後編

 守はトイレから戻ってきた。

 それに気づいた女の子達が守に手を振る。

 守はいつも通りの仮面めいた笑顔でそれに答える。

 まったくいけすかない。

 しばらく談笑が続いた。

 やれ村田さんが陸上部の部長になっただの(知ってるっての。僕も、きっと守も)なんだの。

 島村と村田の二人しか居ないのに、女の子っていうのはこうもかしましいのか。

 守にまるで接近できない。

 僕は爪を噛んだ。


 だけどしばらくすると女の子二人は予習をしなきゃいけないから、と言って守から離れていった。

 ――この期を逃すものか。

 僕は走った。

 島村と村田の間をすり抜けるように走ったので二人にはきっと変な顔をされた。自分でも気持ち悪いとは思う。


「……守」

 僕は声をかける。

 今度は正面からだ。

「……始?」

 守も、もう目はそらさない。


 チャイムが鳴る。

周囲から人がどんどん居なくなる。

その中で睨み合う。

とはいうが、実際に睨みつけているのは僕であって守は相変わらずの鉄面皮だ。

「……守、お前」

 そこから口ごもる。

 周囲にはもはや誰も居ない。

 間をもたせるものなど何一つ無い。

 僕が勇気を出して続きを言うしかない。

 

 守は一切動かない。

 こちらの反応を伺っているようでもない。

 ただ、動かないだけ。何もしない。


 僕は拳を握りしめ。

 ――電子画面上の、守。そして前真妙子の遺体。

 押し寄せてくる幻覚を振り払うように、いや、投げつけるように。

 言い、放った。


「お前……前真が死んだことについて…………何か、知ってるんじゃないのか」


 その時。

開け放してあった窓の外から、鳩が一斉に飛び立った。

 羽と風が、僕らの間を薙ぐ。

 守は――。


「あぁ」

 そう、言った。


 僕は駆け寄り、また胸ぐらを掴もうとした。が、今度は避けられた。

「なら教えてくれ……何があったのか。お願いだ」

 下らないプライドは何処かに消え去り、僕は必死になっていた。

「お前には関係のない事だ」

「関係無いってなんだよ。僕は……僕はな…………」

 一瞬溜めて、それから、意を決して、言った。

「見たんだ。――お前が何処かで戦っているのを。スマホやゲームの画面の中で!」

 ……こんなこと、真剣に言うのは馬鹿げていると思った。それでも、言った。

「意味が分からない。そんなお前の姿が映るたびに、僕の頭には前真のあの死体の姿がチラつくんだ。…………どういうことなんだ。何が、何もかも、どうなってるんだ」

僕は、伝えるために分かりやすく言う、という工程を放棄して、心の中に渦巻いているものを直接守にぶち当てた。一度話しだすと、水流のように言葉が溢れてきた。――結局誰かに聞いて欲しかったのだ。

 まくしたて終えて、守の顔を見る。すると、守が明らかに動揺しているのが見て取れた。鉄面皮が、僅かに引きつっている。

 やっぱりこいつ、何か知って――。

「そうさ。俺は全部知ってる。お前の言ってることだって、俺の口から説明できる。けどな、お前は知らないままでいい。知らないほうが、損しなくていい」

「お前いい加減に……」

「前真はな」

 僕はまた掴みかかろうとしたのを、止めた。

 次の言葉をそうして待った。

 守は言った。

「あいつは、馬鹿なことをやったよ。――――下らない」

 ――もう、手が勝手に動いた。

 僕は守を衝動的に、殴った。

 きっと、怒り以外の感情も僕を動かしたのだろう。だがそれが何であったかは説明できない。

「下らない、ってなんだ! ふざけんなよ……あいつお前の彼女じゃなかったのか!」

「そうだ。そのとおりだ。だからなんだってんだ」

 守は口の端についた血を拭いながら言い返す。僕はさらにそれに言葉を重ねる。

「お前……全部知ってるなら、どうにか出来たんじゃないのか! あいつが死んだことも、何もかも! それをお前……っ!」

「どうにか出来るなら、最初からやってるよ」

「この、野郎……っ」

「やめてよ!」

 割って入った声。

 未知だった。

 守も僕も、応酬をやめる。

「何やってるのよ二人共……もう授業始まってるでしょ……」

「未知、これは……」

「つべこべ言わない! 下らない争いなんか今はやめて、授業戻るわよ! …………灯瀬くん、あんたも!」

 未知に従うしかなかった。――守を掴んでいた手を話し、教室の扉へ向かう。

 守も、未知には逆らえない――昔からそうだったが――ので、服装の乱れを直して、教室に戻っていく。僕と未知の反対側の扉から。

 その時守は、僕に一言、こう告げた。

「一つ忠告しておいてやる、始。いいか――――お前が見ている世界が、たとえ本当のものじゃないとしても、そこがお前の居場所だ。…………それを、よく覚えとけ」

そして僕たちは、別れた。



 守が僕に言ったことを、僕はずっと考えていた。

 休み時間も、授業中も。未知が一緒に帰ろうと言っても取り合わなかったので、怒らせてしまったこともあった。

 それでも、守の言ったことから何かが分かりそうだった。何本かの糸が繋がりそうだった。だけど結局一歩一本がてんでバラバラの方向を向いていて、結局僕はあの幻影たち以上のものを得られていないのだった。


 そして。

 気付けば前真妙子の死から、一ヶ月が経過していた。


 それに気付いた時僕は愕然とした。もうそんなに経過していたというのか。


 考えてみれば、おかしなことなのだ。

 学校で死者が出て、しかもその死に方が異常で、警察だってあの死体をどうしたか分かっていない。

 そんな始末なのに、皆もう彼女の死なんて無かったかのように、彼女などはじめから存在しなかったかのように、忘れ去っている――。

 だけどそのおかしなことが、きっと今の『当たり前』になっている。


――ちょっと待て。


 僕は今、なんと言った?

