第18話 寂しき者たちの明日

 私は...。

 静まり返ったロンド・バリの会場。その、擂り鉢状の会場のぐるりを為す壁の一角に叩きつけられた格好のまま、成木は呟いていた。

 私は...。

 また同じ言葉を、とり憑いた導者の口から彼は漏らした。

 成木の全てを賭けた入念な研究、慎重な準備と万全な環境。その上で展開されたロンド・バリによって達成した集団転移は今、会場の対岸にいる二人の男女の手によって崩壊していた。人を集め、更に人の心を集めることによって、成木に輝ける未来を約す筈だったその行為は皮肉にも、千の人に拒絶され、そればかりか、彼をして人の形をすら奪う程の究極の離散という、全く反転した結果に終わってしまったのだ。

 人の身体に辛うじて戻った成木が、彼の憑いた依童にまで滲み出るほどのショックを隠しきれないのも無理からぬ事だろう。

 私は...。

 三度目の言葉は、彼という自我のどこまで染みわたったのか...。だが、その心の深みを経て後、敢えて成木は思い浮かべていたこととは別の言葉を語った。

「私は、負けない。」

 それでも、彼の言葉が単なる負け惜しみでなく、寧ろ彼の本質を伴っていたことは、本章を読み進めていただければ否応なく解ることになる。

 そして、それほどの力を生み出す、彼の動機も...。


 極度の精神的疲労で放心状態にあった大野だったが、会場の反対側にあってよろけながらも立ち上がった男をその視界の隅に入れるや、再び緊張感を取り戻した。

「成木?」傍らで辛うじて立っている原尾も、男に気付いて呟いた。

 大野の緊張も、原尾の直感をおそらく間違いないとみなしたからに他ならない。

 二人が注視した、さっきまで導者をしていたその男は、おぼつかない足取りですぐ脇のドアまで進んでいく。

「ま、待て!」

大野は言うが速いか飛びだそうとしたが、左肩が壁にめりこんで動けない。男は止まるはずもなく、大野達に一瞥だけ残してその中に消えた。

「いかん。」大野は小さく悪態をつく。「逃げられる。」

 その言葉の重要性は原尾にもよく判っていた。今回集団転移に勝てたのは、統括者である成木がその力に慣れていなかったというだけに過ぎない。成木を今逃がすと言うことは、それだけで取り返しのつかぬ事になるのだ。

「くそっ。何とか...。」空しくもがく大野。

 原尾は怪我の無理を圧して大野に手を貸していたが、びくともしないその身体に焦燥を隠しきれない。何かないか...何か...。彼女は考えつつ辺りを見回し、突然刮目して飛び出した。

 どうしたんだ。原尾の行動に一瞬戸惑った大野だが、彼女が手にした物を見て理解をし、且つ慌てた。

「ちょっ、ちょっと待ておい。」

 原尾は床に転がっていた自動小銃を手にしていたのだ。とはいえ、怪我をしている彼女では、照準も心許ない。だが...。

「信じて。」彼女はそれだけ言うと、撃った。

 ガガガガガッ!

 弾丸は秒数十発の勢いで放たれ、大野の脇の壁に次々と穴を穿っていく。破片と跳弾が大野に降り注ぐ。

「ひーっ!」

 原尾が全弾撃ち尽くして引き金から手を離したとき、大野の左側の壁は、見るも無惨な状態となっていた。

「外れた?」

「当たったぞ!」大野は泣きそうな声で弾痕を見せようと左手を振りかざした。「あ。」

「外れたようね。」

「...。」


 成木が逃げ込んだのは、ロンド・バリ関係者の控え室だった。過日、鈴鳴と馳が黒布を被せられた鳥かごに入った蝙蝠を見せられた部屋だ。彼は導者の身体の制御に精神を集中させながらも、次の行動について考えていた。

 悔しいが、今は逃げきる事が先決だ...。成木は落胆してはいても、決して自分を失ったわけではない。集団転移を解いて一人となった今、自分がただのジャッカーとして立ち向かうのでは大野に勝てないことを認めるだけの冷静さはまだ持っているのだ。

 奴の力を封じるか、奴を越える力を手にせねば、私に勝ち目はない。

 その時だ。成木は自分の背後に殺気を感じた。

 部屋の陰に誰かいる! 成木は振り返りざま後方に飛び退いた。だが、その者が振り下ろした武器は、空を切る攻撃射程に明らかに彼を捉えている。

 しまった、長柄の鉾か! 突然の攻撃者の持つ武器が、ロンド・バリ儀式用の二股の鉾だと判っても既に遅い。成木には防ぐ手だてがない。ちいっ。

 キン! 鉾は床を切り裂いた。あまりの勢いに二股の刃の一本が折れ飛び、回転しながら成木の二の腕に刺さった。

 しかし、それまでだ。攻撃はそこで止まった。

 狙わなかった? 腕の怪我の痛みすら忘れて成木は訝る。だが三秒の硬直の後、彼は闘いの気を緩めた。そして腕の折れた刃を抜きながら思う。そう。それは、成木の脇すれすれを狙って打ち下ろされていたのだ。となれば、即攻撃してくる可能性は低いだろう。

 そして案の定、欠けた鉾を持つ者は、成木に声を掛けた。

「ざまぁないな。でかい力を持ったのに、だらしねぇこった。」

「な...。まさか...。」

 その男の出現に、流石の成木も驚きに声を失った。

「ハンター殺しの名が泣くぜ。黄泉。」

 手を差し延べて立っているのは、あの男だったのだ。


「マキちゃんはありったけの救急車を呼んでくれ。ここの人達を助けるんだ!」

ロンド・バリ会場外周を駆けながら、大野は残してゆく原尾に叫んだ。

 テロにあったのは警察とマスコミだ。防災施設は無傷だから、デロ事件からこれだけ時間が経てば出動できるくらいには落ち着いているころだろう。

「任せて。関東中の救急車を集めてみせるわ。」手すりから身を乗り出して原尾は答えた。

「ははは。それで渋滞になりそうだな。」戯けつつ、大野は成木の入っていったドアに達した。

「無事で!」

 原尾の、心なしか不安げな言葉に、大野は親指を立てて合図を送る。

「今度こそ逃がさねぇ!」

 大野は成木が入った部屋のドアを蹴破った。


 原尾は大野とは逆に、ロンド・バリ会場中心に向かっていた。螺旋を為す一層一層に倒れ臥している人々の阿鼻叫喚。彼らの合間を縫うようにして駆け降りる彼女は、いつ地獄門をくぐったかと錯覚するほどであったか。

 早くしないと...。会場の血臭が濃くなるにつれ、原尾は一心にそれだけを思う。

 中心のステージに降り立った彼女は、成木の憑いていた導者が屈んでいた辺りを探り、端にスイッチを見つけた。やっぱり、セリ舞台の昇降をここで制御してたんだ。彼女はすぐにそのスイッチを入れると舞台を下降させた。そして自分もその回転台に乗って階下に向かう。

 早く...。早く!

 原尾は台が降りきるのももどかしく、会場下の配電室に飛び降りた。

 彼女がそこで探す者はただ一つ。落としていった筈の彼女の携帯無線機だ。それを使えば対特の権限で緊急通信は最優先されるのだ。勿論、その指令の実行も。

「早く...あった。」予想していた場所にそれを見つけ、彼女はすぐに優先周波数帯に合わせる。「こちら対特殊犯罪機構警部原尾マキです。緊急出動を要請します。」


 大野は無人のロンド・バリ関係者の控え室を駆け抜ける。黒布を被せられた固まりと、床に大きく付けられた傷跡が、彼の視界を一瞬掠める。

 刃傷?

 漠然と考えつつ、奥のドアから飛び出すと、そこは非常階段だった。下には延々と続く闇があったが...。

 上だ...。殆ど直感の様なものに急かされて、彼は駆け上がる...。彼はビリビリと感じているのだ。この空間を満たす、たった今までいた男の気配を。

 この感じ...。頬を紅潮させる軽い緊張の中、大野は思った。この感じが俺を駆り立てる...。

 彼は再び成木に追いつこうとしている。自分をしてそうさせるのは、ジャッカーを追い詰めるハンターの本能なのだろうか。それとも、成木があの時語った言葉を、もう一度確認したいからなのだろうか。


 原尾は専用の通信機で、対特の権限を使って出動しうる限りの救急部隊の派遣を要請した。これで迅速に且つ大量の緊急車両がここにやってくることになるだろう。

 だが、彼女がその連絡を終えようとしたとき、にわかに通信が混線しだした。

 おかしいわ。この周波数は一般の者には使えないはず...。

 そうして耳を澄ました彼女の鼓膜に流れてきた男の声を聞いて、原尾は凍り付くことになる。


 ニューサンシャインタワーの屋上。あまりの高層建築なために持て余しがちの広大な広場となっているそこには、信じ難いことに、大型ヘリが数機も着陸していた。陸上自衛隊所属の輸送ヘリ、言うまでもなく、特殊掃討部隊を乗せてきた機体群だ。

 それらは各々巨大なローターを回しっ放しにし、再び宙空に舞う瞬間を待ち構えているのだったが、耳を聾するばかりの轟音で一見活気あるようにみえるその情景は、そこに漂う血臭によって、奇怪なものに変わっていた。

「...どうした...安田班...応答せよ...」

ヘリの無線機からは、先程から返答を求める声が繰り返し流れていた。が、それに答えるべき通信兵は、喉から流した血流で体中を染めて死んでいた。他の待機要員、そして、他のヘリの隊員も、似たような惨状になっていた。

 これだけの人間をさしたる苦もなく殺傷したのは、実はたった独りの人間であった。男は隊員達の最後の一人を殺してから、暫くあることを調べているようだったのだが、やがておもむろに、例の返答を希求する無線機をひったくると、一言だけ言った。

「残念だが、やはりあんた達では役不足だったようだ。」

「何? どういう事か。貴様は誰なのか? 返答せよ!」

 ブチッ。男は一方的に無線を切ると、ヘリを降りた。

 自分で確かめるしかないということか。

 男は、再度戦場に向かうため、少し大きめのアタッシュケースを片手に、階下へ向かう扉を開けた。

 男の相手はハンターか、黄泉の男か...。


 大野は非常階段を駆け上がる。

 成木の狙いはおそらく屋上。そう推測する大野の根拠はさっきの特殊掃討部隊に起因している。

 自衛隊の連中の行動はあまりに迅速すぎた。彼らが大混乱を呈していた地上を通ってきたとは思えない。つまり、このビルの屋上には彼らの乗ってきたヘリがあるはずだ。

 となれば、それに乗って成木はこの場を逃げ切るつもりだ。

 大野は階段を登り切ったが、階段は最上階までだった。ドア横の消防用の建物見取り図を見れば、彼のいる階にある水族館を横切った向こう側の非常階段から屋上に抜けられるようだ。

 間に合えよ。彼はドアに手をかけると、一気に中に押し入った。


「!」

大野が入ったのは、広いが、薄暗い空間だった。そこには一面、無数の水槽が無造作に置かれ、鉄材やロープも至る所に散在している。どうも、隣の水族館の拡張工事中の場所らしい。

 世界最高度の水族館だ。人気あるからな。

 大野は読者にニューサンシャイン水族館の説明をさり気なくしながら、周囲を観察した。オーソドックスな四角い水槽、円筒形の物、様々なものがある。

 いちいちでかい。俺が仕掛けるならここだが...。大野は迷った。集団転移を叩かれて、気落ちしているだろう奴が逃げの一手なら、ここで慎重に動くのはタイムロスだ。

 その時だ。ある円柱水槽のガラスの奥に、大野はロンド・バリの導者をしていた男の顔を見つけた。アクアブルーのその表情は、躊躇いもなく手にした拳銃を大野にかざす。

 くっ。全っ然落ち込んでねぇってか。大野は口中で悪態を付きつつ、しかし左腕を男との間ではなく、あらぬ方向に掲げた。

 ダン! 射撃音と反射音は殆ど同時。左腕に弾かれた弾は天井で跳弾する。

「流石だな! 良くこちらから撃つと判った。」正面とは全く違った方向、まさに大野が左腕をかざした方向から、導者が飛び出した。

「屈折率と反射を利用する。この場所ならではのトリックだな!」大野が横っ飛びする。

「ふふ。易々と逃がしてはくれないということか。」

言いつつ、銃を二斉射。いずれも、大野は左腕で弾く。

「あんたの全力で俺を倒すんじゃなかったのか? 素手で来い素手で。」

「お前相手ではこれでも不利だと思うが?」また撃つ成木。

「よくわかるじゃねぇの。」言葉を残して、大野は今度は逃げた。が、その行動はいかにも緩慢だ。その動きを成木が見逃すはずがない。撃つ! もらった。

 ガシャーン! 破壊音はガラスを割る音だ。人ではなく...。

 奴じゃない。成木は思わず呟く。

 そして、水槽を身代わりにした大野は、その距離をあっと言う間に詰め...。

「く、地の不利を逆に利用するとは。」

「よく...。」成木の目の前に立った大野がもう一度言った。「わかるじゃねぇの。」


 大野は成木の懐に入った。それは拒絶波を撃てる大野にとって絶対有利の状況になったことを示すものだ。

「観念しな!」

彼はそう叫ぶと、左腕で導者の襟首を掴み、その身体を高々と掲げて、円柱型の水槽に叩きつけた。成木は思わず銃を取り落とし、銃は床に転がってゆく。

 勝った? ハンターである自分が、ジャッカーである成木を押さえつけている。何を懸念することもない大野にとって絶対の有利。この状態にありながら、しかし彼は一抹の不安をよぎらせる。簡単すぎる決着に、自問せずにはおかぬのは、自分が神経質すぎるからだろうか。

 だがそれなら、何故ここで成木は勝負を挑んできた? 不意を討つつもりにしては、奴の攻撃は淡泊すぎた。屈折を利用しているとはいっても、わざわざ大野の目の前に己の像を結ばせていたのだから。

 そして大野の漠然とした不安は、不利な立場の筈の成木が微笑むことで一気に加速した。

「お前は強すぎるのだよ。ハンター君。」


「!」

 成木の言葉が彼に染み入る前に、大野は背後に殺気を感じた。

 肩越しに振り返る彼の目に映るは、電光石火で近づく鉾を持つ男。

 普段の大野なら、真っ先に対処していたであろうその敵に、彼はどうしたことか対処するタイミングを逸した。

 その男が、さっき死んだ筈の操乱だったからだ。

 これが成木の...切り札か!

