テレビ放映戦国大名総選挙その20 豊臣秀吉

戦国島津と豊臣秀吉は相性が悪いです。

それは、九州戦役で負けたことも大きいですが、それに加えて島津4兄弟の3男の歳久(としひさ)が豊臣秀吉と険悪な関係になったうえに体調が悪いにも関わらず出兵を命じたためにそれを拒否。


それを謀反と判断されたため、泣く泣く島津同士の争いという形で歳久が自害する事態になりました。

それに加えて、太閤検地の実施により領民が反乱を起こすことになりました。


こうして見ると島津サイドから見て秀吉は感情的には許せないという人がいても不思議ではない人物です。


ですが、あえてここで島津日新斎のお言葉を借りるなら、優れた人物からは学べという趣旨の教えに従いたいと思います。


ここで取り上げたいのは「小牧の戦い」です。

豊臣秀吉と徳川家康の本隊の戦いです。


結論から言いますと、引き分けだったのですがこれがとても秀吉らしい戦いでした。

徳川家康は織田の盟友として浅井、朝倉、武田といった大名との大規模な野戦の経験を積んだ野戦のプロでした。


特に当時最強と言われた武田信玄、そして軍才はその信玄を上回ると噂されたその息子勝頼相手に十分なトレーニングを積んでいた状態でした。


野戦で当時超一流の相手に対して、秀吉は砦や土塁を巡らしました。

野戦での決戦の敗北という可能性を真っ先に潰しました。

こうなると家康も同じように防備を固めるしか手がなかったようです。


そして時間が経てば経つほど経済的に強い秀吉軍が優位に立ちました。

この時局地戦では家康が押す場面もありましたが、秀吉の調略により味方が離れ経済的に不利な家康は全体としては追い詰められていきました。


こうして気が付くと家康は自国の戦闘能力を維持するだけの経済力が脅かされ、戦どころの話ではない状態に追い詰められていきました。


余談ですが、この時日本に大きな地震が起きたため、秀吉は家康をつぶすという考えを変えたという話があるそうです。


もし、この地震がなければ、家康の運命は北条氏のようになっていたと推測する人もいるようです。


ここで一つ指摘しておきたいことがあります。

豊臣秀吉は野戦をせず勝つことがうまいとはいえ、野戦が弱いわけではないということです。


なにしろ、賤ケ岳の戦いでは織田家筆頭の猛将柴田勝家相手に完勝しています。

家康との戦いも北条との前哨戦も細かい戦はともかく結果としては申し分のない勝利をおさめています。


にもかかわらず、彼が勝利した合戦というのがあまり印象に残らないのは、それ以上に戦いが終わった後の戦果がすさまじい点にあると思います。


孫子曰く、戦わずして勝つ、といいますが味方に大損害をあたえる戦を避ける戦いを創造したという点でまさに名将と言っていいのではと思います。

次の章では九州征伐とその後の関白、太閤秀吉について触れたいと思います。


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