 『居なかったかのように』と言った。

 警察がどう動いたのか分からないとも言った。

 ――そもそも僕は。いや、僕たちは。


 背中にひやりとした雫が垂れた。

 ――それは不安を超えた――――得体のしれない、恐怖だった。

――――そもそも僕たちは、あれ以来前真の死体がどうなったかすら知らないんじゃないのか。


 マスコミだって乗り込んでこない。

 普通こういう時は、リポーター達が、遺族や生前の知人に、心ない質門を湯水のように浴びせにかかったりするものなのに。……少々空気が読めすぎている。


 ――もしや。

 僕は推理を深める。

 大口を開ける闇に、歩みを進めていく感覚。


 『外部から完全に遮断された状態で彼女は死んだのではないか』。

 人が死んだというのに、この静けさは――異様だ。

 おかしな、で済ませていいものではない。

 何もかもが異様だ。

 前真の死に関して、彼女が死んだという事以外何も分からない。

 異様だ。――こんなの異様すぎる。

 もっと早くに気づくべきだった。

 彼女の死は、僕達が思っている以上に、多くの謎を秘めているのだ。

 そしてその謎の真相を、守が握っているのだとしたら。

 ――もう僕は、現実味の無さなど、問題にしなかった。普通なら起きないようなことが起こってしまった以上、それはもう現実であるのだ。

 

僕はまた守に、会わなければならない。

 ――守が何もかもを知っているということには疑いを挟まない。盲目的になっている、と言われればそれまでだ。だけど、それは根拠の無い確信として僕の中にあって、僕の身体を突き動かす。


「――守、お前は…………」

 守、お前はいつもそうやって、僕から…………。


 僕は走った。

 走って、守を探した。

 居ない。

 何処にも居ない。

 僕は階段を降り、校庭に出た。

 居ない。

 他の校舎や体育館も周ってみた。

 だが、居ない。

 僕は焦る。焦るから、余計に分からなくなる。


 結局元の校舎に戻る。

 ただでさえ運動不足なのに走りっぱなしだったから、僕は息を荒々しくつきながら、壊れたロボットのおもちゃみたいに階段をのぼるしかなかった。

 踊り場で、一旦止まる。

 壁にある鏡を見る。

 ひどい顔だ。――こんなに必死になって。

 この学校で、お前だけかもしれないんだぜ。異常さに気付いて、こんなに駆け巡ってるのは。

 僕は自分の汗まみれの顔にそう投げかけてみる。

 しかし返答はゼイゼイという呼吸だけしか無かった。

 ――言葉が出なくてよかった。出たら、心の中にある何かに打ちのめされていたかもしれないから。


 階段を登りきり、自分の教室のある階へ。振り出しに戻る、だ。


 外はもうすっかり日が暮れているようだ。もう人も殆ど居な――。


 ……ちょっと待て。


 僕は周囲をキョロキョロしながら、廊下を歩き回る。

 立ち止まる。

 愕然とする。


 ――この時間とはいえ、『誰も居ない』なんてことが、今まであったか?


 ――教室にも廊下にも、校庭にも。

 誰も居なかった。誰も、誰も。

 

「何が……」

 夜の青と、橙が奇妙に交じり合い、窓から差し込む。

 いつもの夕暮れ時、いつもの光景。

 その筈なのに。

 ――誰も居ない。その一点が、僕の目に映る景色を、僕の知らない何かに変えている。

 あり得ない。こんなことはあり得ない。神隠しとでも言うのか――?

 この学校は、完全に夜になるまで、絶対に誰かが居る。それは教師だったり、居残り学習の生徒だったり。しかし、誰も居ない。ここではあり得ないこと。

 なら。

 ――なら、ここは。

 ここは、何処なんだ。

途端に僕の心は恐怖心に包まれた。


僕は恐怖を持ったまま、誰も居ない場所を歩き続ける。いずれは人に会えるだろうと信じて。

だが体育館や校庭に再び行っても、やはり誰も居ない。

――ここは、僕が知っている世界の、学校じゃない。


マンガやアニメのような絵空事じみているが、そうとしか言えない。

僕は、いつの間にか、僕の知っている風景に似た全く知らない世界へ紛れ込んでしまったとでもいうのか、そんなことが。……そんなことが。

あまりのことに、僕は気が狂いそうになった。


だが歩き続けた。相変わらず守を探していた。もう思考能力は疲弊しきっていたので、半ば惰性だ。


 現実が理解を拒んだ状態になっても僕はふらふらと歩いていた。


 ――そこで、ちらりと人影が見えたような気がした。

 ハッとして近づいてみる。

 

 人影。――人だった。制服を着た、同じ学校の男子生徒であることに間違いはなかった。

 

 その生徒に、僕は無我夢中で駆け寄った。

 僕以外に、居た。このわけの分からない状況に放り出された人間が。

 全身を安堵が包んでいくのを感じた。


「ちょっと、そこの……」

 僕はその生徒に声をかけ、間近にまで迫った。

 

 生徒は、スポーツ刈りの、一つ下の学年だった。名前は知らない。

「すいません、あなたは……」

 僕は声をかけた。

 だが返事はない。

 そこで異様さに気付いた。

 ――その生徒は棒立ちになって、前方を見つめている。

 その瞳には、何の光も宿っていない。

 人形のようだ。

 僕の身体から安堵は消え、じわりと不安が広がった。

 肩を、揺すってみる。

 動かない。喋らない。

「…………っ」

 後ずさる。

 背を向けて、逃げようとする。


 肩を、掴まれる。

 振り返る。掴んだのは――その生徒。のような、何か。

「や…………」

 悲鳴を上げたい。

 だけど、口からは乾いた呼吸音しか出ない。

 足からは力が抜け、すぐにでもへたり込みそうなのに、そうさせてくれない。金縛りにあったかのように、動けない。視線を、生徒の形をした人形から、そらすことが出来ない。

 人形は――そう言うしか無い――口を、がばりと開けた。普通の人間なら顎が外れるであろうほど大きく。――やはり人間ではないのか。

 口の奥の暗闇から、何かがせり出してくる。

 球状の物体。

 ――野球のボールだ。


 人形は口から出てきたそれを、僕の肩を掴んでいないもう一つの手で取り、にやりと――。

 嗤った。

 正確には、笑いに近い顔の歪ませ方を作った。


 ねとねとした唾液に塗れたボール。

 人形はそれを、僕の頬にぴたりと当てた。

 息が止まる。心臓も一緒に止まりそうだ。

 ボールが、僕の頬を歪ませる。


 次の瞬間、僕は後方に大きく吹き飛ばされた。

 思いっきり殴られたような痛みだ。

 ボールが、ほんの僅か頬に触れただけなのに。

 僕は尻もちをつく。痛い。

「……っ!? !?」

 何をされた。僕は、何をされた。


 前方には人形。

 また口を開けて、ボールを取り出す。

 ボールを片手で握る。続いて人形は大きくしゃがみ込み……立ち上がった。

 人形の身体に、ある変化が生まれる。

 