 操乱は構えた鉾を突きだした。その切っ先の鋭さは、ロンド・バリ会場の天井裏で既に明かとなったジオ譲りのナイフ技量を付加することによって、確実に大野の身体を貫くだろう。そして、唯一の反撃手段たる大野の左腕はいつの間にか、持ち上げた成木の両手に硬く握られていた。

 成木が見せる満面の笑み...。

 死!! 黄泉から簡単に連想できるその言葉が、大野の脳裏を走る。


 ズッ!

 鈍い音がして、一本刃の鉾は身体を貫き、円柱水槽に深々と突き刺さった。

 ...。あ...れ?

 痛みの無さに、大野が不思議に思ったのも無理もない。そして状況を再確認した彼は仰天した。あろうことか、貫通したのは大野の心臓ではなく、成木の憑いていた導者の心臓だったのだ。

 ど、どういうことだ? 大野はこの突然の出来事に動転してまったく要領を得ない。切っ先はその行程の途中で大野の左腕をも貫いてはいるものの、最終的な餌食としたのは明らかに成木の方だ。いったい、何が起こったんだ?

「は。」鉾を握ったままの操乱が小刻みに震えだし、そして。「あっはははははは。」

 助かった? と、思いたいが、大野の混乱が治まるわけはない。

「お...お前は一体...。」

 だが、大野の言葉を無視して、操乱は大野の後ろの成木に語り掛ける。

「ざまぁねぇな、成木...。」つと彼はそこで言葉を切り、思いだしたように訂正した。「いや...、伊左輪那義。」

 操乱は鉾を更に押した。導者の両手が大野の左腕から離れ、導者は文字どおり串刺しになって宙に浮いた。

「ぐぐっ。」依童が受ける激痛に、さしもの成木も思わず声を洩らす。

 伊左輪だと! 大野は心中叫んだ。俺達の他に成木が伊左輪だと知っている可能性のある者がいるとすれば、死んだ最土修と、そして...。

「万丈...司...。」成木が声を詰まらせて言った。

 成木にそう呼ばれた操乱は、今や操乱であっても操乱でなくなっていた。

「今頃分かったか? 成木。」

「ば...馬鹿な...。」大野は驚愕する。「離魂体の最土修が死んだのに、お前が無事でいる筈が...。」

「こいつも...。」成木が喘ぎながら呟く。「ゼロになったってことだ。」

「ゼ...、ゼロ...ヒューマンにか...。」絶句する大野。


 ゼロと呼ばれた男、万丈。

「そうだ。俺は急速にヴァンパイアと化していく依童の中で、あまりの恐怖に死に物狂いになってこの男に縋り付いたのだ。」と、操乱の中の万丈は、己の憑いた身体を叩いた。「それが驚くじゃないか、気付いたら俺はこの体の中にいたというんだから、ゼロ・ヒューマーになったんだから。」

「くく。」成木が小さく笑う。「常盤修司だったときには、あれほど追い求めても手にできなかったのにな。」

 内輪受けの会話ばっかり、勝手にやってろよ。俺は漁夫の利でも狙うさ。大野はいがみ合う二人の隙をついて左腕を動かそうとした。が、奇妙なことに、彼の腕はビクとも動かなかった。あ、あれ? どうしちまったんだ...。

「こうも簡単にゼロ転移ができるなど、確かに笑うしかないな。」万丈が憤って言う。「執拗なまでの生への執着。それこそが、俺がかつての研究で見つけられなかった物だったのだから。」

 万丈が鉾から手を離して、指さす先には成木がいる。

「皮肉だろう! 貴様を殺したいと思う執念が、俺をゼロ・ヒューマーにしたのだ!!」

「それほど殺したいなら...」成木が問う。「何故さっき殺さなかった。」

「つまらんだろう。喜悦の絶頂にあるときの貴様を殺さなければ。」

「そうか。」ふっ切ったように、成木はそこで言葉を止めた。

 所詮は片割れということか...。それを限りに凍り付く、彼の心中をよぎったその想いの真意は、何処にあるのか。


 二人のゼロ・ヒューマンが、ハンターを挟んで対峙する。

「くくく。」磔にされて、身動きもできない成木が、それでも小さく笑った。

「何がおかしい。」

 成木は万丈の叫びにも動じない。

「くくく。いや失敬。お前があまりにも不憫でね。かりそめの勝利にご満悦のお前の姿が。」

「黙れ! 貴様、自分がもうすぐ死ぬって事が分かってないんじゃねぇか?」

 真下の大野も成木を訝らずにおれない。俺に憑けるなんて思ってるわけじゃあるまい。

 だが、成木はそれでも、小さき笑い声を止めようともしない。

 そして、大野の懸念は正にそこにある。成木が諦観から投げやりな笑いをするなど、とても考えられぬのだ、とすれば...。そして、それは万丈も同じく感じとっていたようだ。

「やめろ...。」始めは小さく、万丈は揺らいだ。しかしすぐに...。

「やめろやめろ、やめろー!」その言葉と共に、万丈の心理的優位は破れた。

 万丈を揺すぶった成木による心理的圧迫が大野にとって意外なほど大きかったのは、かつての成木との関係がそれだけ深かったという事か。

「その目だ。」万丈は悲鳴じみた叫びをあげる。「蔑むような目で俺を見降ろすのはやめろ、憐れむような目で俺を見据えるのはやめろ。

「まるで何でも知っているってなその余裕ありげな笑みはやめろ。」

 そう。万丈を必要以上に苛立たせるのは、彼がそれ程成木、いや、かつての伊左輪を知っているからであり、その事実は彼の感情を過去に揺り戻す。

「貴様はいつも俺の前を走っていた。俺は全力で駆けていたのに、貴様にどうしても追いつけなかった。俺はいつも貴様の後を追いかけることしかできなかった。」

 それは片割れとはいえ、確かに常盤修司の心であり。

「師であれば...、兄であれば...、貴様は尊敬すべき男だったかもしれない。だが、だが...。貴様が俺の友であったから...、無二の親友であったから。」

 その思い故に、万丈となった言葉を、彼は吐いた。

「貴様が俺を導く手にも、俺に見せる貴様の屈託無き笑いにも、俺の心は殺意を生ぜずにはいなかったのだ。」


「ゼロになってまで、私を殺しに来たことは褒めてやるよ。」成木の言葉が砕けるのは、かつての友への最後の心象表現か。

「だが、お前の言うとおりだ。それだけでは私には追いつけない。」

「!」

万丈はその時不意に、自分が御している依童の身体が、思いのままに動かなくなるのを感じた。それと同時に微笑んでいた成木が、フッと、力無く頭を垂れた。

 何? 大野は信じられぬ面持ちで見上げる。成木が死んだ?

 いや違う。大野の漠然とした直感が叫ぶ。奴はこの行動をも予定に繰り込んでいる筈だ。とすればその行き着く先は。大野は万丈の方を振り返った。

「そっちか! 成木!!」

 操乱の顔に不敵な表情が現れた。


「そうとも。」操乱の体の中で、その制御権を勝ち取った成木が言った。「察しがいいな。」

 こ、これは...。大野の驚きも無理ないだろう。操乱を今操っているのは成木なのだ。今のこの瞬間、俺の上の導者に憑いていた筈の成木が、操乱に憑いている。

 そこまで考えてきて、大野は戦慄した。

 ああ、違う。導者に憑いていたのではなく、あいつは始めから操乱の中にいたのだ。最土の家で、最土の娘の園子に憑いていたように...。

 大野の結論は、思わず彼の口をついた。

「集団転移を使ったな!」

 最土の家での一件から推して、一人の依童(この場合は要素体か)に対して集団転移を行うことは、精神の移行の度合いが強すぎるのだろう。だからコピー先であるにも関わらず、それが自分の自我だと勘違いし、コピーの行動があたかも自分であるかと思ってしまうのだ。それはコピーがオリジナルの目の前で、その機能を失うことなくしては戻ることは適わないという、集団転移の欠点。しかしその弊害を、成木は今度は己の戦略として利用したのだ。


 成木は大野に近づくと、大野の方に手を差し伸べた。

 大野はすかさずその手を掴もうとしたが、

「おっと、妙な真似はしない方がいい。君の替えの効かない身体に穴が開くぞ。」

 制する成木は大野に、手にした銃を突きつけた。

 大野はそんな成木に対して不利な立場でいることに総毛立った。

「そう殺気立たなくてもいい。君の上にある身体に、渡し物をするだけだから。」

「や、やめろ。」

 大野の制止など無視して、成木は血の気の引いた導者の顔に触れた。

                            転移...。


 そして、気付いた男の見たものは...。

「あ...操乱...。」

 ああ...。大野は嘆息した。死にかけの導者に、万丈の意識が強制転移されたのだ。俺はそれをどうすることもできなかった...。

「お、気がついたようだね。」操乱の中に入った成木が言った。「この短時間で身体制御をものにするとは、才能あるじゃないか。」

「!」状況を察した万丈は、依童の身体の状態にも構わず叫んだ。「謀ったな伊左輪ー!」

「心外な言い方だね。君は始めから私の切り札なのだよ。」そして成木は大野を見て言った。「そうじゃないかね、ハンター君。」

 大野は成木に言葉を向けられてハッとした。違う...、この男は、俺が導者を狙うことを見越して、予め自分の精神を避難させておいたわけではなく...、この男の目論んでいたのは、そんな消極的な計画ではなく...。

「お、お前...。」大野が叫ぶ。「俺を...俺の腕が狙いだったのか。」

「言ったろう。君は、君の左腕は危険すぎるのだよ。」ゆっくりと歩き出しながら成木は語る。「君に憑いたときに、その構造は読み取ったからね、もう動かないよ。」

 身...、身を賭けて俺の腕を潰しただと...。鉾が貫いた場所はそう指摘されてみれば確かに、義手である左腕の動力部だ。だが、いくら何でも自分の心臓をそに晒すなど...。


 この男は、それをすらやる男だ。


 それは、俺の左腕を潰すためだけに己を殺させる計画。たとえコピーとは判っていても、かつて友であった男が、自分の命を狙ってくることを待ち受ける戦略...。

 大野はだからこそ、目の前にいる男に心底から恐怖する。この男の執念に、この男の哀しさに...。

 成木は無言で頷いた。静かな微笑みさえ湛えて。

「万丈。お前には感謝せねばなるまい。お前は寸分の狂いもなく私の心臓を狙ってくれたのだからね。」

「伊...左輪...」導者の身体と共に、万丈の命も尽きようとしている。

「さて...。」いつの間にか成木は、水槽運搬に使うのであろう小型リフトの運転席に着いていた。「そろそろ終わりにしましょうか。」

 残念ながら導者の男はもう駄目だ。大野は無関係の男を助けられなかった事を悔いるが、なればこそせめて...。

「万丈! 俺に憑け。」大野は万丈に叫ぶ。「その身体にいては死ぬぞ。俺に転移しろ。」

「無駄だよ。」成木はリフトを起動させた。「人工転移法では、元々その本体は一定の条件下でなければ転移できない。その男がゼロになったことで、己で転移できる資質は持ったのだろう。だが、操乱に転移できたのはあくまで、死に物狂いで行った偶然の産物だ。今の奴は、先天的な転移能力を持つ者の助け無くして転移はできないのだよ。」

