イノセント、サンセット

緑茶

前編

 正確なことは覚えてないが、これは、そう、小学校の時の話。ありふれた話。

「始」

「なんだよ」

 守はよく、突拍子もないことを恥ずかしげもなく口にした。元々口数が多くない奴だから、尚更変だった。

「夕焼けってさ、綺麗だよな」

「はぁ? 女子かよ、守」

 僕は思わず吹き出した。

「俺は真剣だぞ」

「分かった分かった。で、なんでそう思うのさ」

 守は寝転んで、河原の草の匂いと、遠い電車の音や人々の声を息と共に吸い込んで、こう言った。

「――なんかこう、『世界がある』感じがするんだ。俺達は、この世界に生かされてるんだな、って思うんだ」

 僕は爆笑した。

「笑うなよ!」

「だって、お前……」

 暫く笑いが止まらなかった。横腹が痛い。

 守は僕を怒って、ぽかぽかと殴ってきた。

 

 だけど本当は、僕だって――。

 守と同じように思った。

 その時の夕焼けは本当に綺麗で、僕達は、僕達のこの他愛もない会話が、毎日のように続くものだと、ずっと考えていた。

 僕らの世界は確かに、その時、そこにあったんだ。


   ◇


 綺麗な夕焼けであったことを彼女は覚えている。

 その下で彼らは、何も知らない彼らは、友人と語り合い、笑い合っている。

 自分達を見下ろす彼女の存在に、彼らは気づかない。

 彼女は歯をむき出しにして笑った。

 風が彼女の身体を横に撫でる。

 一歩でも足を前に踏み出せば死ぬ位置まで歩く。

 橙の光を一杯に浴びた校庭。それに寄り添うように白く輝いて佇む校舎。そして、沢山の、生徒たち。

 彼らの、そして彼女の日常そのもの。

 ついこの間まではそうだった。

「嘘っぱちなのよ……全部……全部」

 彼女は笑いながら泣いている。

「何にも知らないのに。それなのに、みんな、みんな。……そんなの、狡い。許さない、許さないわよ」

 夕焼けは、彼女を包むことはなかった。

 彼女の身体は雲の影で真っ黒に塗り潰されていた。

 

 そしてその中で彼女は、自分の胸に手をかけた。


「おはよう」

 朝。授業が始まるまでの数分間を膨大な眠気と共に漫然と過ごしていた僕に、彼女は声をかけてきた。

 幼馴染の本當未知だ。

 栗色のショートを少しカールさせた髪は彼女の溌剌とした性分そのものを表しているかのように輝いている。

「……おはよう」

 正直、寝癖まみれの冴えない僕にとっては眩しすぎる。朝だし。

「元気ないわね。どうしたのよ」

「どうしたもこうしたもねーよ……未知は朝から元気だなぁ……」

 机の上に、溶けるように突っ伏す。

 始業前のざわめきは、頭痛の種にしかならない。

 あぁ、眠い。学校が面倒くさい。

 こんな青春で、僕は大丈夫なのか。もっとこう、河原で殴りあったりとか、好きなおんなのこが実は最終兵器だった、とか、そういうアヴァンギャルドかつデンジャラスでFOOLEE・COOLYな青春を過ごすべきではないのか。このままマンネリズムに溺れたまま花の高校生活を終えてしまうのだろうか、僕は。

 だけど、僕なんかじゃ。

 ――あぁ、いけないいけない。朝からこんなこと考えるんじゃなかった。また頭痛だ。

 未知は幼馴染で大切な友達だから好きだ。だけど僕にとっては少々眩しすぎる。時たま僕のよくない精神の部分を引き出してしまう。

 まぁ、それだけの話だけど。とにかく、朝は嫌いだ。こういう理由もあるし、他にもある。

「ねぇ、始……」

「なんだよ」

「昨日も見たの? 変な夢……」

 これも理由の一つ。

「うん……」

 妙な夢に魘される夜と、その翌朝の頭痛。

 どこか知らない場所に僕が居て、だけどその知らない場所を、知っているような気がする。そうして僕は何かに出会う。そんなひどく茫漠とした夢。

 いつからだったかはハッキリとしない。ある時を境に、定期的にやってくる夢。

「結局どういう夢だったのかも定かじゃないし、そもそもアレが夢だったのかどうかも……」

「夢じゃなきゃなんなのよ。……正夢?」

「それ結局夢ってことだろ。……なんかこう、夢なのに、夢っぽくないっていうか……やたら現実的なのに、凄い非現実的なような…………あぁもう、わけらからん」

「寝相悪いとか、夜更かししてるとか」

「最初はそんなんだろうと思ってたんだけどなぁ……こうも続くと、他の原因を疑いたく――」

 そこで僕は視界の端に一人の男子生徒を捉えた。

 あまり捉えたくなかったが。

 ――灯瀬守。

 僕の、もう一人の幼馴染であり、かけがえのない親友。……なのだが、ある時壮大に喧嘩をやらかして以来、気まずい日々が続いている。

 とはいえ向こうもこちらも謝る気はないので、現在は事実上の絶交状態だ。

 だから、目を合わせたくなかった。登校時間もずらしている。

 そしてまぁ、お気づきの方も多いとは思うが、彼もまた僕の頭痛の種だった。

 銀色がかった長めの髪に切れ長の目。女子人気も実際に高い。そんなあいつと僕が幼馴染だなんて、あまりに釣り合わなさ過ぎて、クラスメイトの何割かは確実に知らないだろう。今現在絶交しているから尚更だ。


 そんな守から目を逸らして、窓の外を見る。

 天気があまり良くない。霧がかかっていて校庭から先を見ることが出来ない。――これで晴れなら少しは気も紛れるんだけれど。


「……いつまで意地張ってるのよ、全く」

 僕が急に黙りこんで、外を見た理由を未知はすぐに察する。

「……ほっといてくれよ」

「男って馬鹿ね」

 未知の声はつまらなさそうだった。まぁ、そりゃつまらないだろう。正直、未知には申し訳ないと思っている。

 