 腕が、生えた。

 身体のあちらこちらから。

 それぞれの腕に、ボールを持っている。唾液で塗れた、汚らしいボールを。


「……っっっ」

 今度こそ、完全に僕の心が恐怖で覆われた。

 人形は――いや、もう人形などという生易しい形容は似合わない――化け物は、その異形を、少しずつ、僕に近づけてくる。


「――けて」

 声が出る。心の底から。

 化け物が迫る。

「――助けて」

 迫る。

 ――殺される。このままだと、殺される。

「――助けて。助けてくれ。助けて――――」

 化け物が迫る。

 そして僕はとうとう、叫んだ。

「――――助けてくれ。助けてくれ。助けてくれ、守――――!」

 畜生。

 結局僕は、お前に。

 お願いだ、助けてくれ、守。

 いつものように、あの時のように。僕の怒りなんて無視してくれていい。

 お前はいつも、僕のために。本当にごめん。謝る。今までの全てを謝る。だから、お願いだ。

 あの時のように、僕を助けてくれ――。

 脳裏に、幼少期から今までの、守と僕の思い出が閃く。思えばそうだ、昔から僕は――ずっと守に。だからあの時も、今回も、こんなにも僕は、守に。

 化け物が眼前に迫る。

 僕は、血を吐くほどの勢いで叫んだ。


「助けてくれ、助けてくれ、守――――――――――――――――――――ッ!」


 ――風が吹き、一発の銃声が轟いた。


   ◇


 守との絶交が決定的になってすぐの時期に、僕はこんな話を未知から聞いた。

 あいつは、灯瀬守は、学校内での交友関係が異常に広いのだという。

「まぁ、モテるってやつなのかな。なんか、やたら色んな人に声かけられてるって聞くよ」

「実際にモテるんだろ。あいつは顔がいいからな」

 そんな風に、その時は悪態混じりにそう返した。

 だけど僕はそれを聞いた時、密かにこう思っていた。絶交している状態であったこともあって、それを僕の思っていたことだと認めたくなかったのもあるが。

 ――あいつは、そんな風にして、皆の中に居て。あいつの中に、皆が居て。それは羨ましいように思えるけど、僕はちっとも羨ましくないぞ。なぁ、守。お前は――お前は、何処に居るんだ。そんなんで、寂しくないのか。もう一度聞くぞ。この声は届かないだろうけどな、守。お前は――お前は。


   ◇


 ――お前は、何処に居るんだ。


 銃声。

 化け物の悲鳴。人間そのままの悲鳴。

 硝煙。

 僕の前に立つ、影。

 見覚えのある後ろ姿。

 ずっと昔から見てきた背中。

「始、呼んだか」

 ――お前はまた、僕のために。

 守。――――灯瀬守!

「俺は、此処だぜ」


 守は手に持った拳銃を上に放り投げると、アサルトライフルに変化させた。

 化け物が手に持った全てのボールをこちらに投げてくるのと、守がアサルトライフルを手に持って撃つのは同時だった。

 耳をつんざくような破裂音が複数聞こえる。

 守は僕に向かって叫ぶ。

「走れ――――逃げろ!」

 僕は言うとおりにした。

 何度もつまづきながら、走って逃げた。振り向くと、化け物と守が戦っているのが見える。

 間違いない、それは僕が電子画面上に見た守の姿だった。僕は狂っちゃいなかった。

 校舎裏に逃げ込むと僕は倒れるようにして座り込んだ。そうして激しく息をついた。

 守。――守。

 また、僕はあいつに。

 頭を抱えてうずくまってみると、自分の身体で出来た影の中に、僕の中の色んな混沌が渦巻いているのが見えるような気がした。

 首を振って立ち上がり、恐る恐る元いた場所を覗く。


 ――既に決着していた。

 守が化け物を、制していた。


 僕は守の傍へ駆けた。

「――守」

「――野郎」

 ……え?

「馬鹿野郎! なんで……なんで来たんだ!」

 守は振り返って僕を見て、目を見開きながらそう叫んだ。――こんな表情をする守を見たのはいつぶりだろうか。僕は気圧された。

「分からない、僕はお前を探してて、気付いたら、此処に……」

「俺は言ったぞ。お前の居る世界が、お前の世界だって。それなのに…………」

 守の表情は、怒りから深い悲しみのそれに変わった。

「それなのに、お前は」

「……守」

「馬鹿、野郎が……」

 僕達はお互い俯いたまま、黙りあった。

 しばらく後で、最初に動いたのは守だった。

 化け物の身体にしゃがみ込む。

 化け物は――元の男子生徒の身体に戻っていた。血塗れではあったが。

 守は黒いノートに何かを書き込んでいた。

 それを見て僕は言った。

「なぁ、守。こいつ……この学校の、生徒、だよな……?」

「あぁ」

 やっぱりそうか。――僕はめまいがした。予想出来ていた答えとはいえ、ショッキングな事実には違いなかった。問題は、何故こんなことになったのかであるが。

「多分、お前の知らない生徒だ」

「……」

 確かに見たことのない生徒だ。

 守の口ぶりは、自分は知っている、とでも言いたげだった。

「――死んだのか」


「あぁ。…………ぐっ」

 守は呻き、頭を抱えた。

「……守?」

「大丈夫だ、気にすんな」

 ――大丈夫そうには見えない。嫌な汗を掻いているのが見える。

 だのに僕はこう言った。

「そうか……」

 ここで守の身を案じる一言さえ出てこない。それが僕だ。僕はその程度の奴だ。

 守は僕に背中を向けたまま言った。

「話すしか、無いみたいだな。…………この世界の、真実を」


   ◇


「……」

「まず始。お前、どうやって……いや、それはいい。なんでここに来ようと思った」

 僕はもう隠そうともしなかった。僕は守と絶好したことを完全に忘れていた。

「お前を、探してて…………そうだ。僕は思ったんだ。前真の死について、疑問に」

「疑問に……?」

「そうだ。……あの子が死んでから、『外部』から一切の接触が無い。警察もマスコミもまるで手付かずだ。なのに彼女の死はいつの間にか過去のこととして処理されてる……それで、そのことに誰も疑問を持ってない。先生達や、未知達も……僕以外の、皆が。教えてくれ、守。一体彼女はどうなったんだ。そしてどうして僕だけが、このおかしさに気付いてるんだ」