「な、ならばっ。」大野は叫ぶ。「こいつをお前に憑かせてやれ、復讐はもう充分だろう。」

「はは、冗談だろう。」成木はリフトを容赦なく加速させていく。

「心臓を貫かれた時の私の痛みが、もはやなくせないその男との壁なのだよ。」

「!」自分が死にかけているにも拘わらず、大野はその一瞬言葉を失った。

 ガン! 衝撃と共に、円柱水槽が、串ざしたままの大野と万丈をつれて動き出す。彼らの目の前には同タイプの水槽が待ち受けている。

「おおおおおお!!」迫り来る死の恐怖に声を上げる万丈。

「お前に友として諭されたことが一つあるとすれば...」成木はロンド・バリ会場控え室での万丈の言葉を反芻していたか。「私は気落ちなどしてはいけないのだよ。私の手にした力に、命を懸けて挑んでくる者たちに相応しく闘うためにね。」

 そして、また一人、この話の舞台から消える...。

 私が集団転移にこだわる理由の一つ...。成木は何かに浸るように目を閉じる。それは、自分がかつて情熱を注いだ日々を思い出させる。自分の身体がまだ存在していた頃に感じた思いを呼び起こしてくれる。

 常盤...。お前との研究の日々は、そういうものだったのだよ...。

 そして成木は、カッと目を開いた。

「さらばだ! 虚しき男よ!!」

 言葉を受けて、万丈は憎悪に顔を歪めた。

「伊左輪ー!」

断末魔の叫びと共に、万丈はまともに両水槽に挟まれ、圧し潰された。


「ぐぐぐぐぐ!」噴出する血流を浴びながらも、大野の方はまだ生きている。彼が挟まれたのは左腕だけなのだ。だが、成木はまだ速度を緩めない。水槽二つごと大野を外に押し出す気だ。

 こ、こうなったら...。大野は心中意を決して前方を見る。案の定、施工中で散在した作業用ロープは、進行方向彼の手の届くところにもある。

 大野は素早くそういったロープの一本を吟味すると、心中叫んだ。あれだ! そして彼は思いきり身を乗り出して、近づくロープに手を伸ばした。もう少し...。

 ガン! だが、あと一息の所でロープは弾かれて後方へ飛び去る。銃から硝煙を吐かせて成木は叫ぶ。「進路を変えるつもりだろうがそうはさせない。」

 万事休すか...。大野の頭に絶望が閃いたとき、彼の視線の端を過ぎる影があった。

「これがいるのね!」原尾が横っ飛びしてロープを掴む。

 すかさず成木の二斉射が原尾を襲う。が、射撃手と標的のどちらも動いていては、いかな成木でも当てるのは至難だ。そしてギリギリ跳弾をかいくぐって、原尾はロープを投げる。

 大野はすかさず受け取った! だが、彼はそれでどうするつもりか。

 こうするのさ!

大野は右腕にしっかりとロープを絡ませた。一方が壁に固定されていたロープはすぐに張り詰めて...。

「ああああああああああ!!!」

大野が絶叫した。そして...。

 ズルッ! 鈍い音がして、大野と、彼の左腕が引きちぎられた。


 張り切ったロープは引き金を引かれたように大野を飛ばす。左腕を引き抜いた激痛で死にそうになりながらも、彼は飛んだ先に原尾を認めて飛びかかる。

「伏せろ!」

 大野の捨て身の行動に一瞬呆然とした成木だったが、後方に飛びすぎる大野の目を見切らぬ彼ではない。

「しまった!」そしてその真意を瞬時に読み取って、成木はリフトから飛び降りた。

 水槽と、乗り手を失ったリフトは勢いを全く落とさず、そのまま窓をぶち破って空中に舞い、そして...。

 爆発した!

 大野の左腕の中の核磁気共鳴電池が、彼の心臓という制御装置を失って暴走したのだ。爆発は水槽とリフトを空中で木っ端微塵に砕き、爆風が建物内にまで襲いかかった。

 原尾を庇って伏せていた大野に比べ、爆風をまともに受けたのは成木の方だった。

「おおおおおお!!!」

 一瞬の判断の遅れが、成木を空中に吹き飛ばし、水族館の本館に向かう鉄扉に、扉を開け放つばかりの勢いでもって叩きつけられた。


 やがて爆風が去って、数瞬の後...。

「がああぁぁああぁあああああ!!!」原尾の上から転がり落ちるや、のたうち回って叫ぶは大野! 核磁気共鳴電池を制御するために心臓から直接引いていたバイパスが丸ごと引き抜かれたのだ、その激痛の甚だしさは想像もつかない。

「だ、大丈夫...。」あまりの絶叫に、思わず原尾は大野を抱えたものの、それ以上どうしていいか分からない。

 大野の肩から血が吹き出る。それは原尾の心配をいや増してゆく。

 だが。

「余裕だろ...」大野が絶叫の合間に何とか言葉を絞り出す。「手ぇ抜いて戦ってるんだよ...。」

 その言葉の意味が原尾に浸透するのにたっぷり五秒もかかった。そして...。

「あ...」原尾は力が抜けた。「あ...あは...あははははは。」

 強がってるだけなのは判っているのだが、原尾は少しくらい、この男の無事なことを喜んでもいいと思ったのだ。「あははははは。」


「成木は...。」少し我に返った大野が言葉を絞り出した。

「隣の水族館の方に飛ばされたわ。」

「な。」大野は目を剥いた。「こうしちゃ、ぐあっ!!」

「動かないで!」原尾が制する。「血を止めるまで待ってちょうだい。」

「今逃がすわけにはいかない。」

「駄目よ!」大野に被さるようにして原尾が彼の動きを止めた。

 本当は、大野が一刻も早く休ませなければ危ないほどの状態であることは、原尾には痛いほど判っていた。だが今、あの底知れぬ男に対抗できるのはこの人しかいないのだ...。

「一分だけ休んで。お願い。」

原尾はそう言うと、いっそう大野を抱く腕の力を強めた。そして、大野は力を抜いた...。

 大野が観念したと見るや、原尾は自らのシャツを引き裂くと、大野の左肩に応急的に巻きはじめる。

 一分...。そう。私はあの男が引き止められるであろう事を知ってこの時間を大野さんに押しつけているのだ。原尾は自らの非力と非情さに自己嫌悪に陥って、思わず涙を浮かべる。

 私は卑劣だ...。

 そして隣の部屋では、原尾の指摘通り、二人が死闘を始めようとしている。


 私としたことが、何てざまだ。成木はごちた。大野が仕掛けた捨て身の攻撃でせっかく転移した身体がボロボロになってしまった。

 我も必死なら彼も必死ということか、やはり奴は侮れん。

 ぐっ。痛みを堪えて成木は立ち上がった。大野と対峙しようにも、今のままでは不利すぎる。

 逃げねば...。成木は周囲を見回した。爆風に飛ばされて、今彼はサンシャイン第二タワービル水族館名物の大水槽の展示ホールの中に来ていた。そこでは二階空間ブチ抜きの超大型円筒型水槽が、円形のホール内を

淡く神秘的な暗闇に照らしている。

 成木の前には、水槽を大きく取り囲むようなホールの中心を成す空間がある。ここに訪れる者はだれもそこに立ちつくして、見上げる水槽の圧倒的な巨大さに胸躍らせるのだ。

 しかし、東京中を混乱させているテロ事件などの影響で、いつもなら遅くまで開けている館も、今日は早々に閉められている。人気のなくなったそこには、代わりに人の倍はありそうな魚影が行き過ぎていく。

 成木も、そんな影を目で追ってゆく。そして...。

「!」影の先に、彼はふと人影を認めた。

 ホールの入り口にあたる薄暗いドアの手前に、少し大きめのアタッシュケースを手に提げて立ったまま、じっとこちらを見つめている者がいる。

 何者だ? 成木はその者を判じかねていたが、いずれにせよ自分にとって味方であることは考えにくいので、警戒を怠ることはない。

 膠着? いや、そうはならない。何故なら、彼方の者が語りかけたから。

「待っていたぞ。ゼロ・ヒューマン!」

 なんだと! 成木は心中叫んだ。私のことを知っているあの男、硬い個性のある英語で話すあの男...、間違えようがない。

「クール...。」彼の口から声が思わず漏れる。それは成木にしては珍しく、自らの不運を愚痴る気持ちすら篭っている。ここであの男とは...。

「何故私だと判った!」

「あれだけの爆発から、生きて出てきたのはハンターの兄ちゃんじゃない。となると、推して知るべしだ。」

クールはそう言うと、懐から愛用の大型拳銃を取り出して、成木に狙いを付けた。

 ハンターがいつ立ち直ってくるやも知れぬと言うのに...。

 くっ。成木はもう一度ごちた。ここであの男とは...。


 クールの戦線復帰! 惨劇はどう展開するのか。

「自衛隊を動かしたのはあなたですね、クール。」隙を窺いつつ問う成木。言葉に丁寧な響きを戻したのは、努めて余裕を見せようというのだろうが、滲み出る焦燥感は隠せない。

「ほう。」

「私の計算とは、彼らが会場に辿り着くのが30分は早かった。そして、通報者である対特のお嬢さんをも最初に抹殺するという、曲解した情報が流れていた。」全てを抹消するにしても、普通通報者を消すのは調査の後だろう。「優れた謀略の力を感じるには十分だ。」

「光栄だな。その通り、情報戦も我々の得意とする所でね。お前の集団転移とやらの力を測ろうとしたんだよ。」クールは、屋上に残してきた惨状を思い出していた。

「だが、やはり他人ではあてにならんな。その力の片鱗すら垣間みる事は出来なかったのだから。」

 だがつまり、それ程大きな力と言うことだ。ならばクールの取る道はひとつ。

「お前の得た力、いただく。」

そう言って彼は、左手のアタッシュケースを持ったまま、懐から右手で例の大型銃の狙いをつけた。

 両者が再び相見える。


 ジャッカーにとって距離を置いた闘いは不利だ。ましてや相手は射撃の名手クール。成木の現状分析は、絶対不利を弾き出す。

 ここにおいて勝算があるとすれば...。短い決意が成木を駆り立てる。とにかく近づくのみ!

 ダッ! 傷を圧して成木が駆ける。少しでも狙いを付け難いようにジグザグに突進して。

「甘いな。」

クールの腕と、彼の持つ銃の威力にあっては、そんな子供だましの方法が通じるはずもない。落ち着いて放たれたクールの銃弾は、そんな成木の右太股の肉を掠っただけでそぎ取った。

 ザザザ! もんどりうって倒れる成木。くっ。知ってやがる。成木は舌打ちする。ジャッカーが操る依童は急所をヒットしても即死させることが出来ないため、動きの制止に確実を帰すには駆動部分をしとめるのが一番なのだ。何れにせよ、プリンスホテルの一件は、クールという戦闘の天才に、ジャッカーについての多くの情報を与えすぎたということだ。

 だが、ジャッカーの攻撃範囲としては遠すぎるが、私にとっては充分なのだよ。あなたの表情を窺うだけならばね。

 成木はカッと睨めつけた。彼の視線の先には、成木の眉間に銃の狙いをつけるクールの目が。そして成木の眼光は真っ直ぐにクールの元へ。

 成木の目論見は当たった。これこそ最土宅においてクールの動きすら止めた催眠術だ!


 クールの動きが止まった。成木に銃口を向けてはいるが、そのままの姿勢を保ったまま微動だにしない。

「ふう。危なかったですよ。骨を撃たれていたらいくら私でも歩けないところですからね。」成木がそう言ってゆっくり立ち上がっても、クールの銃口は下を向いたままだ。「お礼をしてさしあげたいが、とはいえ時間がないのも事実でしてね。あなたには、ハンターの相手をしてもらいましょうか。」

「あいつは...」クールが問う。「あいつも生きているのか。」

「ええ。深手を負ってはいますがね。もう暫くしたら来るでしょう。」

「そうか...。」

「頼みましたよ。」

そう言って成木が動こうとしたときだ。クールの銃口がスッと動くや、成木の反対側の腿肉を銃弾で抉った。

「ぐっ...なっ!」

 肩膝を付く成木を、クールが見下ろす。

「俺に同じ手が通用すると思うなよ。」

 効いていない! 成木は驚愕する。「ば...かな...。」

「今回の作戦は些か犠牲が大きすぎた。」クールは僅かの感傷を表出させて語る。「その決着をつけに来た俺に対して、やわな催眠術など効くものかよ。」

 クールが目の前にしているのは、彼の隊を全滅させたジャッカーなのだ。クールの、隊を率いるものとしての自覚と責任は、表向き作戦遂行一本の冷徹な彼の、熱く滾る内実を突き動かすのだろう。その決意の大きさは、成木の眼光を跳ね返すほどの気力を充分に持っているという事だ。

 甘かったか...。成木にクールの言葉が染みた。ここにも必死の男がいるのだった...。

「ハンターが生きているのは幸運だ。俺は奴も倒しに来たのだから。」クールが微笑む。「だからその前にお前を倒す。」

 バン! そして扉を開け放つ音。大野だ!! 肩口を隠すようにして、腕の裂かれたジャケットを羽織っている。戦いの準備はできたのだ。


 成木の焦燥。

 クールに催眠術は効かない。なおも彼との距離は5m。そして今、彼の背後で扉を開けた二人の気配...。

「ほう。」クールの視線と表情は、それが誰なのかを裏付ける。

 窮した成木...次の手は?