 だけど、僕と守は。

 あの喧嘩より前に、何か間違ってしまったのじゃないか。

 僕は近頃、頭痛と並行して、そんな想念に捉えられている。

 どこかで僕らはすれ違ってしまっていた。それに気づかないまま、僕らは。


 そう思いながらも、何も進展がないまま僕は学校に来て、毎日同じような生活をする。このままでいい、なんて思っちゃいない。だけど何をすればいいのかわからない。僕に、何か出来るんだろうか。もしそれがあるとすれば、そいつは一体なんなのか。

 教えてくれる者は誰も居ない。守も未知も、教えてくれないのだ。

 僕はそうして、空っぽのまま日常を過ごしていく。今の、こんなふうにして。

 ――そう、思っていた。

 だけど全ての変化の始まりは、些か唐突にやって来た。


   ◇


 昼休みのことだった。

 いつものように一人で弁当を食べていると――未知は一緒に食べようと言ってくれたが、女の子達と食べなよ、と言って追い返した――、皆が不自然にざわついているのに気づいた。

 一体どうしたのだろう。少しばかりの不安感が胸の内に生まれたので、僕は昼食を中断した。

「未知」

 皆と同じようなざわめきの中に居た未知に声をかける。

「……始」

「これ、何の騒ぎなのかな」

「分からないわ。……でも多分、屋上に何かあるんじゃないかしら」

「見に行ってみよう」

 未知はかぶりを振る。

 周囲のざわめきはどんどん大きくなる。どこかで起きた『何か』は、学校全体を巻き込んでいるようだ。

「やめようよ……何か、凄く嫌な予感がする。見たら、取り返しの付かないことになるような何かが……ある気がする」

 未知は怯えていた。不自然に。それは理屈じゃなく、完全に感覚から来ているものだった。そういう時の勘というやつは得てして信用できるものだ。

 そして。

「僕も……そうだけど。でも僕は、見に行ってみる」

 僕の感覚は、僕の足を進ませることを選択した。

 身体が勝手に動いて、僕を運んだ。

 未知に一言そう言うと、僕は教室を出て行った。

 後ろから未知の声が聞こえた。


 不安を帯びた喧騒の間をすり抜けていく。

 自分は何をしているんだろう。

 何か嫌な予感がする。未知の言う通り、動かないほうがいい気がするのに。だけど、今の僕は校庭に向かっている。意味がわからない。

 分からないのに、僕は校庭で待ち構えている何かに対し歩みを進めている。――まるで何かに導かれるように。


 わけのわからない衝動に突き動かされて、僕は屋上へと登っていった。

 そこでは、ざわめきに悲鳴が混じっているようになった。

 確実に何かが、ある――。見たら、後悔しそうな何かが。

 僕は背中が粟立つのを感じた。それは僕の足を不自然に速くさせる。戻りたい、という言葉を口に出せるであろう筈なのに、僕の身体は真逆の事をしている。

 人だかりの一番濃い部分に向けて、歩いていく。歩いていく。

 そして僕は見た。


 クラスメイトの前真妙子が死んでいた。

 血まみれで。

 絶叫するかのように口を大きく開け、目を見開いて。

 ――・・・・・・・・・・・・・・・・・自分の両腕を、自分の胸に突き刺して。


 僕の背中が再び粟立った。

 全身に震えが走った。

 目の前のものが何か、一瞬理解できなかった。

 足の力が消えて、後方へよろめいた。

 そして目を逸らそうとした。

 だが出来なかった。眼の前にあるものは、僕を捉えて離さなかった。

 僕は理解した。してしまった。

 ――クラスメイトが、自分の知っている人間が、目の前で死んでいる。


「う……ぐっ」

 ざわめきの中で僕は吐き気を催した。

 口を手で抑えながら、ようやくそれから目を離そうとする。


 教師達がやってきた。阿鼻叫喚に染まる生徒たちを物凄い形相で階下へと押し戻していく。

 そして、前真妙子だったものの傍に駆け寄り、呆然と立ち竦んだ。

 僕はフェンスに寄りかかっていたから気付かれなかったようだ。僕の視界には教師たちと、その傍の死体と――更にもう一人、へたり込んでいる女生徒。

 僕は動けない。ただ、見ることしか出来ない。なぜだか、身体が言うことを聞かない。


 教師の一人がその少女のところでしゃがみ込む。

 女生徒は泣きじゃくりながら、声にならない声で、教師に何かを話している。

 ――第一発見者、といったところか。


 僕もああやって泣き叫ぶべきなのだろうか。床一面にゲロを吐いたっておかしくないのに。

 僕の身体は、何故か宙に浮いているような感覚を受けていた。目の前で起きていることが、まるで映画のスクリーンの中で起きていることにように思える。――僕だけ違う世界に居るような感覚。あるいは、違う世界に『入門してしまった』感覚。


 別の教師が僕に気づいて、僕を怒鳴り散らしながら屋上から追い立てた。

 既に身体から骨を失っているようだった僕は、言われるがまま階下へと降りていった。

 ――ドアを閉め、屋上から居なくなる直前。


 僕は、空を見ながら息絶えたはずの前真と、目があったような気がした。

 日常は、ものの見事に異常に変わった。

 騒がしかった教室を、地獄のような沈黙が支配していた。

 クラスから、死者が一人。それも、極めて不可解な死に方で。その事実が、クラスの中の全ての生徒達にのしかかっていた。

 外の天気も悪化していた。窓の外にはどす黒い色の雲が垂れ込めている。もうすぐひどい雨が来るだろう。

重苦しい空気の中でのホームルーム。

それは、粛々と終わった。


 次々と、駆け足に帰っていく生徒達。脱力したように動かない生徒達。唐突に襲い掛かった異常な事態に、まだ動揺を隠せていない。無論僕もそうだ。


 そうして意味もなくカバンの紐を弄っていたら、未知が話しかけてきた。――正直助かった。

「ごめん、始。こんな時に……」

「いいよ、何」

「――前真さんのことだけど」

「……」


避けようとしていた名前。頭の上の方に居座っていたのに、避けようとしていた名前。僕はあの死体を思い出した。

未知が何故今、よりにもよってそんなことを聞いてくるのか。唐突に沸き起こった怒りと、吐き気をごまかすように僕は言葉を返す。

「それがどうしたのさ」

 ちゃんと返せる当り僕はお人好しだ。いや、それとも。

 未知は口ごもり、目を背ける。

「なんだよ。早く言えよ」

 苛立ちが生まれ、急かす。

 未知は無理矢理捻り出すかのようにして、続きを言った。

「――私の勘違いかもしれないけど…………あの子、灯瀬君と付き合ってなかったっけ………………?」

「――!」

 まさか。

 まさかこのタイミングであいつの名前を聞くとは思わなかった。僕は持っていたカバンを取り落とした。

 まったくの予想外――だけど、確かにそうだ。今思い出した。このまま彼女が死んでいなかったら、思い出すことはずっと無かったに違いない。なんということだ。僕とあいつと彼女で、こんな繋がりがあったのにそれを忘れてしまっていたなんて。

