マサオは再び、自伝図書館へと足を運んだ。

 きれいな書物が並ぶ書棚を次々と素通りしていき、彼は藤原拓也の自伝の前でピタッと立ち止まる。

 スマートフォンを左手で強く握りしめ、マサオは拓也の自伝へ手を伸ばす。

(よし。今度こそ、ちゃんとおじさんの本を理解しなくちゃ)

 マサオは自伝をやさしく抱えて、書棚のそばにある木製の机に向かう。

 そして、彼は拓也の自伝とスマートフォンを静かに置いた。

 マサオは深く息を吐き、ゆっくりとこげ茶色の椅子に座るのだった。


 それから数時間。


 彼は片っぱしから自伝のページを凝視して、次々と読み終えたページをめくる。

 そして、わからない言葉があったらスマートフォンを使ってひたすら検索した。

 しかし、言葉の意味がわかっても、拓也の言わんとすることがなかなか理解できず、マサオはただ文字面を追うばかり……。

 少年の頭の中には、白い紙の上に浮かび上がる活字であふれていた。

(ああ、わからない! 全然わからない!)

 彼は不意に、机の上を小さな拳で「ドン!」と鳴らしてしまった。

 広くて大きい自伝図書館のなかに、彼の怒りの音がこだましたのだった。


 気がつくと、マサオはまた、拓也の住む家の、扉の前に立っていた。

 少年は懸命に手を伸ばし、呼び出しのチャイムを鳴らす。

「はあい」

 拓也ののん気そうな声が、扉の向こうがわから聞こえてきた。

 マサオは、その平然とした調子の声に憤りを覚えながら、ただ扉の前でじっとしている。

 しばらくすると、黒い格子の扉がガチャッと開かれた。

 目の前には、マサオよりも背丈が高く、幸せそうに微笑み顔を浮かべている拓也の姿がある。

「ああ、マサオ君。また訪ねてきて、どうしたの?」

 拓也がそうやさしく問いかけると、少年は苛立たしげに返事をする。

「おじさんに、教えてもらいに来たんだよ」

「何を?」

「お金の稼ぎ方を、だよ」

その言葉を聞いて、拓也は軽くため息をついた。


「あのね、俺はいつも仕事で忙しいんだよ。キミにいちいち教える手間なんてないの」

 すると、少年はふくれ顔になる。

「おいおいマサオ君。そんなに怒るなよ。……まあ、ウチへ入るか?」

 拓也がそうやさしくマサオに聞くと、彼はずしずしと図々しく、玄関の中に入っていく。

「おい、マサオ君!」

 拓也は廊下の上を、急ぎ足でマサオを追いかける。

 マサオはダイニングに入り、テーブルのそばにある椅子に歩み寄る。

 そして椅子の上に立ち、テーブルの上に、図書館で借りた拓也の自伝を乱暴に置いた。

「おじさん。どこに書いてあるの」

「えっ?」

「お金の稼ぎ方だよ」

「あ、ああ」

「どこに書いてあるの?」

 その話を聞いて、拓也は納得した表情になる。

「なるほど。キミが今日ここに来たのは、それが目的なんだね」

「そうだよ」

 少年がそう低い声でつぶやくと、拓也は両手をあおいだ。

「まあ、そうカッカするなよ。教えてあげるから」

 そう言って、彼は少年の手から本をやさしく取り上げて、ページをペラペラとめくり出した。

 そして拓也は、少年に向けて自伝のあるページを指さす。

「ここに、キミがほしがっている情報がすべて書いてあるよ」

 マサオは、彼の指さすページの文章を読んだ。


―これからの時代は、自分の好きなことで稼げる時代だ。

 だからこそ、僕は言いたい。

 好きなことに没頭しよう。それが仕事になるまで。―


 その文章を読み終えると、マサオはなおもふくれた表情になった。

「この文章じゃよくわからないよ。もっと具体的な話をしてよ」

「いやいや、この本にはいろんな実例を載せてるでしょ」

「どこに」

「まあまあ、そうカッカするなって」

 そうなだめながら、マサオにもう数ページ前の文章を指示した。

「ほら、ここにいろいろ載ってるでしょ? けん玉を大道芸として仕事にした話とか、コンビニアイスを批評する評論家の話とか。こっちなんか、田舎にいながらもブロガーとして活躍してる例も載ってるじゃん。これでまだ足りないんだったら、そういう類の本も出してるから、よかったら紹介するよ」

「…………」

「おい、どうした? もしもし? お~い」

 拓也がそう問いかけ、少年に目を向ける。

すると、彼はマサオが目にいっぱい涙をためていたことに気づいた。

「ど、どうしたの……」

「くやしい……」

「え?」

 拓也がそう聞き返すと、マサオは涙をぬぐって言う。

「一生懸命、スマホで調べながらがんばったのに……何度も読み返したのに!」

 そして、マサオはやがて大声をあげて泣いてしまった。


「おいおい、なにも泣くことないじゃない」

「だって、だって~」

 拓也は、やさしく彼の小さな背中をさすった。

「そんなに悔しかったの?」

「うん」

「どうして」

「だって、学校に通ってる子たちに、バカにされたくないんだもん!」

「マサオ君……」

 再び、マサオは声をあげて泣いてしまった。

 拓也はふと、ズボンのポケットからハンカチを取り出した。

「ほら、これで涙を拭きなよ」

「おじさん……」

 拓也は、日の光が差し込む窓辺のほうに目を向ける。

「……大丈夫だよ、マサオ君。キミはまだ若いから」

「だって、キミはまだ学校にも通ってない子供なんだから。まだまだ可能性はあるよ」

「おじさん……」

 マサオは自分の涙を、拓也から受け取ったハンカチでふき取った。

 拓也は、話を続けた。

「今のうちにいろんなことに挑戦していけば、立派な社会人になるさ。小さいうちにお金儲けのことばかり考えなくてもいいよ。それよりも、自分のやってみたいことに、素直に向かってみるのがいいと思うよ」

 拓也のその言葉を聞いて、マサオはつい「でも……」とつぶやく。

 拓也は、マサオの小さな両手を丁寧に包み込むようにして握った。

「大丈夫だよ。俺もこの自伝に書かれてある通り、もとは不登校だったんだ。それがどうだよ。今じゃ立派なビジネスマンになってるだろ?」

 そう言って、彼はマサオのうるんだ両目を見つめる。

「大丈夫! 学校へ行けなくても、キミは立派な大人になれるよ。がんばれ!」

「……ありがとう、おじさん!」

 マサオはそう言って、拓也の自伝を手にして、ゆっくりと椅子から下りていった。

「ボク、おじさんみたいに、立派な大人になるよ! 今日は、本当にありがとう! さよなら!」

 そう言って、彼はゆっくりと部屋を去っていく。

 彼の去り際を見て、拓也は急いで見送りに玄関へ向かったのだった。

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不良少年と自伝図書館 岡本ジュンイチ @okajun

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