「ふふふ。」

意外にも、成木は笑んだ。この状況に於いて尚...。

「参りましたよ。まったく...。まさか私がここまで追い詰められるとは、正直言って思ってもみませんでしたよ。」成木は、自分を挟む両者を讃える。「この私程の人間が、手も足も出せなくなってしまったんですからね。」

 そう言うと、成木はその場にしゃがみ込んでしまった。

 観念した? いいや、成木を知る敵二人は、微塵もそんなことを期待してはいない。寧ろ、そんな彼の行動を目にして、大野もクールも心中の叫びは同時だ。

 こいつ。何かやる気だ。

 そしてその直感は外れていない。何故なら、成木のしゃがんだ身体が、震えだしたのだから。

「けれど、動物の私はまだ闘えるのですよ。」

微笑む成木の目が光った。


「え...筋肉が...。」大野を支えた原尾が呟いた。

 彼女の見ている前で、成木の憑いた操乱の身体が、みるみるうちに変化しだしたのだ。どちらかと言えば華奢な肉付きの操乱だが、その彼の筋肉が外からも判るほどに明確になってきているのだ。

 そのさまは隆々という表現より、張りが出てきたと言った方が正しいだろう。それはまるでしゃがみこんだ今の姿勢が寧ろ自然なんじゃないかと思わせる如くに、全体のフォルムを変えていく。

「これをやると...。」身体の変化に堪えながら、成木は苦笑して言う。「スマートな戦いが出来ないのが難ですがね...。」

「獣憑き...。」額の汗を拭って大野が呟いた。「成木め、最土家の黒猫の精神を取り込んでいたんだ...。」

 クールも察していた。しかしクールが不敵なのは、彼がそれを察したからこそ、成木の変身中に攻撃を加えないことだろう。彼は敵が強くなることを望むのだ。

 切り札を出す成木と、それに動じない彼ら...。原尾は、戦いのまだ終わりえぬ事を思い知らされる。


「行きますよ! 皆さん!!」

叫びざま、成木は疾駆した。身構える三人。

 タンッ! 軽い靴の軋み音と共に、成木は反転した。大野を狙うつもりだ!

 四つ足で駆けているのに恐ろしく敏捷だ。大野との距離は瞬く間に詰まり...。

 速い!! 大野は思った。元が猫だから、あの時よりも攻撃力は低いだろうが、機敏な動きは俄然増してやがる!

 いかん。大野は原尾を軽く突き飛ばして避けさせる。自分も攻撃態勢を取るが、成木の動きはあまりにも速かった。

 スッと白刃が煌めく。成木が隠し持っていた鉾の折れ刃で攻撃を仕掛けたのだ。咄嗟に避けた大野の胸に、5mmの深さで傷跡を付ける。

「大野さん!」原尾が合気道よろしく技を繰り出すが、成木の動きを捉えることは出来ない。

 痛っ! 大野は血飛沫をあげてそのまま体勢を崩す。そこへ、きびすを返した成木の二刃が容赦なく迫る。

 舐めるな!! 大野は右腕で攻撃を受け流すと、そのまま一本背負いをかけて成木を投げた。だが、三半規管も異常に発達した成木は空中で体制を立て直し、飛ばされた先に待ちかまえた大水槽のガラスを蹴った。

 飛んだ方向にいるのは...。クール! 成木の次の標的は彼だ。


 クールとてただぼんやりしていたわけではない。彼は今の成木の動きで敵の攻撃力を大まかには見切っていたのだ。

 あの程度の攻撃では俺の身体はすぐに再生する。俺が奴なら狙うのは、俺の頚だ。近づいたらあの刃で一撃必殺。これしかない。

 案に相して、迫り来る成木の視線はクールの顔よりやや下に向けられている。

 させるか! クールの二斉射はしかし、空しく床に大穴を穿つのみ。

 避けて横っ飛びしながら成木、刃を持つその手に力を込める。密かに滲む血。

 チャンスは一度...。成木の朧気な理性が閃く。

 成木は反動を付けて突進した。だが、自らの正面に来た敵をクールが見逃す筈もない。彼の銃の照準はその中心に成木の眉間を据える。

 この瞬間、成木は腕を真横に振り被った。彼の腕から大量の血がクールに飛ぶ。

 !! 鮮血にクールは幻惑され、銃を持った腕で思わず防いでしまう。

 そこへ全速で成木が近づき、返し手を効かせて刃を加速する。

 振り下ろした? 大野は成木の攻撃に訝る。成木の刃は上段から振り下ろされたのだ。あれでは頚を狙うことはできないが?

 そう。成木はまるで大野の想いに答えるように呟く。私の狙いはクールじゃない。

 グサッ。成木は刃をクールの腕に深々と突き刺した。そして、彼はかけ声と共に思いきり跳んだ。

 彼の脚の筋肉の張りから、そして刃に力を込めたために切り落ちた彼の手の指から、跳躍するその勢いがどれほどのものかは充分察せられる。

「しまった!」原尾の助けを借りて大野が飛び出す。

 くそっ。あいつの狙いは始めから俺達との戦いじゃない。

 集団転移は私の手にある。となれば、ここから逃げきればそれだけで私の勝ちなのだ。成木はクールを軽々と飛び越えながら勝ち誇った。力の差が大きい今、お前達とわざわざ命を張るメリットはないからね。

 クールの腕を狙ったのは銃を警戒したからだ。奴は着地してから一気に出口へ加速するつもりだ。大野は成木の目論見をようやく読み取ったが、悔しがってももう遅い。成木との距離がある彼に、それを止める術はない。


 しかしこの時、動いたのはクール!

 成木がクールの真上を通過しようとしたときだ。クールはそれまで何故か、ずっと手放すことのなかったアタッシュケースを放り投げたのだ。

 な、なんだ? 成木は困惑した。苦し紛れの一矢か?

 だが、そうではなかった...。この最後の戦いに臨むにあたり、敢えて携えてきたそれの意味は、まったくそうではなかったのだ。

 厚さが普通よりも一回り大きめのトランクは、クールの手によって軽々と宙に舞い、その口を開いた。

 そうして周囲に初めて明らかになるその中のもの。

 それは、あぁ、それは...。それを見たときの成木の驚き...。飛び出さんばかりに開いた彼の目の中にみるみるうちに涌いてゆく悲しみと苦しみ...。

 成木と対極にあるのがクール。彼の表情は、成木の見せたその表情を受けたからこそ喜悦の淵にある。

「なっ!」原尾は、その光景を見た瞬間に、呼吸すら忘れて動けなくなった。そして、彼女の頬を止めどない涙が伝った。

 そうか...。大野もその場に凍り付いた。奴がこの場所をつきとめたのは、彼女がいたからだったのか...。

 薄闇に閉ざされた空間を舞うそれは、その場に居合わせた全ての者の心を、かくも激しく揺さぶった。


「黄...泉...。」

 首が...、ソーニャの首が彼に微笑みかけていたのだ。


 獣に支配されていた成木の大脳が、急速に人のそれに戻ってゆく。そして、アタッシュケースから飛び出した彼女を、愛おしげに両の腕の中に納めた...。

 そしてその時、ジャッカーである成木だからこそ判ったのだ。ソーニャ・河合がこの瞬間を、成木と再び会うことだけを願って、今まで命の火を燃やしていたことを、そしてその火が、彼女の満面に讃えた幸福の笑みと共に消えていくことを...。

「ソーニャ...。」


 ガンガンガン!! クールが空いた左腕で銃を三斉射した。腹部と両足を貫かれ、成木は降下しかけたその身体をもう一度上昇させた。


 ダンッ! 轟音と共に成木が落ち、鈍く床で跳ねた。受け身を取ることもなく、ただ河合の首だけはしっかりと抱えて...。


 ソーニャは死んだ。


 成木はソーニャの首を抱えて横たわったまま、空を見つめていた。血流の停止した彼の視覚には天井の淡いライトすら見えまい。

 彼は持てる全神経を、ソーニャの首を持つ指先に集中していた。だが、成木はその指先に、最早彼女の心を宿らせることは出来なかった。だから指先からはソーニャの死の実感が、なおさら彼の心に染みていった。

 成木に近づくクール。

「女のことで悲嘆にくれることはないぞ。お前もすぐに女と同じ格好になるのだから。」冷酷に微笑むクール。「死ぬことは許さないけどな。」

 不死を宣告された瀕死の成木は、全身から出る血で床を満たしていった。


 原尾は、眼前でまだ立ったままの大野が、小さく震えていることに気付いた。

 河合の死をその心に通過させて、彼の拳を硬く握らせたのは、胸の中から湧き出す悲しみか、心より迸る怒りか...。

 何れにせよそれは、大野を再び突き動かし、始めはゆっくりと、そしてすぐに爆発的な勢いに彼を加速した。


 一人...。クールは成木を見下ろして呟き、そして近づく者の気配を察して付け足した。もう一人。


「おおおおおお!!」叫ぶ大野。振り被って右腕一本で攻撃する。

 六発を数えていたか? クールは手にした銃の弾を使いきった事を知っていたが、それでも慌てることはない。今の大野の攻撃など、素手で充分だ。

 そして、大味な大野のそれが当たるはずもない。そればかりか、軽く受け流した姿勢から繰り出すクールの一撃が彼を吹き飛ばす。

「大野さん!」原尾が駆け寄る。「無茶だわ! やめて!!」

 だが、制止を無視して再び突進する大野。「おおおおお!」

 こみ上げてくるものが彼を駆り立てる。だが、運命は非情だ。義手を失った今のお前に何が出来るというのか。

 馬鹿め。この俺に闇雲な攻撃が通用するかよ。クールは突っ込んでくる大野を再び返り討ちにした。大野は反対方向に吹き飛ばされ、そのまままともに頭から落下した。短い痙攣の後、大野の動きが止まった。


 蟷螂の斧としか見えぬ大野の攻撃の最中、薄れゆく意識の中で成木は何を考えているのか。胸に抱いた河合の首を持つ右腕と、無くなった腹部を惜しむように探る左腕...。無意識にしているのだろうか、あろうことかその腕の動きは、傷口をなおも開き、吹き出す血を加速させ、己の死期を早めている...。


 三角形の頂点に、為す術無い原尾と倒れ伏した大野、そして背後に瀕死の成木...。三人に囲まれて、中心に立つクール。シンメトリックな四人の上を、青い魚群が、その影をなぞってゆく。

 その淡い影の中に、直線的ではない動きをするものがあった。それは影と見紛うほどに昏かったが、確かな息吹をもって四人の頭上の空間を舞う生き物であった。

 それは階下の血臭の漂う中で、成木の出したそれを嗅ぎわけて来たもの。

 蝙蝠。

 彼は木の葉のように、だが正確に倒れ伏した成木に向かって落ちていく。プリンスホテルでの死闘で、クールにとどめを刺されたかに見えた成木が使った最後の手段。彼は再び己の手に掛けた生贄の血を使って、彼の使い魔を呼び寄せようとしていたのだ。

 しかし、しかしそれは、果たし得なかった。成木最後の切り札は、素早く弾を入れ替えたクールの銃の照準内にあったのである。

 クールは全弾撃った。羽根に四発、頭に一発、最後に身体を貫かれて、一溜まりもなく蝙蝠は空中に散った...。

「......。」言葉もなくそれを見つめる成木...。


 クールは再びマガジンを入れ替えて、生気を失った成木に照準を合わせた。

「覚悟しな。」呟くクール。

 ジャッカーの成木は持てる手を全て出し、それらを全て俺は粉砕した。そう、今まさに、正に。

 俺の勝ちだ! 引き金をちょっと引きさえすれば、勝利は俺の元に転がり込む。

 ......。

 だが、不可解にも、彼の動きはそこで止まった。紅潮していた顔が、ふっと冷めた。

 頂点に立つクールは、自らを囲む人間達を見回した...。

 そこには間違いなく、己の最大のライバルだった大野と成木がぐったりとしている。だがクールは、二人のそんなさまをもう一度彼自身の目で確かめても、なおも立ち尽くたままだ。

 勝利を前にして、クールは何を見ているのか。何を感じているのか。


 クールの当惑。

 俺は何故ここに来たのだ。彼の自分への問いかけは、一見即答される。当然、成木の首をいただくためだ。首だけになった奴から、人工転移と集団転移の秘密を聞き出すのだ。

 だが、クールの戸惑いは、そう信じていた目的のものを前にして、些かの昂揚感もないことにある。

 確かに、クールはそれを追っていた。それはクールの願いを叶える為に必要なもの、これ以上の悪夢を見ないようにするための、唯一の方法...。

 そしてそれは、死にかけているこの男の首を持ち帰るだけで叶えられると言うのに...。

 それを手に入れれば、俺は戦いを止められるだろう。そして、俺がもう一度やり直すためには、それを手に入れるしかない。

 だが、彼の求めた先にある安寧に対して、何故か今の彼には漠然とした不安がつきまとっていた。それが彼をして疑念を生じさせ、揺るぎなかった自信をも喪失させてゆく...。

 クールは気付いていたのだ。この一連の戦いの日々に於いて、自分を熱くさせたものが、自分をここに立たしめているものが、何であったかを。

 クールはもう一度二人を見た。

 ここに倒れている二人、俺は奴等にそれを見いだしたのか。だからこそ、俺は仲間を失ってまでも、ここにいるのか。俺は奴等の中にそれを見つけたために、ここに立っているのか。

 それは彼の本性だったのか、生死を賭けた戦いをすることに充実感を見いだすことが。

 だから俺は、こいつらとの戦いを終わらせることを躊躇っているのか。

 矛盾であることは分かっている。儚いことは分かりきっている。

 クールの苦悩は、再び開かれるであろう未来に向かう道を前にして、それでも修羅を捨てきれぬ己の業にある。

「何故...。」クールは振り返って、強面で見つめる原尾に問いかける。「俺は何故この二人に破れたのだ。」

 クールの敵の中で、唯一立ったままの原尾、三人の死闘を、ただ一人間近に、そして冷静に見られた原尾。彼女なら、あるいはその答えが解るかもしれない。

「気付かないの?」そんな彼の心が見えたのか、悲しげだが、はっきりと彼女は答えた。

「だからあなたは負けたのよ。」


「!」クールは振り被った。原尾の、微かに揺らいだ視線の先に大野を見取ったからだ。

 自分と大野の間に、微かに光る一条の線...。クールの脚から発しているそれは、大野の手にした小さな物体まで続いている。

 気付かなかったのは、大野が飛ばされた先が、クールによって影になっていたから...。

 俺に仕掛けてきたのはこのためか!