 灯瀬守は――前真妙子と付き合っていた。

 クラス中に知れ渡っていたことなのに。

 あいつのことを避けていたから忘れていたのかもしれない。

 僕は目で守の姿を探した。


 守は居た。いつもと変わらぬ座席に座っていた。周りには誰も居ない。――当たり前だ。死んだ人間の彼氏に、話しかけようとする奴なんてのは、よっぽどの無神経だけだろう。きっと皆接し方が分からないのだろう。

 それはいい。だがあいつは。

 ――本当に、いつも通りだった。

 普段と表情一つ変わらなかった。

 もとよりそこまで感情表現を表に出すような奴じゃないが、それでも、なんというか、周囲の空気を巻き込んで、あいつはこう身体全体で主張していた。

 ――俺は何も変わらない。

 と。


 悲しむことも動揺することもしないのか。恋人が死んだんだぞ。それなのにお前は。


 気づけば僕は自分の席を離れて、守の席まで来ていた。

 義憤に近い怒りが僕を動かしていた。

 ――絶交してから、これではじめて直に守と向き合う。


「守」

 守は声を聞くと、ゆっくりと僕に向かって顔を上げた。その動きも、昔のままだ。

「……始」

 少し驚いているようだ。それはそうだ、僕が一方的に縁を切ったようなものなのに、その本人が話しかけてきたのだから。

「お前…………」

「……なんだ」

 僕は何をやっているのだろう。守に何を求めているのだろう。また感情が理性と逆のことをする。

「お前、前真と付き合ってたんだよな」

 僕はどういう風に答えて欲しかったのだろう。――少なくとも現実は、それに反していた。そうなることは、予測済みだったが。

「……あぁ。そうだ」

 まるで、挨拶を返すかのように、平然と、何の心の動きも表さずに、守はそう言った。

「……ッ!」

 頭に血がのぼった。そうとしか言いようがなかった。危うく守の胸ぐらを掴むところだった。流石にそれはしなかったが――予想できた返答であったが、やはり、どうしようもないほど、腹が立った。

「お前……そんな態度は無いだろ」

「急に来たと思ったら、なんなんだ、お前。何でお前がそんなに怒ってるんだ」

「なんでって……お前! 前真は……」

 守は僕を睨む。

「お前は関係ないだろ。俺にも、あいつにも」

 宣告のようだった。

 それだけ言うと守は、カバンを肩に掛けて足早に教室から出て行った。

「待て、待てよおい――」

 僕は手を伸ばしたが、追いかけようとはしなかった。

 守は見えなくなった。

 教室は既に大分人がまばらになっていた。


「……」

 何故。僕は何故、あいつに。

下げた拳を、意味も分からず握りしめる。

意味も分からず、叫ぶ。

「――馬鹿野郎!」

 その声に返事を寄越すものは居なかった。

 後ろに未知が居るのが感じられた。

 僕は振り向かなかった。

 ――今日はどこも部活は無い。あろうはずもない。もしかすると、暫くずっと無いかもしれない。警察が来ることだってあるだろうから。

 ――僕も帰ることにしよう。

 

そうして、その日の学校での全てが、終わった。


  ◇


「始……」

灯瀬守が、始を振り払って教室から出たのを、未知はしっかり視界に捉えていた。だが自分にはどうすることも出来ない。ただ見ることしか。

 自分にはどうすることも出来ない場所で、彼と彼が離れていく。それは以前から続けられていたことだが、前真妙子の死をきっかけにしてそれは加速することになるだろう。

だが、彼女にはどうすることも出来ない。

 本當未知は動かない。


   ◇


 心の中に無為な苛立ちをたたえたまま、無為に時間が過ぎていく。

 僕はこの苛立ちを誰かに語ることはない。

 友人達にも、未知にも。

 この苛立ちが身勝手なものであると思っている自分が心の何処かに居るからだ。

 だから僕は余計に苛立ちを覚える。

 ――前真が死んでからだ。

 自分の腕を自分の胸に突き刺した奇妙な遺体。

 それを見てから、この苛立ちは生まれた。しかしこの苛立ち、絶交が決定的なものとなったあの日も感じたものだった。つまり――彼女の死が、今まで意識の外で包まれて隠れていたこの感情を再び現出させたということ。

 全ては彼女が死んだからだ。

 何故、あんな死に方を。どうやってあんな死に方を。

 死体の様子を思い出して、僕はまた吐きそうになった。

 だが苛立ちの対象である存在が居るだけまだ僕はマシかもしれない。

 あの日、早退した者達。あの日以来不登校になった者達は枚挙に暇がない。死なんてものは日常で触れることのなかった筈なのに。無理もないだろう。

 大袈裟かもしれないが、彼女の死が、僕らの世界に風穴を開けたようにすら感じる。

 守と付き合っていたということ以外何も知らない、彼女の死が。


 限界まで見開いたあの血走った目は空を見ていた。だが僕を見ているようにも思えた。あの目が映していたものは何だったのだろう。彼女が最後に見つめていたものは――?