 僕は早口でまくしたてた。守が前真に対して言った酷いことも頭の隅に消えていた。とにかく、疑問の山を少しでも削りたかった。

 守は僕の台詞を最後まで聞いた後、口を開いた。低い、どこか諦めの混じったような声で。

「いっぺんに、言うなよ。わけ分からなく、なるだろ」

「……ごめん」

「謝るなよ、やりづらい」

 ――守への接し方を、僕はいつの間にか忘れてしまっていた。

「――始。俺は、出来ることならお前にこんなこと言いたくない。けどお前はこちら側に来た。だから、伝えなきゃならない。…………とてつもなく残酷な『真実』をな」

「…………いいんだ、僕は、それで」

「……お前」

「…………お願いだ、そこで躊躇なんて、しないでくれ。もっと僕が惨めになるじゃないか」

「……」

 いつの間に僕は、こんなにも守と離れてしまったのか。どこで間違えたのだろうか。

 僕の心の中の、ひんやりした感覚は、あらゆる言葉を受け入れる腹積もりが出来ていた。故に、守の言葉を待った。

 守は僕の方を向いて、目をつぶってしばらく俯いた。そして一回深呼吸して、言葉を、吐いた。真実を。


「お前達が学園生活を送っている世界は――データでしか無い。本当の世界は、此処だ。お前と俺と、前真以外の全ての人間が肉体だけになって眠っている此処だ。……あの世界は、その身体が見ている夢でしか無い」

 そん、な。

 どんな言葉だって受け入れるつもりだった。

 それでも。――それでも、そんな言葉は。

 視界が暗転し、気絶しそうになる。

 心臓の鼓動がとてつもなく早まる。

 今まで信じてきたもの全てが、たった今崩壊した。

 世界が、文字通りひっくり返った――。


「嘘、だろ……嘘って、言ってくれ」

「嘘じゃない。――これは事実だ。お前達は、精神だけを観念世界に移して終わらない夢を見るだけの、幻でしか無いんだ――」

「じゃあ、じゃあ…………あの化け物はどう説明するんだよ……生徒だった化け物は。あれは、あれはなんなんだよ……」

 僕は、今告げられたことが冗談であるというようなことを言って欲しかった。だがそれは儚い望みだった。

 守はまた真実の続きを告げ始めた。

「――数ヶ月前のことだ」


   ◇


 世界をある厄災が襲った。

 それが何かは俺にもよく分からない。

 ただそれはある種のバイオテロだったらしい。――人々を、さっき倒したような化け物に変えるような。

 元々予期出来ていたものらしく、人々は精神だけを取り出して幻想の中で生かす技術を既に開発済みだったそうだ。……だがそいつをよく思わなかった奴も居たらしくてな。

 結局その技術を稼働出来たのは、その厄災が訪れた丁度その瞬間だった。――今にして思えばその方が良かったかもな。『災が起こるので、貴方達はこれから精神だけになって生きてもらいます』なんて誰も信じないんだから。――もっとも、信じるも信じないも、もう関係ないんだが。

 結果、精神は無事転送されたが、皆の肉体は『汚染』された。いつでも化け物になれる身体になってしまった。

 結論から言えば、化け物となった人々の身体は定期的に目覚め、現実世界から概念世界へ干渉しようとする。仕組みは分からない。ともかくそういう理屈だ。

 俺が戦っているのは、その化け物達の侵攻を阻止するためだ。


  ◇


「ちょっと待ってくれ……じゃあ、僕達は」

「あぁ。俺たち三人だけが、現実世界で……そのバイオテロの被害を受けなかった。だから、どちらの世界も知覚することが出来る。こちらの存在を知ってしまえば、どちらの世界にも行ける。……今のお前みたいにな」

「でも……守は」

「なんでだろうな。……誰かが俺を『戦う役』に選んだらしい。だから戦ってる。こいつがそのために与えられた――力だ」

 守は黒い塊を取り出した。それは守の手の中で、ナイフや拳銃など、様々な姿に変容した。

「最初はビビったけどな。慣れてきたら、戦い方も分かった。――『生前の』パーソナリティが、若干肉体にも残ってるらしくてな。生徒の肉体は、色んな攻撃をしてくる。……そのパターンを分析して、戦法を覚えた。……まぁ、そんなところだ」

 ……どうしてそんなことが、平然と言えるんだ、守。僕の知らないところで、一体どれだけその戦いを続けてきたんだ。

「前真はな、あいつは――」

 前真妙子。

 いよいよあの子の名前が守の口から出た。

 僕は固唾をのむ。

「あいつはお前と同じように、この世界のことを知ってしまったんだ。何がきっかけか知らないけどな。…………真実に絶望したあいつが選んだのは、真実を皆にさらけ出すことだった。だけどあいつは馬鹿じゃなかった。普通に言ったって、誰も信じる筈がない。――なら、どうすればいいか。あいつはこう考えた。『誰も死んでいない世界で概念として死んで、それが広まれば、皆、死を知る。そして真実に辿り着く』ってな。――――結果、あいつは」

 ――自分の胸を、自分の腕で、貫いた。

「概念世界は、イメージの世界だ。イメージ次第でどんな形にも変化する。あいつはそれに気付いた。だから、あんな不可解な死に方が出来たんだろうな。……もっと突飛な死に方だって、出来たかもしれない」

