町は相変わらずで、何もかも面白くはなかった。道行く人の他人の背中、色あせた建物、古い橋。

 長月の後ろについて歩きながら、紙助は心ひそかに安堵した。これなら、未練もなく山へ帰れそうだと。

 橋を渡りにぎやかな通りへ出たところで、騒ぎがあった。

 ならず者である。相撲取りのように体格の良い男が三人、茶店の前にたむろして管を巻き、女を捕まえてからかっている。嫌がる女が手を払いのけると、払われた男は酒に酔った顔をさらに真っ赤にして、汚いものを吐き散らしながら猛然と立ち上がった。「やっちまえ、やっちまえ」と、あとの二人が手を叩いて囃し立てている。女の顔がさっと青ざめた。

「誰か、誰かお助けください。あれ、あなたはお大師さまの……!」

 それはいつか紙助に着物を持ってきた町娘だった。紙助を見つけた町娘の顔は、地獄で仏と出会ったようにぱあっと華やいだ。それを見てますますならず者がいきり立った。

「邪魔するなよ、じいさん」

 ならず者は腕をまくって紙助に近付いてきた。刀は持っていないが、丸太のように太い腕だ。

「紙助殿、お点前を拝見!」

 長月がニタリと笑って一歩退いた。

 無責任な――。

 紙助は仕方なく前に出た。嫌だった。けれど、女は助けなくてはならなかった。それでも嫌だった。

「どうしたい、じいさん。木刀なんか差して侍の真似っ子かい。抜いてみろよ!」

 紙助が抜かぬとみるや、ならず者の顔からは怒りが消え、代わりに下卑た笑みが浮かんだ。

 ニヤニヤと醜く、厚かましく、ドス黒い。――怖い。

 怖い!

 紙助は自分が震えているのがわかった。どうしてだ。木刀を抜き、滝を割るほどの鋭さで打ち込めば、どうという事のない相手であることは明白ではないか。負けることはない。恐れることはない。それなのに怖い。どうしようもない。動けない。

「紙助殿……?」

 長月が怪訝な顔をする。女も信じられぬものを見る目をしている。

 紙助は動けず、ただ震えている。信じられぬと言いたいのは紙助の方だ。このようなならず者たち――人を傷つけることに躊躇がなく、平気で非道な振る舞いをする輩というものが、どうしてこの世にごろごろと存在しているのだろうか。あの岩太郎のように……おお、こいつの目は岩太郎にそっくりだ。顔はまるで違うが、面の隙間越しにみた岩太郎の毒蛇のような目と、顔の肉に埋もれたならず者の目はよく似ている。

 俺はこんな奴らをやっつけるために、剣を鍛えたのではなかったか?

 そう思った矢先に、張り手が飛んできて紙助は吹っ飛ばされた。

「なぁんだ、このジジイ弱っちいぞ!」

「ハハハ! 見掛け倒しだ!」

 男たちの無遠慮な大声が往来の足を止めさせ、いつしか辺りには人垣ができていた。

「あれは床々山の剣士さまじゃないか」

「どうして抵抗しないんだい」

「いや、出来ないんだ。俺は最初っから見てた。怯えて何も出来ないんだ」

「なんだい、そりゃ……。何のための剣かね!」

 人の見ている前で、紙助は散々に打たれた。蹴られた。投げ飛ばされた。無抵抗だった。途中から二人も加わって、代わる代わる紙助を弄んだ。人垣はならず者を卑怯と咎めるより、落胆と侮蔑のため息をついた。

「偉い聖人かと思っとったのに、実際はこんなもんかねぇ」

 誰かの一言が総意となり、やがて人垣はいそいそと散って行った。見る者がいなくなって飽き足りたならず者たちも、満足そうに笑い合いながら消えて行った。長月も無言で消えていた。今頃は早足でどこかの道を歩きながら、己の目の誤りを憤慨していることだろう。

 道にはズタボロの紙助だけが残された。

「あの……」

 どこかに隠れていた町娘が、そろそろと辺りに気を付けながら紙助に近づいてきた。

「あの、さっきは……わざと抜かなかったのですよね? その、暴力はよくないからと、剣はそのように使うものではないからと、わざと相手の好きなようにやらせて、満足させて帰したのですよね? 私のために、そのようにお身体を張って……」

「よさないか」

 顔を血に伏せたまま、紙助ははっきりと答えた。

「私はそんな綺麗な事は考えていない。私は……俺は……ただ憎かった。あんな連中がいることに怯えて、憎んでいた。憎み過ぎて何もできなかった。胸の中にあったのは空虚な悲しみだけだった。剣など、何の支えにもならなかった」

「剣士さま、あなたはお優しいのです」

「何も言うな。少し寝かせてくれ……」

 母みたいなことを言う女だ。そう考えながら紙助は深い眠りに落ちた。


「起きよ」

 男の声に目を覚ますと、あたりは真っ暗だった。

「あれっ?」

「気分はどうかね」

 そこは山の登り口だった。目の前には編み笠の行者が立っていた。

 紙助は子どもに戻っていた。

「これはどうしたことだ?」

「お前に思い知らせるため、少しばかり夢を見てもらった。それで、どうじゃ。剣を鍛えて、お前は強くなれたか」

 行者の問いに、紙助は答えられなかった。ただうつむいて、顔をしかめて、やがて堪えきれずにぼろぼろと涙を零した。「のう、紙助よ」。行者は紙助の肩にぽんと手を当てて、優しい声で慰めた。

「辛いところから逃げたい、安心できる場所が欲しいというのなら、仏はいくらでも膝を貸そう。だが、お前の心の中に、人に勝ちたい、負けたくないという想いがあるのならば、そういった願いは人世の中でしか叶えられぬのだよ。お前は夢の中で、最後に何を想った?」

「母を……。母は俺のことを、優しい子だといつも言っていた……」

「お前が縋るべきは仏でも剣でもない。母だ。母はお前を愛しておるのに、お前は母を欺き逃げようとしている。辛いところから逃げるのは良い。だが愛する人から逃げてはいかん。……お前の心を、本音を、母上は聞いてくれぬ人なのかね」

「そんなことはない!」

「ならば、どうすれば良いかわかるじゃろう」

「……はい」

 行者はにっこりと微笑み、衣の袖で紙助の涙を拭いてやろうとしたが、紙助は自分でゴシゴシと顔を拭い、さっぱりした表情で礼を述べた。

「ありがとうございました」

 紙助は飛ぶように走った。町への道を一目散に、後ろを振り返らず走った。走りながら一つだけ考えた。

 あの行者さまは、何故自分を紙助と呼んだのだろう。あの山でその名を呼んだのは、夢の中を除けば、母と籠ったあの時だけである。

『どうか紙助が健やかでありますように』

 岩のお大師に拝み捧げた、祈りの言葉だけだった。

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ま剣き 狸汁ぺろり @tanukijiru

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