紙助の修行は清廉なものだった。

 朝は山鳥の声よりも早く起き出し、滝のほとりのお大師さまを拝むと、あとはひたすらに剣を振り続けた。

 汗をかき、腹が空くと、食い物を探した。不思議と紙助には食い物を探す才があり、秋冬のわびしい山の中であっても、必ず食える菜や実を見つけ出した。それを食うとまた日が暮れるまで剣を振った。稽古相手は滝の水。見届けるのは仏とお天道だけだった。

 日が暮れるとまたお大師さまを拝み、粗末なお堂で深々と眠った。体がくたくたになるまで剣を振っていたので、何ら思い煩うこともなく、泥のように眠ることが出来た。そうした毎日だった。

 時折、こんな時世にもお籠りに来る人があって、紙助はその人を丁重にもてなし、その人の平癒を共に祈りながら親身になって世話をし、それでいて己の剣の修行は些かも緩めることがなかった。

 そのうち、お籠りから帰った人の口から紙助の姿が世に知られ、どこぞの坊主神主よりも真摯に五穀を断ち、煩悩を断っておいでだと、清い噂の立つようになっていった。

 やがて、紙助はいつしか己が床々山の剣士様と呼ばれ、お大師さまの剣聖とも崇められていることを知った。町から人がやって来て、仏ではなく紙助を拝み、供物を置いて帰る人まで出る始末であった。

 ――にぎやかな事だ。

 そういった人々の賞賛に対し、紙助の心はそよとも動かなかった。紙助はただ剣を振って、払って、薙いで、己を鍛え続けることだけに生きていた。無論、熱心な町娘が山に慣れぬ足で着物を捧げに来たりすると、その健気な心をありがたく思いはするが、娘がどういった目で己を見ているかより、己が剣を見る方が大事であった。

 ある時、戯れに滝を斬ってみた。

 磨き抜かれた紙助の木刀は、真の刃でもあるかのごとく、いやそれ以上に、流る滝の水を横一文字に真っ二つ。水音が一瞬途切れる静寂が、紙助の剣の鋭さを物語った。

「見事!」

 背後で壮年の武士が声をあげた。その男が数日前から紙助の剣を見たいとお堂へ籠っていたことは知っていたが、紙助のほうで関心がなかったため、見られていたことをすっかり忘れていた。

「紙助殿。やはりその腕、人世のために活かすつもりはござりませんか」

 そういう話をするから今まで無視をしていたのだが、裏のない朗らかな笑顔を向けられ、子どものように爛々と目を輝かせられては無下に扱うことも出来なかった。

「長月殿。もはや剣でまかり通る時代でもあるまいに、何をおっしゃる。たとい剣の時代であったとて、私には関わりなきことです。私が剣を振るのは人を斬るためではありませんから」

「では、何のために振るのです」

「繋がるため――。天と、地と、空と、水と、私――。木刀を振ると、繋がるのです。私はいま滝を斬りました。けれど御覧なさい、滝は何事もなくいつも通りです。人が剣を振って出来ることなど、この大きな天地あめつちの中ではほんのちっぽけなものなのです。それでも、ほんのちっぽけなものでも、天地に触れて、感じることが出来る。私はそれだけで良いのです。それで倖せなのです」

 紙助は言を切り上げて稽古に戻りたかったが、男は素早くその前に回り込み、額を岩にこすりつけて泣きついた。

「お願いです。どうか今の話、町の道場連中に聞かせてやってはくれませぬか。わしの見る限り昨今の道場でやることは剣とは言えぬ型ばかり。紙助殿。師範になれ、役につけと申すのではございません。どうかただ一度、あなたの御姿と言葉を届けてやってはくれませぬか。それも叶わぬならせめて、せめてあの嘆かわしい有様を一目ご覧になって、あなたの思う所を正直にお聞かせ願いたい……!」

 まったく、紙助にとっては迷惑な話であった。けれど、男の態度があまりに真剣で、心を動かされたのも確かである。

 紙助は振り返ってお大師さまを見上げた。優しい岩の尊顔は、「行ってあげなさい」と微笑んでいるように見えた。

 そうして紙助は数十年ぶりに山を降りることになった。ただし、一日だけ。用事が済めばどれだけ懇願されても帰るつもりである。

 つもりであったのだが。

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