 僕は頭のなかに浮かぶ彼女の瞳孔が開いた目に意識が吸い込まれそうになった。

 だがそれはある行動で阻止できた。


 現実から逃避するためのツール。

 そのための、スマートフォン。

 適度な人間関係の断絶を保つためのツールとも言う。

 僕以外の誰かも、きっとこの小さな画面の中の世界に逃避している者が居るだろう。

 僕はスマートフォンの電源を入れてしばらく待機する。起動してから操作可能になるまで時間がかかるのだ。

 アイコンが碁盤目に並んだ画面が出てくる。

 僕はアイコンのうちの一つ、無料でダウンロードしたパズルゲームをタッチする。まるで面白くはないのだが、気晴らしには丁度いい。

 僕はそのままだらだらとそのゲームをやるものと思われた。脳裏にこびりついた光景から、元親友への苛立ちから逃れるために。

 だが。

 ――そうはならなかった。

 ならなかったのだ。


 ブツリという音と共に、スマートフォンの電源が切れた。

「……え?」

 その不可解さと共に、周囲の生徒達の声も掻き消えたような気がした。

 おかしい。充電は十分だったハズなのに。

 何かの偶然であるという線を捨てて、僕はそれを異常と考え始めた。

 電源ボタンを押す。

 だが、つかない。

 長押ししても、他のボタンを押しても反応がない。

 周囲の景色がどんどん暗くなっていくような錯覚に陥る。

 どんどん焦りが生まれる。

「なんだよ、これ……」

 何をやっても、スマートフォンの液晶画面には戸惑う僕の顔しか写ってない。

 何かがおかしい。わけもなくそう直感した。

 

 ザーッ。

 画面からノイズ。


 同時に、僕の頭に激痛が走る。

 刺すような、というよりは内部から揺さぶるような。

「なんだ、これ……っ!」


 激痛と共に僕は、スマートフォンの画面が砂嵐に塗れはじめたのを目撃する。

 そしてそこから、何かが見え始める。サブリミナル効果のように、瞬間的に、チカチカと。

 頭を抑えながら、僕は画面に目を凝らす。


 ――一際大きな頭痛。

 同時に、画面の中に映ったのは。

「――え」

 僕は目を疑った。

「――守?」

 見間違いでなければ確かに守だった。

 守が、画面の砂嵐に紛れて、数秒間映った。

 そして僕がもう一度確かめようとした時に、消えた。


 画面は元に戻った。

 周囲の世界にも音が帰ってくる。

 頭痛もおさまる。

 電源ボタンを押すと、再び起動した。

 一瞬見えた幻など無かったかのように。


 だけど僕は確かに見た。

 電子画面の中に居る、守の姿を。


 無意味に周囲を見回す。

 だが何も起きない。

 もう一度画面を見る。

 何の変哲もない画面があるだけ。

 やはり僕が見たのは幻だったのか。

 いや、そんなはずはない。

 では何故。

 ――何故、守が。


「――なんだよ、これ……」

 僕の口からこぼれた言葉を聞く者は誰も居ない。

 何か大きな不安と動揺が、身体の中で蠢き始めたのを僕は感じた。



 放課後。

 未知は、夕陽の差し込む廊下で外を見ながら佇んでいる守に出会った。

 他に特に何をしているというわけでもなかったが、そのまま素通りして帰るという選択肢は未知には無かった。

「……灯瀬くん」

 未知の呼びかけから数秒後、守は自分の名を呼んだ者が居ることに気づき、振り向いた。

「……本當」

 やや驚いたようで、その声は少し震えていた。

「別に、何かあるってわけでもないんだけど、その……ちょっと話さない?」

 未知は言った。

 今ここで言わないと永久にそのチャンスを失うと感じたからだ。今ここで話さないと、また、見ているだけの自分になるからだ。

 守はまた数秒間黙り込んだ。

 その後ゆっくりとこう言った。

「……あぁ」


 夕暮れの校庭を、生徒達が走っている。

 その様子を未知と守は二人でベンチに座りながら見ている。

 未知も守も黙っている。

 お互いベンチの端と端をキープしたまま行動を起こさない。

 そもそも守は未知と目を合わせようとしていない。そっぽを向いている。


 沈黙を最初に破ったのは未知だった。

「……ねぇ、灯瀬くん」

「……何」

 元々そっけない人間であることは分かっていたが、こうも久しぶりに話すとなると、その態度も前より硬化したように思えてしまう。未知は一瞬続きを言うのを躊躇った。けれども、灯瀬は顔を背けながら続きを無言で促しているように思えた。だから続けることにした。