 大野は手にしたスタンガンのスイッチを入れた。


 バンッ! 轟音と共にクールから白光が爆発した。

「がぁぁあぁっ!」

 凄まじい高電圧と大電流に、導線となったワイヤは瞬時に蒸発し、クールも脚の筋肉に起きた電気的硬直で後方に弾き飛んだ。

 クールはそのまま床を転がり、成木を中心に置いた血の海の中で飛沫を上げてまた滑った。


 どう...だ...。大野はやっとの事で顔を上げる。最土家前での戦闘ん時と比べりゃ五倍の出力だ。いくらクールといえど、少なくとも気絶くらいはするだろう。そして大野は事実、視線の先にクールが倒れているさまを見る。

 や、やったぜ、へへ...へ。大野は原尾に親指を立てて見せた。腹部の激痛は肋骨が折れたのだろうが、それだけのかいはあった...。

 だが...、だが...。勝利を確認できる筈の、原尾の表情に笑顔はない、それどころか、その顔は目の当たりにしたあまりの恐怖に歪んでいたのである。


 彼女の視線の先にあるものを見れば、大野も納得せざるを得なかった。彼自身もそこに目を向けたとき、そこにゆっくりと立ち上がるクールを見たのだから。

 あぁ...しかも...、その顔には、昏く殺意に満ちた眼差しを湛えているではないか。


 クライマックスは、かくして最悪の敵を大野の前に提供した。


 クールの身体を手に入れた成木。

「ははははは。力強い。素晴らしい力だよハンター君。」

 大野はその光景が信じられない。

「な...、なんで転移できたんだ...。」

 成木は、ゆっくりと立ち上がって、大野を見据えた。その自信は歴然となった力の差故か。

「君は知らなかったようだね。私は、血を媒介とした転移も出来るのだよ。」

「な...なんですって!」立ち尽くしていた原尾が仰天した。「特設拘置所で成木が逃げたとき、独房の中の死体には、人が近づいた形跡がなかったってことだったけど、その謎はそういう事だったのね。」

 遠隔転移...。原尾の言葉に大野が思い出した言葉だ。

 き、聞いたことはあったが、まさかこの目で見ようとは...。

 大野は目の前の敵の底知れぬ大きさに、震え上がるのを止められなかった。

 あ、あいつは...一体どこまで恐ろしい奴だ...。

 成木と大野の対峙はしかし、一瞬だけ延ばされた。操乱の身体から呻きが洩れたからだ。それは言うまでもなく、成木が立ち上がる時に操乱の身体に触れた際に転移させた、クールが洩らした声だ。


 クールが再び目を開いたとき、彼はそこに自分を見つめる己の身体を見た。

「な、何だと。」

「お早うエックハルト君。寝覚めはいかがかな。」(読者は忘れてるだろうけど、エックハルトってクールの名字ね。)

 自分の身体の語った言葉が、成木の発したものだということに気付いたクールの表情が激変してゆく。

 彼は絶叫した。

「おおおおおおお!!」

 な、何という事だ。まさかこの俺がジャッキングされようとは。クールが信じられないのも無理はない。大野と成木をあそこまで追い詰めた彼が、一瞬の、ほんの一瞬の躊躇いのために、これほど一気に立場を逆転させるこ

とになろうとは。

 まるでその思いを読んだように、成木が言った。

「我々にとどめを刺さなかったこと、それがあなたの失敗ですよ。」

 こ、こんなことで...。  俺が負けるのか...?

「おおおおお!!」

 クールは叫んで起きあがろうとするが、憑いた操乱の身体の出血がひどくて、首すら満足に動かすことが出来ない。

「くっくっく。ハンター君。彼が何故人工転移を欲したか分かるかね。」成木はクールに首を促して大野に言った。「彼は強くなりたかったのではない。まして人を支配したかったのではない。彼はささやかにもたった一つの願いを叶えるために、我々と死力を尽くして戦っていたのだよ。」

 だが、次にクールに振り返ってから彼に語った言葉は意外にも、どこか静かな響きが湛えられていた。

「だが、あなたの願いは叶えられたんじゃないかね。」

 その言葉を聞いて、クールは刮目した。


 クールは薄れゆく意識の中で、朧気な思考を走らせていた。

 そうだ...。俺の願いは叶えられた...。

 己でなくなりたい。俺は湾岸戦争の時の運命のあの日から、ずっとその事ばかりを考えていた。

 それからも数えきれない人間を殺してきた俺だが、殺した者が己の死にゆく恐怖に怯える断末魔の瞬間にはいつも、ダードの攻略戦の時に死んでいた子供の、見開かれた目を二重写しに見ていたのだ。半死半生になっても死ねなかったあの日から、俺の生にはいつもあの深い漆黒の眼差しが離れることはなく、眠りさえも俺を安らかにはしなかった。

 負った贖罪と慚愧の深さ。

 消え入るような声だがしかし、クールはいつしか己の心を語っていた。

「瞼に焼き付いた少年の目を消すには、己が他人になる以外にない。

 人工転移にやっきになったわけは、それだけだった...。

「だが違った。こうして他人になることが出来ても、やはりあの目は消えはしない。精神に焼き付いてしまった眼差しは、二度と消えることはなかったのだ。」


 後戻りが出来なかった男を、大野と成木はしばし諍いをやめてまで見つめる。それが一瞬先の己の姿かも知れないから。


「それに、お前達との戦いが、俺にはっきりと悟らせたよ。心は後悔を渦巻かせているくせに、自分は戦い続けることでしか自己の存在を見出せないことをな。」

 思えば、俺に従ってくれた隊員達の多くも、各々が持つ心の傷は大同小異だったろう。隊員達全てのそういった過去が、似たものの集まったクール隊を居心地良くしていたようだが、それは自分を終わらせる環境が、常に隣り合わせにあることの束の間の安心でしかなかったのだろう。となれば、彼らと同じ結果になることが、俺にとって最良の選択なのかもしれん。

 後戻りできなかった男の結論。

 死が、俺を唯一安寧へと導くのか...。


「くくっ...。俺が...お前達に勝てなかったわけが分かったよ...。」

 考えてみれば、隙をつかれた躊躇いは、お前達との闘いに終止符を打ちあぐねた為だ。俺が真っ先に倒れるのは当然かもしれないな。

 笑みを浮かべるクール。彼は死に瀕していることの絶望よりも、自分でなくなったことに喜悦を見いだしていたのか。

 奴の、ギルバートの言うとおりだ。お前達には求めるものがある。

 絶対に生きぬくことを諦めないお前達に比べ、生きることへの執念が...、残念ながら俺にはなかった。


 最後の言葉は、明らかに大野と成木に向けたものだった。

「お前達との闘い、悪くなかったぜ。」

「クール...。」大野は、クールの持っていた心の傷がどういうものだったかを知る由もない。だが、それに対する自分なりの責任と決着を常に引きずっていたその生き方は、彼にとって大いに共感せずにはおかないものだったのだ...。

「もう少し早く出会っていれば...。」大野はそれ以上言葉を継げなかった。

 成木もクールの死を前にして、しばしの追悼をおくる。そも、ソーニャは彼に殺されたとはいえそれは宿命。寧ろ、自分に逢うまでの延命を施したのが彼なればこそ、彼女は薄幸の生の最期を微笑みもって閉じることが出来たのだから...。

「ソーニャと共に死ねることを光栄に思いたまえ。」


 大野と成木を絶体絶命に追い詰めた最強の敵、クールは、操乱の身体、そして河合の首と共に、息絶えた。

 拮抗する三人のうちクールが最初に倒れたのは、たまたま他の二人を同時に敵に回したからに過ぎない...。


 大野は傍らにきた原尾の肩を借りて何とか立ち上がった。

 沸き上がる力を持て余しさえしている、クールの身体を手に入れた成木が、大野の方をあらためて見た。そして再び対峙する両者。

「さて、後は君達だけだな。」

 そんな成木のさり気ない言葉だからこそ、大野は刺すような殺気を感じとる。

「まるであんたが生き残るような口振りだな。」

「当然だろう。彼は未来を見失ったから死んだのだ。未来とは希望を見出した者の前にこそ開陳する。明日とは今日よりもよりよく生きたいと願う者だからこそ達し得るのだ。ならば当然...

「明日を見るのは私だ。」

「俺達よりもあんたの方の未来に価値があるってのか?」

 やな理屈だな。大野は思った。だが、それが真かどうかはともかく、技だけでなく力まで手にした成木と、逆に全てを失った大野。彼我の戦力差は歴然としている。

 今度は、成木は逃げない。大野はそれを確信している。今が俺を殺せるチャンスだからだ。


 対峙する大野と成木。

 その一瞬の後、成木が先に仕掛けた。

「今の私にはこんなことも出来る。」成木は銃を使わないつもりだ。彼はダッシュで大野と原尾に近づく。

 速い! 完全にクールの身体をものにしている。大野はクールの最期を看取った成木が、その時間をクールの身体を制御するための時間稼ぎとしても利用していたことを悟った。

 大野はスタンガンを構えたが、そのさまはいかにも遅かった。成木は素早く大野達二人の懐に割って入り込んで、大野の手にした武器を蹴り上げた。その破壊力は、スタンガンを空中に四散させるほど...。

 大野は成木に胸ぐらを掴まれ、片腕一本で宙に上げられた。

「くっ!」

「大野さん。」

 止めようとする原尾に、成木は横薙ぎに手刀を放つ。原尾は合気道の使い手らしくその力を受け流したが、クールの身体から繰り出す拳のパワーは、ベクトルを大きくずらしたその力だけでも、原尾を吹き飛ばす。

 ば、馬鹿な。原尾は大きく宙を舞ってから壁にぶち当たった。

 な、何て力なの...。原尾は壁から張り出た消火栓の上にずり落ちたまま、動かなくなった。

「あんたが俺に肉弾戦を挑むとは、余程の自信があるとみえる。」

「事実、あるからね。」

 成木は大野を床に叩きつけた。そして反動で浮き上がった彼を蹴り上げる。

 そして放物線を描いて落ちてきたところに、再び鉄拳が唸る。

 ぐぅう! きょ...拒絶波を流す暇もありゃしねぇ...。大野は痛みに呻きながらも考える。一瞬でいい。一瞬でも奴を掴めれば...。


 やめて...。脳震盪を起こして朦朧としている原尾にも、大野達の闘いの様子くらいは判断できる。やめて...大野さんが死んでしまう。


 成木はまた蹴った。床に突っ伏している大野はボロ屑のように宙に舞い、床で跳ねる。

 成木はそうして落ちたまま、蹲って動かない大野に近づく。

「さて、そろそろ終わりにしようか。最期は首を落とされたいかね。」そして大野を掴んでもう一度持ち上げる。「それとも、胸を貫かれたいかね。」

「あんたにはどっちもできないさ。ジャッカーはハンターには勝てない。」

「減らず口もそれまでだね。」成木は空いた方の腕を思いきり振り被った。

 死ぬか...。下から迫る成木の腕に、流石の大野も死を予感する。


「!」

一瞬の間...。成木の動きが止まった。

 な、何だ? 成木の心中の叫び。こ、これは一体。

 成木は動かした腕を途中で動かせなくなるほどの激痛が、その身体から沸き上がるのを感じたのだ。

 な...、何だこれは。

 それは感知してすぐ、まるでメータが振り切れるように激烈な痛みとなった。

 うあぁぁああ。な、何という...。そうか、これはクールの...。

 成木はクールの身体が強化細胞であること、その寿命が短いことは読み取っていたが、延命薬を使わなくなった身体が起こす禁断症状については軽視していたのだ。だが、それはクールの身体にとって既に無視できないほど大きなものになっていたのだった。

