テレビ放映戦国大名総選挙その21 豊臣秀吉

九州戦役、局地戦を除けば戦国島津が絶頂の時に豊臣秀吉と対戦し、そして完膚なきまでに負けた戦です。


島津は以前も紹介したように少数での大軍撃破がお家芸のような戦闘集団です。

確かに敵の数が十倍でも勝ってしまいそうな戦闘力をもっています。


そう考えると、秀吉軍の戦力が30万でも島津3万で勝てるということになります。

しかし実際には島津は家久の戦った戸次川の戦い以外惨敗続きでした。


しかも家久の戦いも戦った時は秀吉軍の仙石秀久、(権兵衛)の独断で豊臣軍6,000名は思うように進軍できない中、島津家久率いる島津軍1万余と遭遇して戦闘となったもので大局に影響はありませんでした。


この一連の戦いでは、秀吉軍はあくまで持久戦を取っていました。

それは砦や陣での堅守、あるいは沢山の鉄砲と装備をした大軍を用意して一気に決戦をせず、島津の自然崩壊を狙う戦術でした。


そして、これは島津にとって最も相性の悪い戦いでした。

薩摩、大隅、日向は決して豊かな土地ではないので、兵糧が不足します。


そして、それゆえ短期決戦に特化した戦術ばかりしていたので野戦以外の戦いは必ずしも得意ではありませんでした。


籠城戦も城や拠点の数が多いので短期戦ならば極めて有利に戦うことが出来、基本的には相手は長期戦が出来ないとの構想で戦っていたため、秀吉のような補給万全の軍隊相手には極めて脆かったのです。


そして秀吉軍の最大の十八番はどこでも城や砦や堅陣を短期間で作ってしまうその土木能力でした。


つまり島津は古代ローマのシーザーのような大規模土木が出来る戦略家と戦うことになったのです。


あくまで、短期決戦、戦術的勝利に特化していた戦闘民族島津軍にとって相性が悪い相手でした。


余談ですが、この構図太平洋戦争の日本とアメリカの構図を思い出します。

この戦争も最初は日本の奇襲でそれなりでしたが、生産力と組織力に勝るアメリカに対して、日本は短期決戦というお家芸で勝利する間を与えられませんでした。


その前の清帝国や帝政ロシア相手の短期決戦による勝利が3度目の対外戦で完敗した点も大友、竜造寺と勝って秀吉に完敗したところと似ているなあと感じました。


とにかく島津は完封負けしました。

この前に秀吉は惣無事令を発したとされています。

早い話が日本国内で戦争は止めましょうというそこだけ見ると素晴らしい宣言です。


むしろ、それを無視した島津が悪い、現代の尺度ならそうなるかもしれませんね。

そして、秀吉は島津義久および島津家を許しました。


織田信長が浅井、朝倉、武田、斎藤といった勢力を滅亡に追いやったことを考えるとかなり寛大な処置です。


しかし、この寛大な処置、日本国内を平和にする宣言も含めて、豊臣秀吉のさらなる恐ろしさを知るスパイスに過ぎなかったことを次章で紹介したいと思います。




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