「前真は――前真は、どうなったんだ」

「精神が死んだ。肉体は既に死んでいる。化け物になることも無くなったかわりに――――もうあいつは、何処にも居なくなった」

 死ぬこと。それは、居なくなること。

 そうか、前真はもう、居ないんだ。

 冷たい諦めと共に、改めて僕はそれを実感した。

「前真の……精神の死体は……何処に行ったんだ」

「俺にも分からない。何処かに消えたんだろうな。破棄されたデータの粒として、風と一緒に」

「そんな……」

 じゃあ、お前は。

 お前が、前真と付き合ってた、っていうのは。

 僕はそう聞いた。

 答えは予想出来ていた。そして実際その通りになった。

 守の声はもう、託宣か何かのようになっていた。

「付き合ってた、っていうのは事実だ。……あいつの監視が目的だったけどな。遅かれ早かれ真実には気付くと踏んでたから、何か思い切った行動に出ないように見張ってたんだが。…………あいつの絶望は、俺の思ってたものよりもずっと深かったらしい。――結果が、このザマだ」

 あくまで淡々と、守はそう言った。

「――前真は」

「……?」

「前真は、お前のこと、ちゃんと付き合ってると、思ってたんだろ」

「…………あぁ、多分な」

「それなのにお前は、なんでそんな風に…………」

 なんで、そんな風に。お前はいつも。


 僕は俯きながら、守の胸を叩いた。

「なんでそんな風に、そんなことを平然と言えるんだよ」

 守は抵抗しない。僕が守の胸を揺さぶるたびに、身体が揺れる。

「なんでそんなに、何もかも諦めたような表情出来るんだよ、お前は…………」

「……はは」

 守は。

 声を上げた。

 ――笑い声を。

 僕は顔を上げる。

 そこには守が居た。

 笑顔の、守が。

「――やっぱそういう風に見えちまうか、俺」


   ◇


 守は他にも、僕に真実を教えた。冷酷で残酷な真実を。あいつは渋った。だけど僕が、続きを促した。

 

化け物を現実世界で葬るたび、概念世界は書き換わる。

 概念世界で、その化け物の元になった生徒は『元から存在しなかった』ことになる。

 守はそれを幾度と無く繰り返した。

 学校だけではない。街全体、県全体。守は化け物達を排斥し続けた。

 何度も、彼らを助ける方法を考えた。

 だが、誰も答えをくれなかった。

 何故自分が選ばれたのかも不明なまま、守は戦い続けた。

 戦うたび世界は書き換わり。世界の規模は小さくなっていった。

 気付けば世界は――僕達の通う、この学校だけになった。それ以外の場所に居る者達は皆、皆――守が殺した。

 僕の家族も、未知の家族も、自分自身の家族も。

 皆皆、化け物になって、守に襲い掛かった。

 そして守が、それを殺した。

 気付けば守は、体感時間で百年以上の時を殺戮に費やしていた。

 世界中の感染者の肉体を殺して回っていたら――どういうわけか、寿命など関係のない生き物になっていた。


 幻想の中で生きる僕達はそんなことも知らずに暮らしていた。僕達は知覚を操作されていた。家など無いのに、家に帰った気になったり、買い物に行く場所など無いのに、その店のことを知っている気になったり。幻の中での生活を円滑にするために、様々な改変が、僕らに施されていたのだ。

 事実それを教えられてから僕は――学校を出てからのことを、きちんと覚えていないことを発見した。


 前真の死が誰にも取り沙汰されずに忘れられていってしまったのも――そもそも外部の人間が居なかったからだ。マスコミも警察も、既に現実の世界では、皆、物言わぬ死体になっていたのだから。

 前真の望みなど最初から叶えられないということを守は知っていた。だからこそ「馬鹿なことをした」と言ったのだ。そんな意図で言われた言葉だなんて、僕には分からなかった。

 守に僕から、何か問うことは、もう何もなかった。あったとしても、僕の思考は完全に摩耗していた。与えられた情報が膨大すぎる。

 ――守が自分の家族を殺したと聞いても、あまりピンと来なかった。


 ――守は、僕の様子を見て語るのを中止した。それ以上言っても、僕がついていけないという配慮だろう。

 そして中止した途端、新たな化け物が、眠りから覚めて僕らを襲った。

 ――今度は僕が知っている生徒だった。部活の後輩だ。

 守は僕に逃げるように言った。

 僕はそれに従った。


 僕は誰も居ない校舎に入った。ここの何処かに、沢山の身体が並べられて眠っている。化け物として覚醒する時はそこから出てくるのだという。

 僕は階段を登り、踊り場にある鏡を見た。

 僕の顔は、いかなる表情を浮かべていなかった。

 そこで知った。

 あぁ、そうか。

 これが。


 ――これが『絶望』なのだと。


   ◇


 来る日も来る日も、僕は絶望の中で過ごした。

 ――偽りの世界の中で。

 楽しそうに笑い合う生徒達。恋人たち。

 世界が書き換わると、喋っている相手が、別の誰かに置換される。その役割すらも。

 そうか――前真は。

 前真は、世界が書き換わって、小さくなっていく様子を、こうやって見ていたのか。

 目の前にテレビの画面のような砂嵐がかかると、それは世界が書き換わった証拠だ。――守が誰かを殺した証拠だ。

 目の前から、人が消える。毎日のように。

 いずれは未知も、化け物になって、守を襲うのだろう。そうして、守は未知を殺すのだろう。未知が、僕の前から消えるのだろう。


 出来の悪い冗談としか思えない世界だ。全てが残酷な嘘だけで出来ている。


 あれ以来、僕は現実世界に行っていない。

 だけど守は定期的に居なくなる。それで、戦っているのが分かる。

 ――なぁ、守。

 僕はあの時、絶望のままに此処に戻ってきたが。

 お前はこの世界に、どんな価値を見出してるんだ。何のために戦ってるんだ。

 ――分からない、僕には分からない。

 耐えられない。お前が人知れずボロボロになっていくのに。

 お前は、いつもそうやって。


 僕は放課後に、教室を出ると、階段を更に登った。

 そして、一番上の階までやって来た。


 屋上だ。

 僕はふらふらと屋上を歩く。

 そして、縁まで辿り着く。

 手すりを持って、その下を眺める。

 

