか」

「……俺は、そのつもりだったけど」

 俺がそう言うと、彼女は立ち上がり手を差し出してくる。顔を上げると、彼女は薄く笑いながら俺を見下ろしていた。

 視線を彼女の手に移す。白くて、細くて、綺麗な手だった。俺なんかが触れたら、きっと一瞬で壊れてしまうような、そんな危うさがあった。

「……また、見てるだけ?」

 彼女の言葉が俺に降り注ぐ。答えずにいると、更に彼女が呟いた。

「……折角勇気出して、近付いてみたのに」

 その言葉を聞いて、弾かれたように顔を上げる。また目が合った。ニヤニヤと俺を試すような笑顔。

 今の言葉はどういう意味だろう。いや、わからないふりをしても意味がない。彼女は、分かっていたのだ。俺が彼女を見つめ続けていたことを。更に顔が熱くなる。顔だけじゃなく、全身が沸騰しそうなほど熱くなっていくのが分かる。

 もう一度、彼女の手に視線を戻す。

 では、彼女は一体俺に何を求めているのだろうか。自分の都合の良いように考えてしまいそうになるのを、何度も否定する。ばかな。そんな都合の良い話があってたまるか。彼女は俺をからかって楽しんでいるのだ。一通り楽しんだ後、今のやりとりを友人やクラスメイトに言いふらし、俺を更に弄ぼうとしている。そうに決まっている。だから、彼女の手を取ってはいけない。だというのに、彼女の手から、目を逸らすことがどうしても出来ないのだ。

「しょうがないなぁ」

 大げさにそう呟いてから彼女の手が、俺の手に伸びて思い切り引っ張られる。彼女の細い体では、俺を引っ張り起こすことなんて出来るはずがない。バランスを崩して転びそうになる彼女の手を引き、そのまま自分も立ち上がる。

「……あ、いや、これは」

 慌てて手を振り解こうとしたが、彼女はそれを許さなかった。

「いくじなし」

 彼女の一言一言が、俺の体温を高くしていく。頭が茹ってしまって、どうにかなってしまいそうだ。彼女が俺の手を引き、歩き出す。

 もはや俺には、どこからが現実で、どこからが夢なのか、判断がつかなかった。だが、夢ならどうかこのまま覚めないで欲しい。そんなことを思いながら、俺は彼女に手を引かれ、どこかしらに歩いていく。


 一つ、確かなことがあるとすれば。

彼女の周囲の温度は、低いどころか他より高い、ということか。



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