飛べない天使
ぴよこ
第1話
沈みたい。
ずぶずぶと波に攫われた二本の脚。感覚のなくなった青白い両手。
空にさよならは済ませてある。
あとはこの身体ごと、血に染まった海に沈むだけ。
夢も希望も未来も捨てた、僕に残ったものは何もない。
さあ、逝こう。
浮力に煽られながら最後の一歩を踏み出した。
瞬間、波の上に真っ白な羽、羽だ。
赤に屈しない、透き通るような白。僕の足が、自然と止まる。
背中が焼けるように熱い、痛い。そして何より、苦しいのだ。
雪のように、ひらひらと。
苦しみもがく僕を嘲笑うかのように、純白の羽が舞い踊る。
神はとても残酷で、我侭だ。
あんなに僕を嫌っていた癖に、見捨ててはくれないのだから。
ふっと笑みが零れた。
なんて、馬鹿馬鹿しいのかと。
今さら僕に、空を飛べと言うのだろうか。
死ぬな、と。そんなことを、言いたいのだろうか。
「……もう、立っているのがやっとなんだ」
行かせてくれよ、そう呟いたところで、僕に与えられた眩しい白が消えることはなかった。
生きたい。
そんなことを、僕は微塵も願ってなどいなかった。
考えても考えても、僕に翼が生えた意味はわからないままで、このまま沈むこともできないでいた。
まるで水と油のように、白は赤を弾いたのだ。
これは一体何の戯れなのか。
可笑しくって、反吐が出る。
途端、飾りだけの背中の白が、意図せず揺れた。
つられるように歩を進めれば、僕と同じ。
あの海に沈もうとしている一人の少女が、そこに立っていたのだ。
少しずつ、少しずつ。
戸惑うように海に身体を預ける、少女。
その小さな背中に、僕は声をかけることも、手を伸ばすこともしなかった。
望むままに歩めばいい。
ただ純粋に、そう思ったから。
血が、固まり始めた。
緋色は段々と星を吸い込み、藍鉄に表情を変えていく。もうそろそろ、少女の体力も限界だろう。
ふわり、と腰より長い髪が揺れる。
右、左。
驚くことに、彼女は地面を蹴ったのだ。振り返らずに、ふらりふらりと後退していく。
「……なんだ、つまらないな」
少女はなんて贅沢なのかと、翼に没することを拒まれた僕は、彼女がとても恨めしかった。
毎日、毎日。
少女は血の海に身体を預け、限界を悟っては這い上がり、陸を蹴る。
一体何が少女を思い留めているのか、単純に興味が湧いた。
少女の漆黒の髪に、僕はひらりと白を降らせた。
「君はとても、贅沢だな」
まだあどけなさの残る、普通の、ごく普通の少女。
没落したい理由も、それを既の所で止める理由も、僕にはわからなかった。
「君にはまだ、未来があるじゃないか」
白い肌、綺麗に切られた爪、整った眉、大抵子供が揃えられるはずもない、ピンクのワンピース。
幸せじゃないか。
それのどこに不満があるのか、と。僕には不思議でたまらなかった。
「私を見てくれる人は、どこにもいない」
ゆらりと羽が風に乗る。
ただ、少女の声に色はない。
「服も、声も、お金も、名誉もいらない。私はただ、誰かに必要とされたいだけなのに」
少女が発したその言葉は、幼い外見にはとても似つかわしくない、重たいもので。
鎧のように肌に染み付いた黄金を、少女はただ引き剥がしたかったのだろう。
鎧はいらない、ありのままの自分を見てほしい、と。
そういうことか、と僕はやっと彼女の不可解な行動の意味を理解した。
「お兄さんのその羽は、私と同じ?煩わしくて、無意味なもの?」
問われて、首を傾げた。
知らない、僕にだってわからないのだ。
「わかるのは、僕は空に繋がれて落ちた者だということだけだ」
何度か、空に手を伸ばしてみた。羽を揺らしてみた。
けれど、雲の上は愚か、重力に勝つことは一度もできなかった。
飛べない羽は、果たして羽などと呼べるのか。
「温かそうね」
背中が、じんわりと熱い。また、翼が勝手に子を生み降らす。
もしかして、と僕はある考えに辿り着いた。
「こっちへ」
手招き、少女を呼ぶ。
触れるか、触れないか。そこで僕の羽は今までで一番大きく円を描き、少女を柔らかく包み込んだ。
「……君はこいつに好かれたらしい」
ぎゅ、と体幹に腕を回された。頬を寄せられた。
涙の跡を、僕に残した。
「ずっと……夢見てた。私は、ずっと誰かに抱きしめてもらいたかった」
羽が、僕と少女を覆う。風も、音もない。
あるのは僕ら二人の、生きた心臓の拍動だけだ。
神は、残酷で我侭で、そして何より死を嫌う。
生きろ、と言われている気がした。守れ、と叱られた気がした。
何もない僕と、それを欲しがる欲張りな少女。
もう少しこのまま、羽があってもいいかもしれない。
何でもない僕でも、誰かを包み込める羽となれるならば。
空に別れを告げるのは、まだ先でもいいだろう。
飛べない天使
生かされた、僕の意味。
飛べない天使 ぴよこ @piyopiyofantasy
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます