鬼平おねがい

新巻へもん

信乃田の里

「姫様っ。早うお逃げくだされ!」

 そう言いながら郎党の佐平次が太刀を引き抜いて、鎧武者に切りかかる。鎧武者は余裕でその斬撃を受け止めた。呼びかけられた菊は唇を噛みしめたが、すぐにお踵を返すとお千に伴われ村の奥の方へと駆けていく。命がけで時間を稼ごうとする佐平次の気持ちを無駄には出来なかった。


 周防国の山奥にあるこの隠れ里は火がかけられ、まるで昼日向のように明るくなっている。木がはぜ、火の粉が舞い上がり、阿鼻叫喚に包まれていた。いくつもの山を越えなければたどり着けないことに慢心していたが、今は乱世だった。不意を打たれなければ、もう少し秩序だった応戦ができたかもしれないが、各所で個々に切り結ぶのがやっとの状態だった。


 山の中に入ってしまえば、地の利はこちらにある。女のか弱い足でも逃げ切れる可能性は高い。菊の淡い期待はすぐに打ち砕かれる。村の裏から山へと通じる道に太刀を履いて直垂をつけた人影に見えた。その背後には白地に笹の紋を染め抜いた旗が照り返しを受けて闇に浮き上がる。


 夜盗の類にしては、人数も多く、動きに統率の取れたところがあったが、その旗を見て疑問が氷解する。同じことに気づいたお千の頬に固い線が浮かびあがった。道を横に逸れて、走り出した菊にお千が済まなそうな声を出す。

「姫様だけはと存じましたが……」


 その声は野太い複数の声にかき消された。

「いたぞ、あっちだ」

 喘ぎながら二人が駆け込んだのは墓地だった。この村に落ち延びる際の深手が元で亡くなった者達を葬ってある。


 ひと際大きな墓石の裏に身を潜めた二人だったが、たちまちのうちに墓地の入口は5・6人の武者に塞がれてしまう。相手は女二人と見てすっかり寛いでいた。

「山奥に村とは不審と来てみれば、本当に鄙には似合わぬ臈たけた女御がおるとは」

「儂が最初に見つけたのじゃによって……」

「いや、それを言うなら、この里を改めようと言うたは儂じゃ」


 もう捕らえたつもりで、その後のことを言い争う武者の姿にお千がそっと菊にささやく。

「私が引きつけます故、その隙に……」

「いくら、そなたの腕前でも鎧武者の相手はできまい。辱めを受けるならいっそ」


 お千は小太刀の使い手ではあったが、水干姿の対手ならともかく、鎧直垂には刃が通らない。お千は自らの不甲斐なさにギリリと歯を噛みしめる。死んだあの方に姫様は必ずや守り参らせると、誓ったではないか。お千の脳裏に「我が身が朽ち魂魄となっても……」というあの方の今際の際の言葉が蘇る。


 気づけば、身を隠している墓があの方の物と気づき、お千は一心に願った。

「どうか姫様をお守りください。我が身命を賭してお願い奉ります」

 墓石の表面がぺかりと青白く光を放つ。はっと目を上げると燐光をまとった武者の姿が浮かび上がっていた。


「まだ残っておったか。押し包め」

 不意に現れた男の姿を見て、墓地の入口にいた武者たちが一斉に太刀を煌めかせ、切りかかって来る。しかし、その刃は、奇怪なことに燐光をまとった男の身をすり抜けた。男は凄惨な笑みを浮かべると抜く手も見せず太刀を振るう。刹那のうちに、首のない体が地面に倒れ伏した。


 菊を抱きかかえながら、お千が立ち上がり、自分たちを助けた男に向かって呼びかける。

「景清さま……?」

 男はフッと寂しげな笑みを浮かべると冷え冷えとした声を出した。


「もう名など忘れた。今はただの亡霊よ」

 それだけ言い捨てると背を向けて村の中心部へ向かって歩き始める。

「どちらへ……」

「鎌倉に赴き、頼朝を討つ。さすれば、そなたらも平穏に暮らせるだろう。さらば」


 かつて赤旗の下、鬼と呼ばれ源氏の武者を震え上がらせた一人の男の孤独な戦いが始まる。

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