 生徒達が笑っている。何にも知らないで、楽しそうに笑っている。瞬きしたその瞬間にでも、友達がこの世に存在しなかったことになるのに、それに気付くこともなく。

 だけどついこの間まで、僕の日常もその中にあった。

「――嘘っぱちなんだよ、全部、全部。それなのに皆は。――そんな風に。許さない、許さない」

 そうだ。

 忘却という強い力を塗り替えるほど、凄まじく死んでしまえば。そうすれば、皆だって。死を――。

 やるんだ、前真よりも、もっと派手に。

 思い切って、頭を手でねじ切ってしまおう。その状態で、飛び降りてやろうか。そうすれば、きっと皆だって。いや、逆のほうが、いいかな。

 ――うん、逆のほうがいい。大丈夫だ、認識次第で、何だってやれる。


 僕は、柵を乗り越えた。

 一歩でも足を前に出せば、そのまま真っ逆さまだ。

 それでいい。

 絶望のままに僕は死ぬ。

 ごめんな、守――。


 僕はふっ、と笑い。

 空を、見た。


 その時。 

――僕の目に映ったのは。


昔見た時と同じ夕焼け。

とても綺麗な夕焼け。

 小学校の、いつかの時に見た――。

 それが、僕の目に。


同じだ。

 あの日の夕焼けと、まったく同じだ。

 ここは現実世界ではないはずなのに。

 全く同じだ。同じなのだ。

 ――そうだ。この美しさは、本物だ――――。

 僕は気付いてしまった。

 身体の力が抜けて、手すりにもたれかかり、そのままずるずると座り込む。

 たとえ世界が偽物であっても、この夕焼けを綺麗だと思う心は、僕が僕だと言える限り、どこまでも本物なのだ。……前真はそれに気付かなかった。

 僕は身体中が沸騰しそうな感覚を覚えた。

 守が、僕の一番の親友が守ろうとしたものは――これだった。あいつは最初から分かってたんだ。きっとこの夕日の美しさを、ずっと覚えてた。あの日見た夕日を。

 僕はなんと――愚かなことを!

 頭を抱え、僕は絶叫した。

 後一歩間違えれば、死んでしまっていた。

 そうして僕は、涙で顔をぐしゃぐしゃにし、暫くの間座り込んでいた。


 どれくらいの時間が経過しただろうか。

 少なくともまだ日が沈んでいないくらい。

 僕は立ち上がり、柵をまたいで、屋上に戻った。

「――守」

 気配。

 ――守がまた、戦っている。

 それを、察した。

 僕は、走り出した。


   ◇


 灯瀬守は、どろりとした塊状の血を吐き膝をついた。

 眼の前には、かつて生徒だったモノが三体。

 守はそれらを見据え、大振りの黒い剣を支えにして立ち上がった。

 生前と同じ声で呻き、叫ぶもののけ達。

 身体が抉れ、変色し、ガスを吹き出し、手が、足が、何本も生え。原型は半端にしか残っていない。

 それでも守は、彼らのことを恐れも、憎みもしていなかった。

 何故なら、皆、守が見知った者だから。友として心を通わせた者だから。

 守は学校中の生徒と、一定以上の関係を持っていた。気の遠くなるような工程の繰り返しの果て、彼はあらゆる負の感情を乗り越えたところで彼らと相対するようになった。

「――神様、どうか」

 守の脳裏に、無数の顔が浮かぶ。他愛のない会話を交わし合った者達。一緒に馬鹿なことを言い合った者達。――自分が、殺した者達。両親や親戚。教師達。

 ――未知。

 守は彼女が好きだった。だけど、伝えられなかった。彼女が惚れているのは、守ではないから。

 ――そして、始。 

 膝がガクガクと震えるが、それでもなお守は剣を構えた。

 その構えはどこか祈りのようだった。

 化け物が迫る。

「どうか俺に――皆を、守らせてくれ」

 守は屈みこんだ。

 そして、バネのように――ダッシュした。

 前方には三体。

 守は誰を斬るか瞬時に判断した。

 左端の、女生徒。――確か、病弱で保健室の常連だった子だ。それを物語るかのように、身体は薄紫で内部の骨や内臓が見えるような変化をしている。

 守は――一瞬、化け物になる前の彼女の顔を思い出した。

 が、それをした頃にはもう、女型の化け物のコアを切り刻んだ後だった。


 絶叫し、倒れる化け物。

 同時に、守の頭に頭痛。

 ノートに書くのが、間に合わない。

 守の頭の中にある記憶から、また一つ、自身の、誰かへの感情が消え落ちた。もう、それが誰かを、認識することは出来ない。

 大きすぎる精神の負担を軽減するためにこの世界が用意した優しい残酷さ。

 誰かを殺すたび、誰かに対する自分の感情の記憶が、消える。その誰かの情報だけを知っている状態になる。――たとえどんな感情を相手に抱いていたとしても、ただのデータの集積になり果てる。

 それがまた、今起こった。

「余計なこと、しやがって……」

 後方に気配。

 守は振り向きざまに、剣を横になぎ払う。

 化け物の一体をそれで屠るが、最後の一体は避けた。

 守の眼前に、相手の拳。

 回避など出来なかった。

 守は吹き飛ばされる。

 校舎の崩壊と共に、大量の血が噴き出す。

 ――それでも守は立ち上がった。

「これ以上、忘れたく、無いってのに……」

 視界はぼやけ、身体もふらふらする。生きていられるのが不思議なくらいだ。

 守は思う。

 きっと、この世界が自分にこう命令しているのだ。

 たとえ全ての記憶を失って、人と呼べる存在では無くなったとしても、この世界を保存するために戦え、と。相手が、最後の一人になるまで。

 何故自分はこんな状況なのに正気を保っているのだろう。何故戦いを放棄しないのだろう。それに対する守の答えは簡単なものだ。

 ――きっと自分は、とうの昔に狂ってしまっているのだ。

「さぁ……続けようぜ」

 守は笑みを浮かべる。

 それは獲物を目の前にした猛獣のような、獰猛な口の歪みだった。

 たとえ自分が人でなくなったとしても、守るべき相手が居なくなっても、それでも――。

 それでも守は、戦い続ける。

 それが、誓いであり、祈りであった。

 

