道
床々山の奥深く、滝のほとりの岸壁に大きな石仏がある。その昔、とある高僧が自らの修行を兼ねて彫ったもので、病気平癒の効力があるとして町の人々から慕われ、床々山のお大師さまと呼ばれている。その傍には小さなお堂があり、治したい病のある者はここに籠り、お大師さまに日夜祈りを捧げるのである。ひと頃は大層はやった仏様だが、時代が進み、医術が発達するにつれて籠る人も少なくなり、近頃はよほど熱心な信心者でなければ、わざわざ山を登って訪れることもない。
無音の夕闇の中、お大師さまへの山道を歩く童の姿が一つある。
紙助である。
どこで拾ったのか、太い樫の枝を木刀代わりに腰へ差し、秋の夕冷えに身を縮めながら一人歩いている。その瞳には決意の焔が燃えている。
ふと、紙助の瞳が揺らいだ。人無き道のつもりでいたが、正面に小さな灯が見える。灯はゆっくりとこちらに近づいてくる。それに合わせて、ちりん、ちりん、と鈴の音がする。紙助はゾッと震えた。
「ぼん、かような時刻に何をしている」
暗闇から現れたのは、編み笠をかぶった老齢の行者であった。左手に提灯をかかげ、右手には先端に鈴のついた鉄杖を携えている。
「山で遊ぶにはもう遅い。家へ帰るがよいぞ」
「遊びに行くのではない」
相手の親切そうな態度に安堵したのか、紙助はいつになく声を張り上げた。
「お堂に籠って、剣の稽古をしに行くのだ」
「稽古を……? ハハハハ、猿にでも習うのかね」
紙助はむっと唇を結び、無言で行者の横を通り過ぎようとした。すると、行者はくるりと向きを変え、紙助に並んで歩き出した。
「剣の稽古ならば、町の道場で習えばよかろう」
「道場ではダメだ。あんなところではいくらやっても強くはなれない」
「ホウ、何故」
「嫌な奴がいるからだっ」
紙助は足を速めて行者を引き離そうとしたが、いつの間にか行者は提灯を手放しており、空いた手で紙助の襟をぐいと掴んだ。月の明かりが出て、襟の隙間から紙助のやせ細った体と、その上に這うミミズのような赤い腫れが露わになった。
「ううむ」
行者も思わず息を呑むほど、白々に晒された傷は惨いものであった。紙助は傷を見られた恥に目の縁を赤くしでて、力づくで行者の手を振りほどいた。そして襟を直しながら、潤む目で行者を睨みつけた。
「こんな事をする奴らと一緒に居て、強くなれるものか。一人で稽古をした方がよっぽどマシだ」
「しかし、たった一人で何日山に居られるものかね」
「ふん、坊主のくせに何も知らないのか。この山にはお大師さまが居られるから安心だ。二年前には目の病を治すため、半月ばかり母と二人きりで籠っていたこともある。あそこは遠くから来た者が何日でもお大師さまを拝めるようにと、寝る場所や煮炊きの出来る場所も設えてあるからどうにかなるだろう」
「その母君が家に待っておるのなら、さっさと帰るべきだ。こんな夜にこんなところに居て、母君を心配させていると考えぬのか? それともお前は母君を愛しておらぬのか」
「馬鹿な!」
紙助の目からとうとう涙が零れ出た。
「母を心配させぬために、山に籠るのだ。母は優しい。お堂に籠っていた時も、毎日毎日、日が上る前から暮れるまで、ずっとお大師さまにお祈りをしていた。息子の目をどうかお治しください、元気に遊べる体にしてくださいと、自分自身が石仏になってしまうのではないかと思うほど祈ってくださった。病が癒えて道場へ通うになってからも、ずっとこの身を案じ心配し続けてくれているのだ。そんな人に、そんな人だからこそ、こんな期待外れの情けない体を見せられようか」
ボタボタと重い涙が地を濡らした。行者は思慮深い目で滴の垂れる様をじっと見守っていたが、やがて鼻から大きく息を吹いた。
「童よ。お前の心はよくわかった。だが馬鹿はお前の方だ。堂へ行くことは見過ごせぬ」
「なんでだ」
泣きながら面を上げた紙助は、月の影に恐ろしい形相を見た。行者が鉄の杖を振りかざし、今にも打ちかかってくるように見えた。
「期待外れだと、馬鹿者め! 母が、子をそのように思うものか。そんな事も分からぬ小僧っ子め、仕置きをしてくれる!」
「ぎゃあっ」
カァンと、明らかに力を抜いてはいたが、紙助の頭に重い衝撃が来た。よりによって神職にある者に、岩太郎でさえやらぬ非道な振る舞いをやられて、紙助は本気で怒りを覚えた。
「おのれっ!」
出鱈目に振り回した枝は空を切った。衝撃が引いて周りが見えるようになっても、行者の姿はまぼろしのように消えて見えなくなっていた。
紙助は呆気にとられた様子でしばらくキョロキョロとあたりを見渡していたが、遠くでホウホウと梟の鳴く声がするばかりで、どこにも人の気配は感じなかった。ただまぼろしではない証に、提灯だけが火のついたまま道に落ちていた。
「チェッ、逃げ足の速い奴。だから偉そうな人間は嫌いなんだ」
起き上がった紙助は提灯を拾い、その光を頼りにお堂への道を歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます