編集済
孔明のヨメ。で敵同士で手紙のやり取りして落とし所を見つけたみたいな話聞いたことあります。
篤姫と西郷隆盛の関係もそんな感じだったよーな。あれは元身内みたいなものかな?
なんにせよ中央の無茶苦茶に付き合わされる人間はいつだって迷惑(遠い目)
いや、何やかんや職人をよくて誘拐、悪くて監禁して利益にした佐賀が言えるこっちゃないんですけど…
大陸にいっちゃん近い場所だから私ら…いや対馬のほうがもっと大変か…
作者からの返信
肥前ロンズ様自省の伴う知識に満ちた感想ありがとうございます。<(_ _)>😊
対秀吉という点ではこの戦争の完全な被害者である戦国島津も、輝かしい戦功という歴史の裏で多くの殺戮や誘拐、監禁した事実もあると考えると業の深さを感じます。
篤姫の場合いろんな解釈がありますが、今の主流は島津のために嫁に行ったものの、後に幕府側に味方したという感じでしょうか。
とはいえ、共倒れする位なら落しどころをつけた方が味方はもちろん、敵にも良いという和平条件というものがあるので敵、味方、の二元論では見えてこない第三の道というのもあるのかなと思います。
あと、孔明の時代は知識層で手紙のやり取りをしていて、孔明も陸遜や魏の将や文官と私的なやり取りもしていたようですね。
ちなみに現代の中国や韓国も第二次大戦後に他国に攻め込み戦争の加害者ですが彼らの政府は、罪を反省することなく、むしろ経済、政治的に恩恵を施したという見解を崩していません。
確かに戦争には功罪があるものですが、罪、負の部分について見ず、知ろうとしないというのは恐ろしいことだと思います。
例え、気分が落ち込み罪悪感に駆られても歴史の一部を受け入れる心と知識欲は保つことを意識したいと思います。
敵同士であっても信頼関係を築く……そんな教訓を豊臣秀吉から引き出せるとは
勉強になりました。
作者からの返信
星都ハナス様コメントありがとうございます。<(_ _)>😊
この話の興味深い点は、この戦争の現場側の人間にお花畑な人はいなくて、普段であれば腹黒い感じの人たちが自分たちの存亡を真剣に考えた末の結論がこういう信頼関係に至ったという点です。
一周回って真理にたどり着いたみたいな感じです。
これと似た肌合いの話は第一次世界大戦の西部戦線でもあり、泥沼の戦いの中、クリスマス停戦が戦場の中で突如起こり、贈り物をしたり、サッカーをしたり、不戦を誓って武器を捨てた人々もいました。
でもこの時は秀吉の時と違い、国家の司令部は健在、かつ戦う気満々だったために強引な命令によってその信頼は壊されていきました。
しかし、戦争をあと腐れなく終わらせ、後の平和を築くためには敵同士の信頼関係は不可欠です。
事実、この後徳川家康の意向により、穏便な形での和平交渉が粘り強く続けられ、一時休戦からさらに進み和平が結ばれることになりました。
その時奔走したのが宗氏であり、恐らく朝鮮の役人たちとの関係が大きく影響したと思われます。🍀🍀🍀
この話は知らなかったです。
情報共有、すばらしい。
こういう外交ほど、大事なことはありませんよね。しかし、この2人、結果としてどうなったのか気になります。
作者からの返信
雨 杜和orアメたぬき様コメントありがとうござます。<(_ _)>😊
この戦いは日中韓の戦争なのでセンセーショナルな部分ばかり目立ちますが、この外交での苦労話は歴史マニアではそこそこ有名な逸話です。
本文では日韓を焦点に書きましたが、実際には明(中国)の現場の将軍や小西行長も含む、穏健派も巻き込んでどんよりした沼のような透明感のない情報が錯綜していました。
日本側の官僚はとにかく秀吉の心証を壊さないように報告しながら、穏便に解決したかったのでその点では対馬の宗氏や敵国と心情的には近かったので罰せられるような話はせず、兎に角うまくやりすごそうという感じだったみたいです。
秀吉がもし長生きして、そのごまかしが露呈したら、宗氏もタダでは済まなかったでしょう。
この点は証拠がありまして、石田三成や小西行長が武闘派たちに憎まれたのは、まさにこの朝鮮での姑息な交渉と論功行賞に不満をもったからとされています。
なお、朝鮮側と明側はもともと難癖付けられた被害者みたいな感じだったのと国力が衰退した時期だったので、弱腰な態度でも咎められなかったものと思われます。
ただし、一部ではさすがに虚偽の報告や身分詐称とか敵国からの賄賂や癒着がバレて処罰された人もいたようですね。
そんな史実、まったく存じませんでした。
通り一遍の勉強では駄目だな……と。(゜.゜)
作者からの返信
上月くるを様ご愛読ありがとうございます。<(_ _)>😊
このあたりの歴史は私もネットにあるやる夫の歴史シリーズなどで知ったことが多いのであまり世間では知られていない歴史かと思います。
具体的な表現もされていないのでテストにも出ませんしね(笑)
ただ、ここで起きた出来事を見ると、後の島津の琉球侵攻や石田三成や小西行長と東軍諸将の確執などについてさらに深い理解を得ることが出来るかもしれませんね。
歴史と言うのは時間軸で見ても、敵味方に分かれていても、どこかでつながっています。
そして、無理をするとそれは弱い所に影響を与えます。
まさに対馬や朝鮮がその圧力を受け、こうした不自然な姿勢を強いられたというのは悲劇というか気の毒な気はします。
この辺は諸説入り混じっていて、私も包括的な事実として受け入れた上での紹介なので、もし機会がありましたらご自身の目でこの時代とこの地域の歴史を確かめるのもアリかもしれません。🌈😄
また遊びにきます
作者からの返信
かず斉入道様いつもご覧いただきこうしてコメントを残していただき感謝です。
<(_ _)>😊
次もどうかよろしくお願いします。🍀🎵🎶😄