 こ、これ程までとは...。成木は、身体中を駆け抜ける爆発するような痛みにたまりかねた。そして、クールがどれほどの精神力でこの痛みを圧して自分達と戦ってきたのかを知って脅威すら感じた。

 だが、今は感心しているときではない。つまり、それほどの緊急時だということだ。そして、成木はその事実に恐怖した。

 何故なら、成木は今危険な男を前にしているのだから...。

 大野が、彼の腕を掴んだ。


「がああああああぁあぁあぁあぁああ!!!」

大野がその隙を見逃すはずがない。彼は精神力の全てをこめて拒絶波を放ったのだ。

「がぁぁあああぁぁあ! あぁああぁあ!!」

とてつもない激痛。拒絶波はクールの身体の禁断症状の痛みと相乗効果を起こし、成木に想像もつかぬ程の痛みをもたらした。

 うおおおお!! 己の全てぶっつける大野。

「ハンターをなめんなぁ!!」

 がぁぁっぁぁああ!!! い、いかん。このままでは、精神崩壊が起きてしまう...。これまで二回受けた拒絶波とは比較にならない激痛に、成木は一気に焦燥がピークに達するが、硬直したクールの身体は大野を持ち上げたまま動かない。

 こ、こんなことで...。こんなことで私が消えるなど...。こんなことで、こんなところで...。

「おおおおおおおおおお!!」

成木の執念が奇跡を起こした。拒絶を叫ぶ細胞の全てを己の精神でねじ伏せ、クールの身体の制御をぶん取ったのだ。

「うおおおおおお!!」

「おおおおおおお!!」

大野と成木が同時に叫ぶ。

 だが、成木の執念が勝った。成木が渾身の力で振り回したクールの腕が、大野の身体をボールのように飛ばしたのだ。

 そのまま、大水槽に叩き付けられる大野。


 はぁっ。はぁっ。はぁっ。

 肩で息をしているのは、今や大野も成木も同じだ。だが、辛うじて立っている成木も、大水槽に凭れ懸かっている大野も、眼差しだけは力を失ってはいない。二人の目は、同時に同じことを叫んでいるのだ。

 先に倒れるのは、お前の方だ!


 だがそうは言っても、成木の絶対優位は揺るがない。禁断症状を伴っているとはいえ、まだまだ動ける彼に対して、殆ど立てるかどうかすら分からない大野では。

 クールの身体は確かにもうボロボロだ。しかも私自身、もう一度拒絶波を喰らったら生きていられる保証はない。痛みに身を震わせながら成木は思う。接近戦はもう無理だろう...。

 だが、奴を殺すだけなら、これで十分だ。

 成木は遂に、懐からクール愛用の大型銃を取りだした。


 ガンガンッ。

 成木は雑に二斉射した。弾は大野の両脇、背にした大水槽に食い込む。さしもの大型銃も、厚さ70mmの特殊硬化ガラスは突き破れない。

 ガンッ。ガンッ。

 また二斉射。再び大野の頭の両脇のガラスに穴を穿つ。今度は遥かに大野に近い。

「どうしちまったんだい。」穿たれた弾痕を撫でながら、大野があざける。「下手になっちまったのかい。」

「愛嬌のない御仁だね。怖がらせようと思ったのだが。」

 嘘ばっかり。スタンガンを受けた身体に拒絶波も浴びてるんだ。腕の制御の補正をしてたんだろ。大野は心中ごちたが、そんなことが分かっても気休めにもならない。

 次は当ててくるな...。


「覚悟はよいかね。」成木が腕を上げて真っ直ぐに銃を向けた。

 大野は、それでも正面から成木を見つめている。コンマの可能性すらあれば、彼は諦めないのだ。

 一か八かってとこか。やってみるさ。

 大野はふとため息をついた。成木は、一瞬彼が観念したかのように思った。

「次の一発で決まりだな。それで俺の心臓はブチ抜かれるってわけだ。」

「何かね。命請いなら受け付けるつもりはないが。」

「きついね。いや、そうじゃなくてさ。あんたが狙ってるこの心臓のある位置ね、面白いとこにあるんだよ。」

「何を言ってるのかね。」恐ろしさに気が触れたのか。

「わるいわるい。回りくどかったよね。あんたの撃った四発の弾でもさ、このすんげぇガラスはビクともしないじゃない。だけどさ...。

「俺の心臓の後ろってさ、四発の重心なんだよね。」

 ま、まさか。成木は撃つのを躊躇った。だが。

「そっから動くなよマキちゃん!」

 大野は原尾を一瞥してそう叫ぶや、左に身体を倒しざま右手で思いきりガラスを叩いた。

 大野のハッタリであった。生身の右腕の打撃力ではたとえそこが重心だったとしてもビクともしなかったであろう。だが、ガラスの弾痕に填め込まれたアメ玉内のニトロに伝える衝撃は、それだけでも充分だったのである。

 バン!!

 バリバリバリバリッ! 爆発音が引き金となり、ホールに雷よりも甲高い音が轟く。巨大な水槽の表面に、四発の弾痕から凄まじい勢いで亀裂が走ったのだ。

 蜘蛛の巣の様に走り抜けたそれは、裏側にまで回っていったところで静寂を一瞬取り戻したものの...。


 ドッ!!!

 天井まで目一杯に詰まっていた圧倒的な質量の水が爆発的に弾け、怒涛の如く飛び出した。地上200mの空間に、数mの高さを持った津波が突如沸き起こったのだ。時速百キロの勢いと、進む先のあらゆるものを喰い尽くすどん欲な食欲をもつそれは、己の最初の獲物として、鋼鉄の肉体を持った一人の男に狙いを付けた。

「おおおおおおお!!」

 破砕したガラス片と魚達を伴った凶器満載の濁流は、戦慄する間すら与えず成木に襲いかかった。


 ひー! 大水槽真下の窪みに何とか身を横たえている大野は、頭上を掠める水流を間一髪の所で躱している。

 ホントに割れるとは思ってなかったけど...。大野は苦笑して思う。

 これで終わりだ、成木!


 猛り狂った濁流は百キロの勢いでもって成木をその場から引き剥がした。

 ぐぐぐぐぐぐ! 衝突時の衝撃だけでも、さしものクールの身体も身体中の骨を折られた。しかも水流中のガラスは巨大な凶器となって彼を切り裂き、あるいは打ち据え、突き刺さるのだ。

 こ、こんな事になろうとは...。なんとか...、何とかしなくては! 成木は激流の最中にあって、必死に助かる術を探す。

 だが、揉まれる彼がその行く手を見たとき、自分が絶望感に浸っていくのが判った。そこには、頑として揺るがないであろう、壁がそそり立っているのだ。そこにこの勢いでもって叩き付けられたら、いかなクールの身体も圧

潰は必定!

 成木はその瞬間、クールの背筋に冷たいものが走るのを感じていた。


 ゴッ! 水流が壁に当たった。水流は縦に弾け、まるで怒りにうち震えているかの様に壁を這いあがって天井まで達し、そこで再び四散した。

 ホールの空間全てに、凶器を含んだ水流が降り注いだ。

「ああああああ!」

原尾は消火栓上にいたままで壁に必死で貼り付いて、背中越しに展開されている地獄に耐える。発狂しないようとして必死に悲鳴を上げるのが精一杯だ。

 濁流の逆巻く最中、それは大野も同じだ。いつ死ぬか判らないほど、今この空間には凶器が充ちているのだ!

 これで無事だったら奇跡だ。海抜200mで水死なんて冗談にもならん!

 ゴゴゴゴゴゴ。 運命の潮流は二人を生死の秤に掛けていた...。


 どれほどの時間が経ったろう。

 辺りを覆っていた轟音が漸く消え、水の勢いが治まったことを告げていた。

 原尾は背後に感じていた殺気のやっと消えたことを感じて、恐る恐る強ばっていた身体の緊張を解いた。

 い...生きて...るの?

 そう。原尾は生きていた。しかも、少し壁に入り込んだ所にある消火栓の上にいたことで、致命的な怪我はしていなかったようだった。

 彼女はゆっくりと身体を動かしてみた。痛っ。壁に叩き付けられた時の激痛が身体に走って思わず身を強ばらせる。そういえば肋骨も折れていたんだっけ。

 しかし、そうした痛みも構わず、原尾は無理に身体を転じた。大野と成木がどうなったかを確認するのが先だ。


 ホールは股下辺りの高さまで海水に満たされていた。突然の環境変化をどう思っているのか、様々な海水魚が床を気ままに泳いでいる。そして水族館自慢の円筒型大水槽は、その半身を完全に破壊し尽くすという無惨な姿になり、今や片側にだけ残ったガラスで辛うじて天井と繋がっているという有り様だった。

 かなり向こうに人が浮いている。深く考えたくはないが、操乱の身体だろう。

 だが、それ以外に人影を見つけることは出来ない。

 大野さんは...。原尾は更に注意を凝らして辺りを見回す。

 し...。原尾は禁断の言葉が頭を巡るのを抑えることが出来ない。

 死んでしまったの?


 悲嘆な考えを増幅させる、時間ばかりが過ぎ去った。


 ザッ! 突然、水槽脇の水面が沸き上がったかと思うと、黒い影が立ち上がった。敵? 原尾は咄嗟に緊張するが、そうではなかった。

「ああああああああああ!!」

原尾の耳を聾するばかりの悲鳴。左肩を押さえてその声を叫んでいるのは、大野ではないか!

「大野さん!」原尾は涙声になって叫ぶ。彼は生きていたのだ!!

「か、海水が...。」大野は叫んだ。「傷口に染みて...。あああああ!!」

 稲葉の白兎だ。これは痛いぞ。

「大野さん...。」原尾はしかし、大野が生きていたことが嬉しい。「良く無事で...。」

「無事じゃないってあんた。」大野は泣きながら叫ぶ。だが、その顔には痛みとは裏腹に、悲嘆の表情はない。

 無事じゃない。確かに無事じゃぁないが...。大野は微かに笑みをこぼした。

 ついに...遂に...。

 奴を倒した...。


 その表情を、原尾も見逃してはいない。心が少し落ち着いたことも手伝って、彼女はしっかりした口調で言った。

「やったわね...。」

 大野はひきつった表情のままではあるが、傷口から手を離して原尾に向かって親指を立てて見せた。


 ズン!

 大野の左肩に激痛が走った。左肩は完全に消し飛び、大野もきりもみしながら宙に吹き飛ばされた。

 なっ!!

 原尾は全てを見た。大野から離れること6mの水中から一条の線が飛び、大野を貫くのを。

「大野さん!」原尾は叫んで思わず飛びだそうとするが、彼方の水中から影が浮かび上がったとき、身体が金縛りにあったように動けなくなってしまった。

 な...、成木黄泉!!


 大野は水槽の縁に残ったガラスの上に落ちた。元々が分厚いガラスなので串刺しにこそならなかったが、背中をしこたま打ちつけた衝撃は計り知れない。

 だがそれより、大野はあのクールの大型拳銃に貫かれたのだ。

 ガラスによっかかってやっと上半身を出している彼の左肩は、肩胛骨を含めてまるまる無くなっていた。

 大野には死ぬほどの痛みが走っていたに違いない。しかし、その痛みをすら彼は忘れていたろう。それほどの恐怖が、彼の眼前に聳え立っているのだから。


 成木が生きていた!!


 成木は生きていた。クールの身体は全身ずたずたに引き裂かれており、大小のガラス片が突き刺さった瀕死の様相を呈していた。

 だが、彼は...、成木はそれでも生きていたのだ。それは正に執念としか言いようがない。

 大野さんが危ない! 原尾は恐怖と痛みを堪えて動こうとした。

「止まりたまえ!」成木が制した。

 くっ。もし飛び出しても、大野さんの所に辿り着く前に蜂の巣になってしまう。無駄死にするだけだわ。今の原尾では歯がみしてでも苦汁を舐めるしかない。


「心臓を狙ったつもりだったんですがね...。」

 成木は銃をしっかりと大野に向けて言った。

「私を...。」成木は語った。「私をこれ程までに追い詰めるとは...、まったく君といいクールといい...。

「しかしね、最後に勝ち残るのは私なんですよ。」


 絶体絶命の大野。

 眼前の成木は、7mの距離を空けて、大野に銃を構えている。六連装の銃は後一発、確実に入っている。そして彼は、それを外さないだろう。

 参った。大野は思う。ほんと...、参った。

 大野は動けない。だが、銃によって釘付けにされているよりも、身体中に走る激痛によることよりも、寧ろ彼自身の迷いに依るところが大きかった。

 彼は今、眼前の敵に対する疑問に頭を気圧されてしまっていたのだ、そのためにまるで動けないほどに。

 奴の...、成木の精神力は何処から来るのだ?