 化け物は一歩一歩、近づいてくる。

 足元にある二人の亡骸を、何の感慨も無く踏み越えて。

 ――当たり前だ。化け物に魂はない。あるのは、肉体という空っぽの器だけ。

 守は再び剣を構え、雄叫びを上げながら、突撃していった――。


   ◇


「――灯瀬くん……?」

 未知は何故自分がそう彼の名を呼んだのか分からなかった。

 全く、分からなかった。

 周りを見ると、普段と同じ学校生活がある。

 何故、彼の名を。

 未知には悲しいくらい、分からなかった。


   ◇


 守はまた吹き飛ばされた。

 化け物の最後の一体は今までの者よりも強かった。

「あんた……アメフト部の……キャプテンだってな……どうりで……ははは…………だけどな」

 また立ち上がる。

 また構える。もう銃は使わない。弾をイメージング出来るほどの集中力は、今の守には無かった。

 守は駆けた。

 構えなどもはや関係なく、泥臭く、何度も化け物を斬りつけた。何度も、何度も、何度も。

 そうして一際大規模な血しぶきが視界を染める。

 ようやく、倒した――。


「――守」

 断末魔の間から、声。

 ここで聞くはずのない声。聞きたくなかった声。

 ――一番の友達の声。

 ――あぁ、あぁ。とうとう。

 守の身体から力が抜けていく。

 剣を取り落とす。

「なんで、なんで……」

 もう見ることも、話すこともないと思っていた。それでいいとさえ思っていた。――それなのに。

「なんで、お前はまた来ちまったんだよ……」

 守は、その名を呼んだ。


「――始……」


   ◇


 守の表情は僕にこう訴えていた。

 何故来てしまったのだ、と。

 本当にすまないと思う。けれど、身体が動いた。色んな事を、守に伝えなきゃならないと感じた。だから此処に来た。

「……守」

「なんで、お前……どうして」

「僕は……全部分かったんだ。お前のこと、この世界のこと」

「お前に……何が」

 守は震える身体をかばうようにして僕に背を向ける。守の表情は分からなくなった。

 僕はなるべく、優しいような声を作った。こんな喋り方を守にするのははじめてだが。

「――僕と前真が無事だったのは……『それ』が起きた時、お前が僕達を助けてくれたから、なんだよな」

 問う。

 頭の中で考えた推理を、守に投げるだけ。

 守に言うべき言葉はもう、僕の中で完全に出来上がっていた。

「……」

 守は黙ったままで、答えようとしない。

「……お前はもっと大勢の人間と助かりたかった。だけど、無理だったんだろ。たまたま手に届く所に居たのが、僕と前真だった。……そうなんだよな、守。お前は最初から、自分以外の人間も、大勢助けようとしてたんだよな」

 身体が少しだけ動いたかと思うと、守は言葉をついだ。

「――そうだ。仕方なかったんだ。俺は……他の皆も助けたかったんだ。だけど無理だった。俺は……っ」

 守は震えていた。

「――なんだよ。俺にこれ以上お前は何を聞こうっていうんだ。お前なんかに……何が――」

 守は僕の方を向いて、叫んだ。だが言葉は途中で停まった。

「守、いいんだ。……もう」

 僕の、表情を見て。

 それで、全てが分かってしまったのだろう。

「……もう、いいんだ」

 僕が本当に、何もかもを理解してここに来たということを。

 守は再びふらふらとしゃがみ込む。

「……守、教えてくれ」

「……なんだ」

きっとこれが、核心。

今、全てが区切りを迎えようとしている。


「――『それ』が起きたのは、僕と絶交した、後なのか?」


 守は目を見開いて後ずさった。

「……お前」

 僕の質門の意図に気づいてしまったようだ。

「……答えてくれ、守。お願いだ」

「言うか……それだけは、絶対に――」

「いいんだ。守。もう、いいんだ」

 僕は守の肩を掴んだ。

 ――同じ運動部だったくせに、僕より運動神経が良かったくせに、僕よりずっと華奢で細い肩。

 僕はもう一度、ゆっくりと、守に言った。

「……もう、いいんだ」

 守はその言葉を聞くと。


 堰を切ったように、涙を流し始めた。

 今までずっと――気の遠くなるような時間を、涙一つ流さずに、守は過ごしてきたのだろう。

 今ようやくそれが終わりを告げたのだ。

激しく嗚咽しながら、守は答える。

「……そうだ」

 僕は、安堵した。

 今ならハッキリと、それでよかったと思える。

「俺は……お前を守れるなら、お前に嫌われたっていいと思ってた……あの時、お前に怪我をさせてから、俺はずっと…………。お前に何も弁解しなかったのも…………お前が俺を恨んでくれている限り、お前が世界の仕組みに気付いて絶望することはないって、思ってたからだった……。それなのに、お前は。……お前は…………」

 守は激しく泣きながら、まくしたてた。

 これが守だ。――ようやく思い出した。

 小さいころのこいつは、僕なんかよりずっと泣き虫だったんだ。いつの間にか、涙が乾いていただけで。今こうして、守は泣いている。

「……あぁ。僕は、守のことを、恨んだりなんかしない。本当は僕がずっと、お前に憎まれてるんじゃないかって、思ってた。……だけど違った。――お前は、お前の全てを犠牲にしてまで、ずっと僕達を、守ってくれてたんだな。たとえそれが……いつまで続くか分からなくても」

 守は身体を激しく震わせて俯いている。地面に涙のシミが出来る。

「――ごめんな、守。僕は、何も分かってなかった。あの時お前が僕を突き飛ばした理由だって、本当は知ってたのに。……駄目なやつだな、僕は。本当に駄目な奴だ。本当に、ごめん、守。…………そして、ありがとう」

 僕は守に手を差し伸べた。

 守は涙で頬をどろどろにした顔を上げる。

「――仲直り、しないか」

 守は、それに答えるように、震える手を、僕に。

 ――手を。


 手で、僕を、突き飛ばした。


 地面に倒れ込む僕。

 訳も分からず、顔を上げる。


 守は――化け物の手に、胸を貫かれていた。

  