「私さ、こういうこといきなり言うの変だと思うんだけど…………あのさ」

「何」

「…………始と、まだ絶交した、ままなの?」

 守は答えない。――だめか、と未知は内心でため息をついた。

 だが言葉は紡がれた。

「……あぁ」

「…………いつまで、続けるのよ。そりゃ、原因が原因だし、私が首突っ込むのもおかしいけど……」

 守は黙って聞いている。

 守の視線の先で、サッカー部の連中が夕焼けの眩しさに照らされながら駆け回っている。

「正直、見てて辛いのよね、そうやってあんた達二人が、そんな風にしてるの。……だからさ」

「……」

「だから、意地張るのやめろとは言わないけど、もうちょっとあいつと話とか……ちゃんと……したほうが…………いいんじゃ……ないかなって……あはは……」

 最後の方の声が小さくなってしまったのを未知は自覚していた。そういう自分の部分が未知は嫌いだった。

「……無理だよ、多分」

 守は視線を空に移してそう言った。

「……どうして」

「なんでだろうな。……あいつとはもう、ずっと相容れないような気がするんだ」

「……」

「それに……あいつに怪我させたのは、結局俺なんだ

「……そう」

 そこで守は声をやや上ずらせながら、未知の語尾に重ねるように言った。

「だけど…………仲直りしたくないって言っちまうのは、嘘になる。ただどうしようもないと思ってるだけで」

 自分が残念そうにしたのを見て、慌てて取り繕ったかのように。

 未知は少しホッとした。単純に彼のそういう言葉が聞けたのが嬉しかったというのもあるし、彼が昔と何も変わっていないことも分かったからだ。

「……くすっ」

「なんだよ。こっちだってこんなこと言うのは……」

 少しムッとして。

「いや、ホッとしたの。……灯瀬くん、昔のままなんだなぁ、って」

「なんだよそれ」

「内緒よ。……あーあー、なーんだ。じゃあ、あいつがさっさと灯瀬くんに謝ればいい話なんだよね」

少々大袈裟に未知は言ってみた。

「それは……どうなんだろうな」

 守も少し表情を緩めた。……ように見えた。

「だってさ、あいつのほうが意地張りすぎてるんだよ、よく考えたら。おまけにこの間はあんなこと灯瀬くんに言っちゃって……」

 未知は安心からか、始のことを冗談交じりで罵った。それは、かつてまだ三人でいつも遊んでいた頃に、よくやっていた遊びだった。

 ――灯瀬守は、楽しそうに守の話をする未知を見ている。

 未知は気づかないが、彼の顔にはほんの少し、寂しさが影のように差していた。



「ごめんね……なんか話し込んじゃった。仲直りの話だけの筈だったのに。私の悪い癖ね、ホントに」

「いいよ、別に」

 未知は立ち上がる。守は彼女にカバンを渡してやる。

「ありがと。…………別に、こうしろってことは言わないけど、私は、二人が……」

「分かってるよ、本當」

 守は未知の言葉を遮った。

「……分かってる。…………ただ、まだ俺にもどうすればいいか、何も分かってない。絶交は当分続くと思う」

 守は素直にそう言った。

 空を見ると、いつの間にか、朱に薄紫が混じっていた。

 もうすぐ、夜が来る。その直前の色合いだ。

「そっか……そう…………そう、なのね。分かった」

「……うん」

「でも、ありがとうね、灯瀬くん」

「……あぁ」


 本當未知は手を振って、灯瀬守と別れた。

 これからそのまま家に帰るのだろうか。それとも何か寄り道でもして帰るのだろうか。

 灯瀬守は――周囲の声が耳を突き抜けて消えていく静かになった世界の中で、一人、そんなことを思った。

 もう未知は居ない。ここを去った。


 空が、暗くなる。朱に、薄紫。そして群青。

 間もなく夜が来る。

 ――守はそれ以上、先ほどの事について考えるのをやめた。そんなことは、何の意味もなさないからだ。


 活動が終わり、校庭から引き上げていく生徒達。

 守もまた、何処かへ向かって歩き始めた。

 その表情を窺い知ることは、誰にも出来ない。

 誰にも、誰にも。



 来る日も来る日も、僕は授業など真剣に受けられなかった。

 頬杖をついた視線の先には、絶えず守が居て、僕の頭をぐわりと揺さぶる。

 先生の声が耳を素通りする。

 僕の頭の中にあるのは、あの時見た奇妙な幻覚。

 スマートフォンの中に居た守の姿。

 不可解な、現実離れした、まるで嘘っぱちのような出来事。――だから僕は守に問い詰めることはしなかった。

 それに――――何故だか、これ以上あれについてのことを知るのは危険だと、何かが告げるような気がしたから。

 僕はそう思って、守から顔を背ける。

 しかし結局、あいつの方を向いてしまう。

 守はいつも通りの無表情で前を向いている。こちらに見られていることなど気づきもしていないようだ。……いつも通りの、守だ。狂おしいほどに。

 それて僕は。

 ――あの守と今ここに居る守、どちらも守なのか?

 そんなことを考える。

 そうしてまた混乱して目を背ける。

 それの繰り返し。

「……なんなんだよ、くそっ」

 頭を掻きむしってみる。

 ……消えない。

 幻が、消えない。


   ◇


「始……」

 その様子を未知は心配そうに見ていたが、始本人が気づくことはなかった。


   ◇


 部活は再開していた。

 前真の死のショックから皆回復していた。

 ――死そのものが忘れ去られようとしていた。

 まぁ、いつまでも学校全体が暗い雰囲気に包まれているよりはずっといいだろう。サッカー部は少し前から活動再開していたようだし。

 僕はテニス部で、テニスコートに向かっている。

 ……かつて、あいつも。守も在籍していた部だ。

 あの時、唐突に退部を宣言して居なくなるまでは、練習に行くのも、練習から帰るのも守と一緒だった。

 今となってはもう、絶交前の記憶でしか無い。

 というか、そもそも、僕と奴の仲が裂ける決定打が、あいつの退部なのであって、僕は――。


 頭に、何か当たった。

 テニスボールだった。

 よそ見をしていたからだろう。後輩が謝ってくるが、別にいいよと言って、ボールだけ渡して追い返した。


 それなりに真面目な部員であることをアピールするために僕はこうして部活に来ているが、このように心の方向はまるで部活のほうを向いていない。

 結局考えるのは守のことになってしまう。

「忌々しい…………」

 吐き捨ててみる。誰にも聞こえない。皆僕よりは真面目に部員をやっている。


 かのようにしてあいつのことを考えながら、僕はふと、テニスコートの、外を見た。


 一人の生徒が、カバンをたすき掛けにして携帯ゲーム機に勤しんでいるのが見えた。よく見る光景だ。こういう手合は片時も電子機器を手放せない。現実世界が手のひらの中にあるような手合は。

 僕はそれを見ていた。

 こちらに背を向ける体勢でゲームをしている彼を。

 僕は見た。

 ゲームの画面を。


 ……。

「そん、な」


 守は居た。

 その生徒の、ゲーム画面の中に。

 黒塗りの、『僕から見て』黒塗りの画面の中に。

 砂嵐と共に、残像のようにちらつきながら。

 間髪入れずに、頭痛。

 たまらず、しゃがみ込む。

 部員が心配して駆け寄ってきたが追い払う。

 頭を抑えながらも、画面の中の守を見る。


 チラチラと閃くように、飛び飛びでしか映らないが……砂嵐の中で守は、動いていた。

「……守?」

 もう僕の意識はその画面に集中していた。

 現実が氷解し、均衡をなくしていく。不安定な幻の世界の中に僕はトリップしていく。

 