 ロンド・バリ会場に於いて、成木は集団転移を失敗した。それは彼の論理から言えば、完全なる成功を導出するはずだったにも関わらず、千の心の拒絶という、正に本質の部分からの瓦解に終わっている、それは彼にとっては悪夢のような結果だったろう。

 なのにどうだ。奴は万丈を倒し、クールを倒し、ハンターの拒絶波さえもはねのけ、地獄のような水にも堪えきった。

 それを成し得たのは執着...。生への執着にほかならない。だが、その執念...、生き抜こうとする執念を、奴は何故持ち続けられる?

 一体奴の精神力の源泉は、何処にあるのか?

 奴をここまで突き動かすものは何なんだ?


 大野は立ち上がった。いや、だから立ち上がったと言うべきか。


 彼が今立ち上がるなど、常識的に考えればもうとても出来るはずがない。だが、その問いかけをするに相応しく姿勢を正すことが、たとえそれが敵に対してであっても行うべき礼儀...。ふと涌き上がったそんな想いが、身体

を破壊するほどの痛みに勝ったからこそ、彼は立ち上がったのだ。

 彼はその問いかけを、そうまでしてまでも発せずにはおかなかったのだ。

「あんたは...。」

 成木が撃つことを思い留まったのは、その言葉が発した大野の真摯さを、無意識に感じたからかもしれない。

「あんたは...。」大野はその問いかけをするのに、もう一度万感を込めなければならなかった。

「何故...そうまでして生きられるのだ。」


 成木をその言葉が止めたのは、必然か...、はたまた奇跡か...。

 その間に、成木は何を思っていたのか...。彼が言葉を返すのは、たっぷり五秒かかった。

「私が...、人の中に入ったとき...」成木は心の深くから言葉を紡ぎ出すように語りだした...。「どんな感じを受けるのか...、どう思っているのか...、ジャッカーでないあなたには判らないだろうね...。」


「ジャッカーは転移したとき、そこに人の全てを見る。その者の心臓が力強く拍動する様を、肺が酸素を歓迎する様を、血管が活発に脈動する様を...。それは、人が生きていること、その人の生命が躍動していることを己が精神で直接垣間みるということであり、その弾けるような生命の謳歌を直接聴き取ることなのだ。」

 成木は恍惚として語る。その心は今、実際にそれを見、また感じているのかもしれない。大野に語りながらも彼は同時に、彼の心に涌いた人の中を泳ぎ回っているのかもしれない。

「人という海原を巡るとき、その者はそこに、溢れるばかりに充ちた生命の息吹を感じるだろう。それは至福の瞬間であり、人に許された悦楽の極限だ。

「それを見られたとき、私はジャッカーであったことが、心から喜ぶべき事だったと初めて思った。その想い自体は、今も変わってはいない。たとい転移可能者が、実社会に於いて現在見られるような闇雲な差別を受けていても尚だ。」

 成木はしかし、そこでその表出させている表情を、僅かばかりに曇らせた。

「だがしかし、私はある日、あることに気付いてしまったのだ。それは他人から見れば些細なことであろう、取るに足らないことであろう。実際それは、深く考えてはならないことだったのかもしれない。

「だが私にはもう、それ以上人の身体に喜悦を感じ続けることが出来なくなってしまった。

「それを考えてしまったから。」


 人は...、人の心は何処にあるのか。


「人を動かすもの、人を生かすもの...。人の身体というある意味分子の集合体である機械的な物質の固まりに、命を吹き込む心は何処にあるのか? 生を満喫している筈の人の体の中に、私はそれが見あたらないことに気付いてしまったのだ。」


「本当の所、それは何処にあると思うね。脳? 違う。心臓? 違う。神経? 違う。その何処にも、それはなかったのだよ。」成木は言葉を巡らせる。彼がその探索を続けていたときの狼狽をそのまま表出して。

「だから私は探した。人の中を、人の身体のあらゆる部分を、細胞の合間を彷徨って探した。それを成り立たせているその人の心を、生きていることの源を。」

 深く、深く...。成木の心の深くから、彼は語り続ける。

「それはしかし、思いがけないところにあった。

「見つけてしまえば簡単だった。それは身体の各部を探して見つかるはずもなかったのだ。心とは体内における”そこ”といえるようなある部分に存在するのではなく、命という存在そのものの中にあったのだから...。

「だが、旅路の果てにそれを見つけたとき、私がどんなことを感じと思うね。

 もろく、儚く、いたいけで...。

それが、私がそれを見出したときに私の中で涌き出してきた想いだ。他人の中で人の心を見つけたときの私の素直な感想だ...。」


 なんと...。なんと小さなものなのだ。なんと微かなものなのだ。


 成木は感じたと言う。人の身体という、数兆の細胞からなる大海原の広大さに比べて、人の心、それがなんと微々たるものかということを。

 千変万化する日常の中で、驚くほど簡単にゆらぎ、ぼやけるそれは、なんと危なっかしく、また不確かなものなのかということを...。

「人とは、いや命とは、かくもちっぽけなものによって動かされているのか。かくも頼りないものに依拠して、我々は生かされているのか。」

 成木は戸惑った。その事実に、そしてその行く末に。

 かくも、その小ささは、成木に対してナーバスな思考しかもたらさないで...。

「そして私は悩んだのだ。一人の心が、一人の中で一人の心を見つけるのでさえこれだけの困難と苦労を伴うのだ。ならば、他人の中を普通に生を生きている者たちが、お互いを心から分かり合えることなど一体可能なのかと。」

 友の心を分からなかった成木であればこそ、それは感じるのか...。


 その時大野は何を思う? 成木の言葉を聞くその表情は、毅然として厳しくはあるが何も読みとれない。


 全体とは、個の延長上にある。

 集団とは、個人の延長上にある。

 故に...、集団転移への固執?


 わだかまった杞憂に、視野を塞がれた成木。彼がそれを、いつ頃からその対処策として考え出したかは定かではない。が、そうして心理的に追い詰められていた彼が、集団転移が彼の苦悩と人類の停滞を払拭する唯一の方法ではないかと考えたとしても不思議はない。

「そうだ。そしてそれは実際、大いなる可能性を持っていた。集団転移とは、その内に人類が向かうべき道を含蓄しているのだ。」

 成木はいつしか叫んでいた。彼の心情の吐露は、皮肉にも転移によってではなく、言葉によってなされていた。

「そう、私はさっき、それを我が心で直に体現した。ロンド・バリに集った千の者たちと共に、私の元に一つに集約された心、全ての者が同じ想いを共有する瞬間...。それはまさしく、人の限界を超えた瞬間だった! 人という種による他の理解という理想の前に立ち塞がった巨大な壁を乗り越えた瞬間だったのだ!」


「あんたの支配が多人数に及んだ歴史的瞬間としか、俺には見えなかったがな。」

大野がとうとう沈黙を破った。怒気を含めて成木の言葉を砕いた彼の言葉は、敵慨する者として当然の反発であろう。

「あんたの見る先は俺には遠すぎる。第一、あんたはその千人にすら拒絶されたじゃねぇか!」


「それがどうしたのだ。心を束ねた先にある未来を見ることが出来るのは転移可能者だけだ。彼らをより良き未来へと導いてやれるのはジャッカーだけなのだ!」

 転移可能者が混迷を極める現在に生まれでたのが奇形ではなく必然ならばどうなのか。ジャッカーが生まれでた目的が、人類の変化の発端だとしたら?

「その天賦の才能を与えられた私は、千の拒絶程度に屈することなどあり得ない! 頑なとけなすならけなすがいい、偏執と罵るなら罵るがいい。

「私だけが、人類の行く末を垣間みたのだ!!」


 成木はだから、集団転移を追究する。だから、彼は明日の生を欲しがる。


「あんたが導こうとしている未来は、あるいは正しいのかもしれない...。」大野は身体を震わせていた。「だが、あんたはここまで来るのに、あまりに多くの人を踏みつけてきた。そしてあんたは、あんたの理想に辿り着くまでに、更に多くの屍を越えて行くだろう。

「それを俺は黙って見過ごすことは出来ない。何故なら...。」

 大野は成木を拒絶した!

「俺はジャッカーハンターだからだ!!」


 自分の心は、所詮言葉では伝えきれないということだな...。

 俯いた成木の表情は一瞬だけ曇った。だが、顔を上げた彼の顔には、凛とした殺気が形作られていた。

 成木が銃を構えた。大野は体の自由が利かない上に、足を捉える海水で動くこともままならない。

「逃げて!!」叫んで、駆け寄ろうとする原尾。

「動くな! マキ!!」

 大野が一喝した。そのあまりに毅然とした声に原尾は圧倒されてその場を動けなくなった。

 大野...死ぬ...黄泉...。大野を見て、原尾の頭にはそんな言葉が閃光のように走る。だがそれにも拘わらず大野はどうだ。怒りに震えるその拳、敵を捉えたままの熱い目。それを見ていると、大野のことが少しは判ってきた筈の原尾には、信じられないことにどうしてもこう思えてしまうのだ。

 彼は、勝つつもりでいる...。


「私の敵になったことを後悔したまえ!!」成木が叫んで引き金を引く...。

「おおおおおおお!!」大野は叫びざま海水に拳を叩き込んだ。

「迸れ!! 我が怒りよ!!!」


 成木はその瞬間、海水中を稲妻のような白光が自分に向けて突き抜けてくるのを確かに見た...。


 大野が叩いた水面の波紋が、ようやく成木に届いたとき、それは起こった。

「ぎゃあああぁあぁぁあああああああああああああ!!!!」

 成木の悲鳴だ。耳を聾するばかりの成木の声が、ホールいっぱいに響きわたった。


「おおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」咆哮する大野。

「があああああああああああああああああ!!!」絶叫する成木。

 な...なんだ...。こ...この痛みは...。こ...これはまさか...。成木は得心した。

 そうか! 殆ど同時に、原尾も得心した。血と同じくらい命に近い媒質...。

 海水中を、拒絶波が走ったのだ!!


 クールの身体に、拒絶波が走る。

「がああああああああああ!!」

 その痛みは今までのものとは比較すら出来ない。強化細胞で構成されたクールの肉体は、その細胞の一つ一つが急に成り代わった主に対して反旗を翻したのだ。出ていけ、出て行け! 己の全てを賭けてそれらは叫ぶ。

「おおおおおおおお!!!」それを助長するかのように、大野は怒りの波をぶっつけ続ける。

 な、なんということだ。この私が...この私が...。成木は激烈な痛みに耐えながら、必死で神経を腕に集中する。引き金を半ばまで引いた指先に集中する...。

 おのれハンター! おのれ大野一色!!

 彼の執念が指先に再び奇跡を起こそうとしたとき、支配に甘んじていたクールの身体が、最後の手段に出た。

 クールの腕が、音を立てて吹き飛んだのだ。

「なっ!」

 私への拒絶が、自己崩壊を起こしただと!!


 勝負あった!

 大野にとどめを刺す遠隔攻撃の切り札は、腕の崩壊と共に失われた。

 拒絶波から逃げようにも、成木の周りは全てが媒質である海水に覆われている。


 いや、まだだ。

 腕から始まった身体の崩壊が、全身に駆けめぐりだしても、それでもなお成木は叫ぶ。

 もう、何処にも逃げることは出来ない。だが、たった一つ。たった一つだけ、私が助かる方法がある...。

 大野を殺すことだ。


 執念と奇跡が、それを起こした。

 拒絶波を掛けられた時点で動かせる筈のない依童の身体が、一歩、また一歩と、歩みだしたのだ!