「――守?」

 ――僕を、かばって。

 まだ化け物が、居たなんて。


「に、げろ……始」

「守……守……」

「う、お、おおおおおおおおおおッ」

 守は喉が枯れ果てる程に咆哮した。

 黒い塊がそれに答えるかのように変形し、守の拳を包んだ。

 化け物に肘の打撃を浴びせ、自分の胸から手を無理矢理引き抜く。

 怯んだ化け物の頭――黒色に光るシンボルめがけて、黒い装甲で覆われた拳を、叩き込む。

 全力で。すべての力を込めて。


 拳は、一撃で化け物の――元生徒の頭をシンボルごと貫通した。

 化け物は倒れこみ、動かなくなった。

 同時に守も倒れこんだ。


「守、守……守!」

 頭の中が真っ白になって、ただただ守の名前を呼ぶことしか出来ない。

 守は仰向けの状態で、うつろな目で口から血を流している。胸からも。

 何か止血の方法は無いものか。――僕は探した。だけど見つからなかった。

「待ってろ、今……」

 守は口を動かした。だが血の泡立つゴボゴボという音がするだけ。

「もういい、喋るな!今僕が……」

「こ、こが現実だ……目、覚ませよ……医者なんて、居やしない……俺が皆、殺した……」

「――っ」

 守は助からない。僕の中にそんな声が響く。それは僕がちらりと考えたことだ。

 僕は頭の中で何度もそれを否定する。

「守……」

「俺、は」

 かすれた声で、守は続ける。

 そのまま喋り続ければ、死期が早まるだけなのに。

 事もあろうに僕は、それを黙って聞き始めた。

「間違って、たのかな。……こんなこと、やったって……何の、見返りも、無いのに……それなのに」

「そんなこと無い。そんなこと、あるもんか」

 今度こそ僕は守の手を握った。簡単には離れないように。ぬるりとする血の感触。――守はもうすぐ、死ぬ。本当に死ぬ。――だが今はまだ、生きている。そうだ、生きているんだ。

「お前が戦ってなかったら……僕らのあの仮初の生活は、崩れてたんだろ。……お前は守ってくれてたじゃないか、僕達を」

「だけど俺は……色んなやつを殺して……世界を……」

「だけど僕は、まだこうして…………此処に居る」

 手を更に強く握る。

 守はハッとしたような表情を浮かべた。

 それは、段々と、安堵のようなそれに変わっていった。

「そうか……俺は……俺のやって来たことは……無駄じゃなかったんだな……結末が……絶望しか、無かったとしても」

「あぁ。無駄なんかじゃない。そんなこと、僕が言わせない」

「そう、か……」

 守は笑い、目をつぶった。

 奇妙に穏やかな時間が流れる。


「――始。俺は」

「……ん?」

「俺はもう、死ぬ」

「――そうか」

 分かっていたことだった。

 悲しくはない。

 そういう感情のその先に、僕は辿り着いてしまったような気がするから。

「居なくなるんだな、完全に」

「あぁ…………此処で死を迎えて……お前以外の誰からも、認識されなくなる。俺という存在は……この宇宙に、はじめから居なかった、ことになる……」

「――僕は覚えてる。それでも」

「……はは」

「――守」

「……なん、だ」

「――あの黒い武器の……使い方を、教えてくれ」

 守は僅かに驚きの表情を浮かべたが、すぐに、諦めのような表情に変えた。

 守は本当は止めたいのだろうか。

 ――いや、きっともう、守は。

 僕と守は。もう、そんなんじゃ、無くなった。

 何も語らなくても、僕達は通じ合える。

 夕日の下で語り合った、幼いあの頃のように。

「――この、馬鹿野郎が」

「……何度も、それ聞いたよ」

 守は僕の手に、黒い小さな球体を預けた。

「……お前の思い次第で、どんな力にだって、なる……好きなように、やればいい……」

「――あぁ」

「――――じゃあ、俺は、もう」

「あぁ。…………じゃあな、守」


 持っていた腕の力が抜けた。

灯瀬守は、死んだ。


   ◇


 遠いところから、音がする。

 電車の音なんかじゃない。鳥の声なんかじゃない。

 僕に迫ってくる、生徒だ。生徒の肉体の、化け物だ。


 音のする方向に僕は向いた。

 後ろには守の死体。

 手の中にある黒いものを、どういう風に使えばいいか僕は思案する。

 が、一瞬でやめた。

 守のやっていたことと同じように、やればいい。

 僕のやり方は、あいつのやり方だ。

 守はずっと前から自分の中に、自分以外の全てを貯めこんで生きてきた。

 今度は僕がそれを引き継げばいい。僕の中に、僕自身の居場所なんて、はじめから無かったんだ。

 僕の中に、守と、皆が居ればいい。

 僕は無になろう。

 無になって――皆のために、この力を振るおう。

 

「――守」

 遠くにわずかに見えるシルエット。

 僕の戦いが、これから始まる。

「――行くぞ」

 そして僕は、絶望だけが支配する戦いの中に、最初の一歩を踏み込んだ。


   ◇


「……始?」

 トイレから出てきた僕に、未知は声をかけてきた。

 僕は頭痛を覚え、やや足取りが乱れた。

「……ん?」

「大丈夫なの? 身体の具合、悪いの?」

「いや、大丈夫だよ。僕の中で何かが、一枚剥がれ落ちただけ」

「……どういう意味?」

「いや、気にしなくていいよ」

 今度は一体何を、忘れたんだろうか。

「なぁ、未知」

「何よ」

「……お前は今、此処に確かに、居るんだよな」

「はぁ? 何言ってるのよ……当たり前じゃないの」

「そうか。ならいいんだ」

 たとえ今だけでも、という言葉を僕は飲み込んだ。

 ざわつく教室。もうすぐ昼からの授業が始まる。その後は、放課後だ。

「未知。放課後さ、時間あるかな」

「……あるけど。今日は部活も買い物も無し」

「夕日、見に行かないか。守と一緒に」

「……あんたらしくもない事言うわね。何処に」

「さぁな。どこか、綺麗なところ。案外、学校の屋上でもいいかもな」

「えー、それは嫌だな。――てか守って誰よ」

「……あれ? 誰だっけ、何言ってんだ俺。ははは、気にしなくていいよ」

「変なの」

 未知は笑った。小憎たらしいけど、やっぱり僕は未知の笑顔が好きだ。


 授業を終えたら、あの屋上に、夕焼けを見に行こう。

 きっと綺麗に違いない。

 どんなものだって、それが失われていくという未来があるからこそ、価値があるんだ。


 周りを見る。

 未知が居る。

 そして、僅か1クラスの小規模学校となったものの……皆が居る。


 それでいい。


 

 僕は、この絶望的で美しい世界を……滅ぼしながら、守っていくんだ。

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