 守はどこか分からない場所の中で、何かと戦っている。そうとしか言えない。他のことは何も分からないほど

飛び飛びにしか映らない。

 何かが、まるで分からない。

 僕はさらに目を細めて、他のものを見ようとする。

 だがそれは無駄に終わる。

 他のものが何も見えない。

 頭痛と守の幻影が交互に繰り返される。

 だが僕はそれを視るのをやめない。

 その先に何かあるような気がするから。

 ――危険だ、これ以上進めば。

 僕の中の別の部分がそう訴える。

 しかし、進む。

 僕は半ば不可思議な酩酊感のようなものに包まれて

いた。正常な判断力が失われていた。

 頭痛。

 守。

 頭痛。

 守。

 頭痛。

 守。


――前真妙子の、遺体。


サブリミナルのように、それは一瞬紛れ込んだ。

「なんで……!」

 なんで、守の幻の途中で。

 そんな疑問が浮かんだ。

 だが、間髪入れずに。


――頭痛。

守。

頭痛。

前真妙子の遺体。

 頭痛。

 守。

 前真妙子の遺体。

「や……」

 頭痛。

 頭痛。

 頭痛。

 守。

 前真妙子の遺体。

 守。

「やめろ……」

 前真妙子の遺体。

 守。

 前真妙子の遺体。

 守。

 前真妙子の遺体。

 繰り返される守の幻影、頭痛、そして前真妙子の、奇妙な死体。繰り返し繰り返し、僕の頭の中で閃き続ける。

「やめてくれ……なんだこれは……」

 前真妙子の遺体。

 前真妙子の遺体。

 前真妙子の遺体守前真妙子の遺体守守前真妙子の遺体――。

「やめろ――――っ!」

 僕は絶叫し、頭を抑えながら気を失った。


   ◇


 目を開けると、目の前に白い壁があった。

 数秒後、それが天井であることに気づいた。

 身体には毛布がかかっている。

――僕は、保健室のベッドに寝かされていたのだ。

「夢、だったのかな」

 一瞬そう考えたが。

 ――守、前真妙子の遺体。

 それを思い出し、頭痛が起きたため、自分が見たものが嘘じゃないことを思い知った。

「くそっ……」

 頭を叩いた後、数回横に振ってみる。

 だがこびりついた記憶はなかなか消えない。

 

 窓の外を見るともうすっかり日が暮れている。

 部活も終わっていることだろう。――迷惑をかけた。

「あら、起きたの」

 白衣を着た初老の保険医がベッドの傍までやってきた。

「……はい」

「具合はどう?」

「いや、なんとも……」

「そう。……急に倒れこんだって聞いたけど、何があったの?」

 ……僕は黙った。

 実際に僕の中で起きたことを説明したところで信じてもらえないだろう。

「だんまりか……」

「あっ、立ちくらみです、立ちくらみ!」

「……」

 先生は猜疑の目を向けてくる。

 僕は視線をそらさなかった。


 ……一悶着の後、僕は保健室から開放された。しっかり薬は渡されたが。


 幻影が、歩いても歩いても消えない。様々な疑問が渦を巻いて、僕を離さない。僕の後ろに伸びる長い影が、世界の全てが不気味に変容してきていることを告げているようだった。

 そんな混乱と当惑の中にあって――僕はあることを決意した。

 それは幻から……守の姿、前真妙子の死体から逃げ出したいがための決意。だがその決意は、かえって僕が更にその幻に囚われてしまうものであるということも、僕は分かっていた。それでも……それでも、何もしないよりは、ずっといい。

 僕のこの判断は実際気が狂っているのかもしれない。これだけのことが起きても、僕は誰にも相談しなかった。――どこか、今まで見てきた異常を酷く冷静に見ている僕が居る。幻影なんて無く、本当は僕自身が狂っているだけなんじゃないのか。……そんな風にも思える。

 だから余計にも、本当のことを確かめたい。そのための行動だ。

 僕は捨て鉢に決め込んで、後ろを振り向くこと無く、夜の前の群青に閉ざされた長い長い廊下を駆け、その先にある闇に消えていくのだった。


 ――その時僕の影が、僕の後ろで、僕をじっと見つめているのを、僕は知っていた。


   ◇


 べっとりとした血の感触を僕は思い出す。

 そう、あれは……冬のある日のこと。

 僕と守は二人で道を歩いていた。

 笑って話しながら、僕らの息が白く現れるのを見ていた。

 僕が道路側、守が商店街側。その状態で、歩いていた。僕の記憶が正しければ、学校帰りだった。

 他愛もない、本当に下らない話をしていたように思う。だけどそれが友人同士の会話というものであり、楽しいものであったのだ。

 ――不意に、守が動きを止めた。

 何故だろうか、と思い……僕は守の肩を叩き、どうしたのかと聞こうとした。

 だが次の瞬間。

 僕は商店のガラスに、大きく叩きつけられていた。

 ――守によって。


 突然のことで状況が飲み込めなかった。

 だが、頭に激しい痛みを感じて、どういうことか理解できた。

 その時だ、僕が頭から垂れるぬるりとした赤黒い液体に気づいたのは。――ガラスが、額に突き刺さったのだ。

 

 僕は、眠気を感じはじめた。

 それは、まもなく気絶するということを意味していた。

 だが、せめてその前に、守を。

 守の姿を……。


 視界に、捉えた。

 守はへたり込み、絶望的な表情を形作っている。

 ――やっぱり、お前が、僕を突き飛ばしたんだな。

 そう噛み締めてから数秒後、僕は気を失った。


 ――だけど後で知った。

 その道の、僕が突き飛ばされた向かい側に、車が突っ込んでいたということを。

 僕があのまま道路側を、何も見ずに歩いていたら、間違いなくとんでもない大怪我になっていたであろうことを。



 ある日の昼休み。

 僕は守を探していた。

 あいつとのわだかまりは以前横たわっているが、今はそんなことは思考の隅に置いていた。

 教室には居ない。

 ならば廊下か――。

 僕は教室を飛び出した。


 僕の決意。

 それは守に、色々聞いてみるということだった。

 正直何をどう聞けばいいのやら僕にも見当がつかない。僕の見たことなんか普通は信じないだろう。だがそれに守が映っていた以上話は変わってくる。

 僕はもう行動を起こすことでしか頭痛を止められないと確信していた。――あの時のガラス片はまだ頭のなかに埋まっていて、それが今回の一連の事件のせいで再び痛み出したのかもしれない。

