ま剣き
狸汁ぺろり
負け
人をいじめると言うのも一つの才能だが、まったく紙助にとって、同い年の岩太郎ほどいじめの才に富んだ奴はいなかった。第一、剣術道場の師範の子で、空いている時間の道場を好きに使えるということがすでに人と違っている。
「お前には熱心が足りん。特別に稽古をつけてやる」
本来は稽古のない日に道場へ呼び出され、防具を身につけろと言われれば、門弟の紙助は従わざるを得ない。道場の隅では、同じく門弟で岩太郎の取り巻き連中が、防具と竹刀を備えニヤニヤと笑い合いながら控えている。岩太郎は自身も用意を整え、道場の真ん中に立つと、紙助を正面に立たせた。
「遠慮はいらん。思いっきり打って来い!」
岩太郎は堂々と竹刀を構える。師範の子なだけあって、姿勢も真っ直ぐ正しく、構えているだけで鋭い気迫を放っている。その姿勢の奥に隠された性根さえ知らなければ惚れ惚れするほどの立ち姿である。
それに対する紙助は、なんと虫ケラなことか。同じ防具を纏い、同じ竹刀を構えていながら、面の上から泣き面が見えるようなへっぴり腰。気力の差は冷酷なまでに白然としていた。
「どうしたっ、来ないか。この弱虫め」
岩太郎の檄に、道場の隅から忍び笑いが起こった。されど紙助は動けない。動き、打とうとすれば、必ず打ち返される。入門以来もう何十回も、あるいは百回以上もそうされていて、すっかり思い知らされているのだ。どうして動けようものか。紙助が動けずにいると、なおも岩太郎が憎い口を開いた。
「腰抜けめ。それでも男か。ふんどしの下で一物まで縮こまっているのが見えるようだぞ」
取り巻きどもは今度は忍ばず、ゲラゲラと笑った。紙助の顔は羞恥に燃えた。その熱を、紙助は怒りに変えて打ち込んだ。
「ええーい!」
「やあ!」
気味の良い音を立てて、紙助の面を岩太郎の竹刀が打った。紙助は天地がひっくり返ったような眩暈を感じながら、床の上に尻餅をついて倒れた。
「チッ、だらしがない」
岩太郎は、汚らしいものを振り払うかのように竹刀を一振りすると、取り巻きの方へ声をかけた。
「どうも俺が相手では稽古にならんようだ。三平、次はお前が教えてやれ」
「おうよ」
勢いよく立ち上がった三平は大柄で、剣は下手だが力が強い。紙助は馬鹿力の竹刀をまともに受けて、今度は床に埋まるかと思うほど叩きつけられた。
「次、辰」
「おう」
「辰の次は文太だ。おい紙助、俺たちはお前が一太刀ぐらいは入れられるようになるまで、何度だって立ち会ってやるからな。ありがたく思えよ」
紙助は替わる替わる取り巻きたちに打ちのめされ、またすぐに立たされ、また打ちのめされた。相手は替わるごとに弱い奴になっていったが、紙助はめちゃくちゃに打たれ続け、立っているのもやっとの有様だった。案山子のように打たれるために立っているも同然で、下手な剣でしたたかに打たれるばかりだった。
順繰りに取り巻きが一度ずつ相手をすると、再び岩太郎が竹刀を握った。
「どうも話にならんな。そうだ、紙助。面を取れ。防具のおかげで打たれても平気だと思っているから、何度やっても本気を出せんのだ。紙助、面を取れ!」
紙助は震えた。ただでさえ平気ではないのだ。このうえ頭を直に打たれたなら、とても無事ではすむまい。戸惑う紙助に向かって、誰かが臆病者と罵った。
「なにを怖がっている。それなら、ほら、俺も面を取ってやろう。これで対等だ。ぐずぐずするな。ええ、お前は自分だけ面をつけて勝負するというのか、この卑怯者め。おおい! お前たち、こいつの面を取ってやれ」
「やめて、やめて!」
紙助は死に物狂いで抗議の言葉を吐いたが、それはかえって、乱暴者たちの喜悦を煽ることにしかならなかった。取り巻きどもは寄ってたかって下卑た笑みを浮かべ、紙助の面を外しにかかった。岩太郎は顔つきだけは厳粛に、その様子を見守っていたが、紙助があくまで身をよじって抵抗しているのを見ると、急に慈悲深い笑みを浮かべた。
「いやあ、待て、待て、みんな。こいつがそんなに嫌がるなら仕方がない。面を取るのは可哀そうだ。代わりに胴を取ってやれ」
これこそが岩太郎の卑劣なところである。軽い竹刀とて、人の頭を強く打てば命に関わりかねないことを知っている。それを知りながら紙助をさんざん怖がらせておいて、土壇場で恩着せがましいことを言いながら、腹や背を存分に打ちなぶってやろうという魂胆なのだ。
紙助はなおも抵抗したが敵う訳もなく、普段着の上に面だけをかぶった滑稽な格好で、暴虐者たちの気が済むまで延々と打たれ続けた。
日が暮れて、ようやく紙助が解放されると、岩太郎は自ら門まで紙助の見送りに出て、往来の人々へ聞こえるような大声を上げた。
「紙助君! 君はいつか必ず強い男になれる。それまで僕たちがいくらでも稽古に付き合ってあげるから、お互いに頑張っていこうな。それじゃあ、また明日!」
いじめの才の最たるところは、己の振る舞いを正義にしてしまうことだ。紙助は唇を噛み、道行く人々の温かい目を避けながら、黄昏の町をとぼとぼと帰っていくあった。
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