秀吉は孫子で言う、
勝利する者は既に勝利を手中にしてから勝利する…タイプですね。
備前高松城の水攻めに掛かった費用の計算を見た事がありますが、
この1回の戦いの費用が、上杉、武田の様な
大大名の年間予算に相当します。
これだけの費用を秀吉がどう工面したのかは今日でも
詳しくわかっていませんが、秀吉は当時織田の方面軍司令官の
ひとりに過ぎず、織田家が他の大名に比べて凄まじい規模の
経済力を持っていた事が良くわかります。
他の大名の経済力など、吹けば飛ぶような規模だったのです。
当時織田以外の他の大名は、既に経済力で圧倒されており、
その巨大な経済力を引き継いだ
秀吉の物量戦術にかなう大名はいませんでした。
金に物を言わせて10倍の戦力で攻める。
とても分かり易く、しかも確実な方法です。
家康も小牧長久手では一矢報いたものの、
天正13年(1586年)の天正大地震が起きなければ危ないところでした。
いや、起きなかったら秀吉に滅ぼされていたでしょう。
天下人になる人は運にも恵まれていないと駄目ですね。
作者からの返信
白狐姫と白狐隊様興味深い情報を含めたコメントありがとうございます。
<(_ _)>😊
備中高松城の水攻めの予算がご説明の規模の物だったというのは初めてうかがいまして興味深く感じました。
議論の分かれる所でしょうが、私見ではもし九州征伐を秀吉ではなく信長が行った場合、島津の勝率はもっと高かったのではないかと推察しています。
もしかしたら天正大地震の話はどこかで書いたかもしれませんが、比較的最近の学説を見ると家康の領国は相当追い詰められていたらしく踏みつぶされていた可能性が高いと私も感じました。
あの時一時的にイケイケだった秀吉の思考が一時的にネガティブになり、その後の大名の処遇に影響を与えたとすれば、家康の安全圏確保と共に天の差配みたいなものを感じますね。
そして、あのヘッドシューターの島津でさえ秀吉に及ばなかったのであれば恐らく家康に桶狭間の再現は不可能だったと思います。
昭和時代はあくまで兵力と武将の能力で戦国時代を見ていましたが、やはり近年の研究を見ると経済力が大きな要素だったのだと感じます。
この辺昔からの歴史マニアや研究家は考え方をアップグレードしないといけないかなとつくづく思います。
薩摩、大隅、日向は豊かではない……
今は美味しいものが沢山あるので、何だか不思議な感じです。おまけにあったかい場所なのに。
火山灰の影響で作物が育たなかったとか? あるいは、平地が少なかった?
作者からの返信
肥前ロンズ様沢山ご愛読いただきありがとうございます。<(_ _)>😊
ご指摘の通り、火山灰が多いために土地が米の栽培に適していないことと平地が少ない(台地が多い)というのが大きいようです。
今はお茶の生産やさつまいも、畜産や海産物で美味しいものを安価でいただくことが出来ますが、戦国時代はそうしたものがほとんどありませんでした。(海産物ぐらい?)
以前石高を国の大きさに反映させた日本地図を見ましたが、九州は頭でっかちのような形をしていて、下の部分に当たる薩摩、大隅、日向がとても小さくて不憫でした。
甲斐の武田氏もそうですが、あまり土地にうまみがないと侵略するメリットがないので攻められにくくなるというメリットもあります。
ご愛読重ねて感謝です。😊😉😄
また読ませて戴きます✨🤗✨✨✨
作者からの返信
オズ研究所 《《#横須賀ストーリー紅白様いつもご愛読本当に励まされます。
<(_ _)>😄🍀
次回もどうぞお楽しみに。✨😄🎵🎶🌈