 だとしたら、余計に……何もかもをはっきりさせなければいけない。

 とはいったものの――やはり足がおぼつかない。自信も何も、まるで持てない。けれど、行くしか無い。もう決めたのだ、引き返せない。


 ――と、思ったのはいいが。

 守が見当たらない。

 廊下には人が溢れている。

 守は、何処だ。

 僕は生徒達を押しのけて探した。我ながら必死過ぎる。

 そして守の姿を見つけた。

 三人の女子に囲まれて談笑していた。

 ――忘れていた。あいつは凄まじくモテるのだった。

 僕は思わず壁を叩きたくなった。

 ――あいつは一緒に笑いながら、ちっとも楽しそうじゃない。心はきっと話しかけてくるどの女の子にも向いていないのだろう。きっとそんな様子が、余計に女の子を惹きつけるのだろうが。

 僕は今すぐあの輪の中に入っていって守と顔を突き合わせるべきなのだろうか。……だがそんな勇気など僕にはない。

 口で笑いながら目でどこか違うところを見て、女子とつまらないテレビ番組の話なんかをしている守を、廊下の壁沿いで監視して、チャンスを伺うしか無い。……まるでストーカーだ。正直自分でも気持ち悪いと思う。


 しばらく様子を伺っていると、守に動きが見られた。

 何やら女の子達に言ってから、廊下の向こう側に歩いて行った。方角的に言えばトイレだろう。

 ……表向きはとてもにこやかに去っていった。

 ……心の中までにこやかだったのだろうか。

 そんなはず、ないよな、守。

 ――お前には、何が見えてるんだろうな。

 僕は、それが、知りたい。


   ◇


「ごめん、ちょっとトイレ行ってくるわ」

 そう言って、友人の女子達から離れる。

「うん、行ってらー」

「また戻ってきてねー」

「戻って来たらもう休み終わってるってば」

「それもそうか、あはは」

 微笑を取り繕いながら、手を振って廊下を歩いて行く。

一歩、また一歩と進むたび、彼女たちの喧騒が遠ざかっていく。

守の表情からも、そのたびに笑顔が消えていく。

いや――仮面が剥がれていくと言うべきか。


廊下の終わり際、階段の直ぐ側にある男子トイレに来た時には、灯瀬守の表情からは、一切の感情が消えていた。まるで氷のように冷たく、険しい顔になっていた。

 

 守はトイレに入り、用を済ませる。

 そして鏡を一度見てから手を丁寧に水で洗って、ハンカチで拭く。


 トイレから出る。

 ――階段近くには誰も居ない。

 そこから繋がる廊下にも。

 昼下がりの白い光が差し込むが、それは何にも遮られない。

 守は、その状況にさしたる反応を見せず、教室のある方向へ廊下を進んでいく。


「……守くん」

 正面から少女の声。

 トイレに行く前に話していた生徒の一人だ。

「もう授業、始まっちゃったよ」

「そうだな……」

「もう誰も居ないよ……?早く教室戻ろうよ」

 彼女は背を向けて、守を誘導するかのように廊下を歩き始めた。一緒の教室なのだ。

 歩いている。歩いている。


「――なぁ」

 守が彼女に声をかける。彼女は振り返る。

「ん?」

「本当に静かだな」

 歩きながら、彼女に近づきながら。

 靴が床板を踏みしめる音。

 声の残響。

 それ以外は、何も聞こえない。誰も居ない。

 ――静寂の世界だ。

「何言ってるのよ、当たり前じゃない。もう授業始まってるんだか――」

 守は彼女に、言葉を最後まで言わせなかった。

 彼女のすぐ傍に走りより、廊下の壁に身体を押し付けるようにして、彼女の前に立ちはだかった。

「……まもる、く、ん?」

 彼女は赤面して動けなくなった。

 守は表情を崩さず、彼女の顎を右手で僅かに持ち上げる。

 彼女は壁に押さえつけられていて、動けない。

「授業、もう始まってるよな。このままだと遅刻だ」

「そ、そうだよ、だから……」

「伊藤さんも遅刻しちまうな」

「え、あ、う、うん……だから私は、守くんを……」

「……」

 伊藤と呼ばれた少女は守よりかなり小さい。守の丁度胸くらいに、彼女の顔が来る。

 彼女は赤面したままで、守は能面のまま。

 心臓の鼓動が、がらんどうの廊下に響き――。


「嘘つけ」

 守は右手でポケットから取り出した拳銃を、左手でこじ開けた彼女の口の中に撃ち放った。


弾は彼女の頭から股下まで一直線に貫いた。

 彼女は目をぐりんと白目に反転させ、口から血を吹き出しながら倒れこんだ。

 倒れてすぐ、床が血の海になる。

 だが守は倒れた彼女の頭に、更に二発きっちり弾丸を叩き込んだ。

 肉を粉砕し、焦がす音が空っぽの廊下に響く。

 守は銃口から出る煙を口で吹き消して、自分の足元に出来た死体を見下ろす。


 ――死体の手が、ぴくりと動いた。

 かと思うと……おもむろに立ち上がった。というより、立ち上がらされた。それはまさに糸に操られた人形のようだった。

 ギシギシと見えない糸で釣られ立ち上がった死体。

 髪は乱れ、顔は真っ白で、目も薄く濁っている。その状態で、守を睨みつける。

 守は動じない。

 死体は――死体だったものは、口を横に裂くと――笑みのつもりなのだろう――その顔自体を、180度回転させた。

 直後、身体を大きく揺さぶったと思うと、背中から足が二本生えた。

 その姿は、化け物と形容するほか無い。

 だが守は動じない。まるで何度も見てきたという風に。


「……」

 守は化け物に向けて突き出した左の人差し指と中指を、内側に数回折り曲げた。――挑発だ。

 それを受けて化け物は身体を大きく後ろに仰け反らせたと思うと――素早く前に折り曲げ、背中の足を思いっきり床に叩きつけた。


 一瞬前に守は後ろにステップしていた。

 床が丸く凹む。

 床材が輪を描いて宙を舞う。

 足がよけられたことに気づいた化け物はその白濁した目で前方の守を睨みつけた。

 守は後方へ後方へとステップを踏みつつ、ズボンのポケットからまた拳銃を取り出し、素早く撃った。


 化け物は避けることもせず、銃弾を受け入れた。

 彼女だった身体の胸近くをセーラー服ごと粉砕し、大きな穴が出来、そこからネトリとした赤黒い血が流れる。だが化け物自体にはまるで効いていないらしい。

 千鳥足のような覚束ない足取りで、化け物は守に迫る。

「――チッ」

 守は拳銃の右側面を叩く。

 すると拳銃の一部がぐにゃりと曲がり、右手の平に『飛んだ』。

 飛んだその部分はまた曲がったかと思うと、もう一丁の拳銃へと変化した。


 二丁の拳銃を構えて、撃つ。

 炸裂音――肉が弾ける音。

 セーラー服が破け、肌が露出し、抉れていく。

 血が噴き出す。

 化け物は止まらない。

 前かがみになった状態で、背中に生えた足も使って、四足で向かってくる。

 避けられた弾丸が、跳弾が、壁を、ガラスを砕いていく。

 守は二丁を水平に構えたまま撃ち続ける。

 弾切れは無しだ。――これは実銃ではない。

 化け物は緩慢な動きで進んでくる。

 だがピタリと止まると、しゃがみ込み――丁度陸上選手のスタートの時のようなポーズを取り――コンマ数秒後急加速した。

 四本の足で、高速で走ってくる。

 足あとの轍が化け物の後方に生まれていく。

 守はそれでも撃っていたが、急にやめた。

 化け物の加速に合わせるかのように、自身も後ろ向きに走って行く。

 そして突如として、身体を窓の反対側に――投げた。

 階段だった。

 化け物の正面は行き止まり。

 

 化け物は減速できず行き止まりにぶち当たる。

 壁が大きく凹み、煙がもうもうと垂れ込める。

 守は階段に寝そべって下に滑っていく。そしてその状態で、方向転換するまで身動きのとれない化け物に向かって拳銃を連射する。


 ――まるでアクション映画だ、と守は自嘲した。しかし、それが守の戦い方だった。


 だが踊り場まで滑り落ちた時には、もう化け物は方向転換を終えていた。わずか数秒のことだった。


 化け物は再び陸上選手のような前傾姿勢をとって――飛び上がった。

 自分より下に居る守を押し潰すつもりなのだろうか。

「……そうか、伊藤さん陸上部の部長だったっけな。どうりで足にこだわるわけだ。筋肉のせいか、全然ダウンが取れない。…………けどな」

 守は二丁の拳銃を胸のあたりで側面に沿って合わせる。するとまた拳銃がドロドロと溶け、別の形を創りだした。

 ――手榴弾だ。現実には存在し得ないほど巨大な。

「成績、そんなによく無いだろ、君」

 ピンを引き抜いて、覆いかぶさるように飛び上がってきた化け物に向かって、投げた――。


 爆炎。

 その後、階下に転がり落ちる、傷だらけの守。

 ――化け物はどうなった?


 化け物は――階段の踊り場で……硝煙の中、悲鳴を上げていた。金切り声。それは紛れも無く、守が見知った、伊藤樹という少女が、苦しみに耐え切れずに叫んだ声だった。


 守はふらふらと立ち上がり、一段一段、階段を登っていく。

 夕焼けの光を浴びながら化け物は悲鳴を上げ続ける。守は日差しのぬくもりを感じながら階段を登っていく。


 化け物のもとに辿り着いた。

 化け物は全身の穴から血を垂れ流していた。背中から生えた足は奇妙に折れ曲がり、皮が破けて骨が露出している。破れたセーラー服の下、ピンク色の下着の近くには赤黒い抉れた肉がのぞく。


 手榴弾だったものはバラバラの黒いカスになっていた。それに向かって、手を伸ばす。すると全ての破片が、守の手のひらの中に集まって、形をつくった。――最初の拳銃だ。


 悲鳴を上げる化け物の下にしゃがみ込み、守は化け物の身体をおもむろに弄った。化け物はもう抵抗しない。

 すると守は、化け物の右足の付け根に何かを見出した。

 黒い瘤のようなもの。それは細長い根を皮膚の中に突き刺して寄生しているようだ。――そしてそれは、その通りなのだ。

 守はその瘤を見る。

 そして、白濁した目を精一杯見開いて、汚らしい茶色の粘性を帯びた液体を口から撒き散らして絶叫する化け物の――かつて伊藤樹だったモノの顔を見つめる。


 およそ30秒後。

 守はその瘤に、銃弾を撃ち込んだ。


 完全な接写だった。そのため音はそこまで反響しなかった。ただ、何かが潰れたような音がしただけ。――反響の代わりに、聞こえてきたのは。


「……灯瀬、くん?」

 伊藤樹の声。

 守が声をしたほうを見ると。

 伊藤樹が居た。

 化け物の顔はそこには無かった。

 

 伊藤樹は、きょとんとした表情を守に向ける。

「……あれ?」

 守は返事をしない。

「灯瀬くん、何やって……」

 そこで樹は、自分の身体の状態に気づいた。傷だらけで、背中から足を生やした己の異形に。

 樹の表情が、狼狽に変わる。

「――何、これ」

 守は答えない。

「なに、これ……な、なに、これ……何……」

 樹の表情がどんどん不安を帯びていく。

 守は目を伏せる。

「伊藤さん」

 守の声。

 樹が一瞬うろたえるのを止める。


「………………………………ごめん」

 銃声。

「ぁ」

 樹は、訳がわからないという表情のまま、己の流した血の池に顔から突っ伏した。

 

 沈黙。

 守は動かない。その傍らには、かつて伊藤樹と言われた少女の、物言わぬ死体が転がっている。

 守は座ったまま、握った拳銃を変異させた。

 黒い革張りの手帳が手の中に現れる。

 ポケットからペンを取り出して、開いた手帳の中に、伊藤樹、という名前と、それに続く色々なことを書き込んでいく。

 静寂の世界。さっきまで動いていたものはもう居ない。ここで動いているのは、ペンを走らせる守だけ。


 必要事項を書き終えて手帳を閉じると、守は立ち上がった。

 樹の死体を見ずに、階上へ。

 元居た場所に戻るのだ。

 その道中――守は激しい頭痛をおぼえた。

「……くっ」

 守は頭を押さえ、目をつぶる。

頭痛はしばらく続いた。

収まった時、彼はこうポツリと零した。

「――『今度』は……何が消えたんだ……」

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