 私は倒す。あの男を倒す。何故なら...。

 奴を踏み倒した先に私の明日があるからだ。


「とてつもない。」大野は敵に言った。「あんたは本当に凄い奴だよ...。」

 成木は近づく。一歩。また一歩。

「だけどあんたは哀しい奴だ...。友を越え、なみいる敵を倒し、愛してくれる人を置き去りにしても、まだ人を幸福に出来ると思っているのだから。」

 また近づいた。だが、両脚のふくらはぎから下が吹き飛んだ。成木はむき出しになった脚骨でまだ進む。


 神と同じ力を持ちながら、ひとの心が判らなかったんだから...。


「おおおおおお!!」

成木が叫んだ。残る腕を大野の前に振りかざした。

 大野も絶叫した。

「悲しい運命を終わらせてやる。あんたの明日はもうゼロだ!!」


 全てが弾けた。


 大野はその瞬間、確かに感じた...。

 クールの身体と共に、四散してゆくもの。いや、触れられるような実体ではない、目に見えないが、風のように吹き過ぎていくことを感じられるもう一つのものを...。

 こ、これは...。

「ひとが...ひとの心が...。飛び去って行く...。」

 原尾もそれを見た。彼女の下にある海水中を泳ぎ去って行く魚影ではないものを、彼女の脇をかすめてゆくひそかな動きを。それは原尾にとって、殺人を無感情に行う者との印象しかない成木から出ているとは信じられないほど、穏やかな雰囲気を湛えていた。


 大野の脇を万丈が過ぎ去ってゆく。その後について最土がゆき、彼方でその二人は常盤となって消えていった。

 クールも一本腕の好敵手に別れを告げていく。人の返り血で血塗れの身体と命を失った彼は、あの少年の目から解放されたのだろうか。

 操乱もまた飛び去った。考えてみれば、彼は成木以外の数少ない転移可能者だった。そして同じくジャッカーであった彼は、成木の中に何を見たのだろう。名残惜しげに成木の残骸の周りを回っていたが、やがて消えていった。


 そうか。大野は突然現れたその人達が、成木の中にいる人達であると気付いた。彼らは成木の中で形作られた人達。いやだがしかし、外から成木を俯瞰して、彼を形作ってもいた人達だった。


 ロンド・バリ導者、クール隊の男、特設拘置所の所員達、そして痩身の主であった男...。

 千の人、万の心...。成木が関わってきた全ての人が、彼にとっての記憶が、思い出が、次々と風となって去っていく。

 あぁ。過ごしてきた、蓄積してきたものが剥離してゆく。一人の人間が生きてきた確かな証が、ちりぢりになって消えてゆく...。

 そして、膨大な風が吹きすぎた。


 その後、中心に残ったもの、全ての人との関わりを拭い去った後で、やっと残っているもの...。

 こんなに小さな...。大野はそれを見ていた。こんなに小さなものが...。

 それはあまりにもか弱く、小さなものだった。儚く、脆いもの。微かで、不確かなもの。

 俺にも...。大野は誰に語りかけているのか。

 俺にも今ならわかる...。あんたのしようとしていたことが。

 そして彼は気付いた。自分が何故執拗に成木を追いかけていたのか。ジャッカーに対するハンターという図式だけでは覆いきれない、自分の行動原理が何処にあったのかやっと判ったのだ。

 大野を動かしたもの、あの時、成木から流れてきたあの言葉...。


 ロンド・バリ会場に於ける闘いの最後。集団転移崩壊の時、拒絶波によって全ての人から引き離された成木は、その精神だけが遊離した状態になった。それは一瞬のこととはいえ、成木を全てのものからの遊離、物質と

いう概念からすらも超越するという、究極の遊離に陥れてしまったのである。どんな物にも依拠しないその状態は、彼に根元的な不安、すなわち、自分の存在に対する疑問を抱かせたのだ。その時の成木の問い、その言葉...。


 私とは一体何処にいるのだ...。

 私とは一体誰なのだ...。

 私は、なんなのだ...?


 大野は確かにそれを聞いていた。心だけになった成木がそう呟くのを。

 それは大野にとって意外だった。大野にとっては敵である成木が、その言葉を発したからである。いろんな意味で彼と正反対の位置にいる筈の男が、彼が今まで生きて感じていた漠然とした疑問と同じ疑問を発したからである。

 大野が成木を追ったのは、成木の行き着く果てにその答えがあるように思えたから...。それは彼自身の生きていく答えでもあるような気がしたから。


 そして今、大野は見ていた。成木の中の、その疑問を発していたものを。その疑問を発するのも無理もないほどの小さきもの、人の心の本質を...。

 それは成木がさっき言っていた通りのか弱き存在...。

 ゼロ・ヒューマンに残されているのはたったこれだけ...。常盤の謀略によって己の身体を喪失した成木には、自分のものと言えるのはそんなちっぽけなものだけだったのだ。

 こんなに小さなものが、自分を確かめたいと思ったとき、それは自分と同じものを見つけだすしかなかったろう。人の中で、他人という、自分とは違うものを見つけることが、自分のやるせなさを癒す唯一の手段だったろう。

 だから成木は、集団転移を欲した。心を一まとまりに集わせる手段を。

 寂しさを癒す手段を...。


 ロンド・バリには千人もの人々が集った。だがそれほどの人数がいても、人々は成木という人間について知っているはずもなかった。もし見たとしても、彼を駅ですれ違う一見の者以下にしか思っていなかったろう。成木がどういう人間か知っている者、いや、それどころかそもそも、成木という人間が存在したことを知っている者が、数多の人々にすらいない。寧ろ敵であるにせよ、自分の生き方に関わっている大野と闘っている時が、彼を愉悦させていた。哀しいかな成木は、千の心の中にすら、彼は自分の居場所を見つけることはできなかったのだ。

 だが、今なら大野にも判る。千人に拒絶されてなお、成木が明日を見ようとしたわけを。

 千人では駄目だった。だが、一万、百万...、一億の人の心を集めれば、自分を拒まぬ心があるかもしれない。

 全世界の心を集めれば、この寂しさが癒されるかもしれない...。


 大野の前には、青白い微かな炎だけが残されて、淡く光っていた。それは気の毒なほど震えて、すぐ訪れるであろう死を待っていた。

 最期まで孤独に死ぬ...。成木の悲哀は炎の色に、動きによって表明される。


 しかしそれは消え入る寸前、ほんの少しだけ光と落ちつきを取り戻した。

 外の風からその炎の最後の輝きを守ったのは、河合の姿をした心だったからである...。


 マンジャッカー、成木。ゼロ・ヒューマン、成木黄泉。

 彼は身体を失ったが故に、自分の顔を持たない。人に合わせて仮面を変え、その時々で違う人を演じている。だから不安に震えるのだ、本当の自分はどれなのかと...。

 彼は人とは違う能力を与えられたが故に孤高だ。己の世界を持ち、一人の王国に誇り高き理想郷を築き上げようとする。だから人に本心を悟られるのを嫌うくせに、独りだと言っては寂しさに咽び泣く...。


「あんたはまさしく...。」大野は言葉をそこで止めると、静かにこう言い換えた。

「俺はあんたにそっくりだ...。」


 永遠とも思える時間が過ぎた。水族館のホールの中には、いまだ水槽からこぼれだしている微かな水音以外、静寂が続いていた。

 放心して立っている大野。消火栓の上で声を立てずに泣く原尾。

 終わったの?

 俯いたままの大野は、無言で頷いた...。

 成木は死んだ。


 二人は遂に、集団転移の災禍から人々を守ることに成功したのだ。だが今の二人にとって、それは手放しで喜べることではなかった。二人は人々を救いはしたものの、その代償として多くの者たちの明日を奪ったのだから。

 俺達が潰した未来は、成木の言うように輝けるものだったかもしれない。第一、俺達が残した未来は、あのロンド・バリに集うような人々が造っていくものなのだ。彼らと共にある未来が、成木の目指そうとした未来よりも良いものに成るというのだろうか。それを確かめる術がない以上、俺達の行動が正しかったのかどうかなんて、分かりっこない...。

 それは大野の考える通りであろう。だが、多くの者を倒してまで得た未来は、人々が今日と同じく明日を生きられる未来は、ほんとうに輝けるものとはならないのだろうか。

 多くの者を倒してまで得た大野の明日は、生きる価値がないのだろうか。


 バンッ!

 大きな音がした。原尾がその方向に目をやると、大野達がこのホールに入ってきた入り口のドアが、水圧で弾け飛んだ所だった。

「おおおおおお!!」

突然再開した水流は、おぼつかない足取りだった大野を瞬く間に薙ぎ倒し、そのままかっさらってゆく。

「大野さん!!」

「来るな! この先は...。」

 馬鹿なこと言わないでよ。原尾は水流に飛び込んだ。

 原尾は早い水流の中で更に加速し、大野に近づいた。今私が動くのは犬死にではない。あなたを助けるためなのだから。

 大野は弾けた扉付近に達しようとしていた。激流が彼を飲み込み、ホールから追い出そうとしている。

 間に合って!! 原尾は心中叫びながら水を蹴る。そして最も勢いの激しいドア付近に達するや、ドア枠を掴むことに成功した。もう片方の腕の先には大野が...。

 だが、指先があわや届くというところで、大野は流れすぎていく。

 ああっ!! 原尾の悲鳴に近い嘆息。

 大野が流れていく先には、彼の左腕の核磁気共鳴電池による爆発で出来た大穴が、彼を地上200mの空へ導こうとしている。

 させない! 原尾はドア枠から腕を放した。


 大野の眼前には、急速に天空が開けていく。

 おおお! 大野は恐怖で声を上げる。冗談じゃねぇぞこの作者!

 だが、悪態を付いてもその勢いは止まらない。彼は水流に翻弄されながら大穴の一線を越えた。

 大野は真下に広がる空間を見た。200m下に広がる眼も眩むような景色は、あらゆる物を米粒状にしてありがたいことにその高さを強調している。

 死!!

 彼の頭の中にその言葉だけが踊ったときだ。今まで彼と共に流れるままだった水流が、急に激烈な勢いでもって叩き付けて来るようになったのだ。

 う...腕が引っかかった? いや、挟まったのか...?

 い、息が出来ん! か、かといってこの手が放れても墜落死...。


 ドドドドドドドド!! 大野の傍らを数トンもの水が過ぎていく。そのことごとくが彼の身体を引き連れていこうとブチ当たっていく。それは彼にとって死に最も近い30秒だった。


 意識が幽かに戻ってきたのは、地上200mに吹きすさぶ強風に煽られたからだったが、大野は自分が生きていることに気付くのさえ、ひどく時間がかかった。

 急激に体温を奪われて朦朧としている中、彼は辛うじて目を開けた。はっきりしない彼の視界は、それでも眼下のパノラマを今一度映し出していた。

 大野の真下に当たる辺りは、漆黒の闇に包まれていた。そしてそこだけを避けながら、ビルを大きく取りまいて、蛍のようにまたたく赤い点が見える。原尾が集めた救急車の群だろう。もの凄い数だ、本当に関東一円から集めちまった。

 そうか、先にリフトが落ちたから、この下には来なかったんだな...。それなら少なくとも下では、けが人はでなかっただろう。

 さて、俺はどうなってるんだ、まだ腕が挟まれているようだが...。大野はそう思って、つと上を見上げて...眼を飛び出さんばかりに驚いた。

「マ...マキちゃん!!」

 大野は半身乗りだした原尾によって腕を掴まれていたのだ。

 原尾のもう一方の手は窓枠に掛けられているが、枠に残ったガラス片が刺さって血が滴り落ちている。

 何てこった...。大野はあまりの衝撃に頭がカッと熱くなった。あの激流の間中俺を支えてたってのか!

「ば...馬鹿野郎!! 何やってんだ!!」大野は悲鳴のような声を上げた。「あんたも落ちるぞ! 手を離せ!!」

「し...死んだって...。」原尾は食いしばった歯の間から辛うじて声を漏らす。「離すもんですか...。」

 何言って...何言って...。

「何言ってやがる!! 俺なんかのために死ぬつもりか!」

「あなたは私を助けてくれた...今度は...私が助ける番よ...。」

 自...自己犠牲...。大野の脳裏に閃く言葉...それは彼にとって何より辛い思い出を想起させる言葉である。彼は居たたまれなくなって叫んだ。

「もう判った。もう判ったから手を離せ! もう充分だ...。

「俺の身体を見ろ! 左肩はちぎれ、身体も脚ももうボロボロだ。こんな俺を生かすためにあんたがこれ以上傷つくことはない。第一...。」

 俺はあんたにそっくりだ...。大野の躊躇いは成木に言ったその言葉がよぎったから。

「俺の心にはやっぱり邪悪なものが住み着いているんだよ...。だから俺は成木と同じ匂いを持っていて...。奴の決着が死でしかなかったのなら、俺の結末も...、そうすることが正しいんじゃないか?」


「違う!!」原尾は叫んだ。これまでにないほど大きな声で叫んだ。

「あなたは生きる価値のある人よ!!」

「あなたは確かに成木に似ているわ! でも、彼もあなたも決して邪悪な心を持っているわけじゃない!

「あなたが彼に似ているのは...」原尾は涙声で言った。「二人が湛えていた寂寥感よ。」


 河合の言葉が二人を過ぎる、「あなたは同じ匂いがする...。」


「あなた達が根底に持っていた人を恋しがる寂しげな気持ちが、彼女を惹き付けたのよ...。」

「だが、俺の中には...。」

「あなたは自分の心を信じていなさすぎる! あなたの身体は全てあなたのものよ。あなたはあなた以外の心で動されていているんじゃないわ! だって...。」

 原尾は大野の腕を握る手に渾身の力を込めた。

「私が握っている右手首の感触を、あなたは感じているでしょう。私があなたを助けたいこの想いを、あなたはその心で感じているでしょう!!」

永遠とも思える時間を駆け抜けて、大野の心のどの部分に、それは届いたか...。

「!」

 大野は初めて、自分の手で原尾の手首を掴んだ。


 だがどうするのだ。原尾とて肋骨を五本は折っている。彼女自身の力で持ち上げる力はもう無い。

 眼下には原尾の呼んだ救急車が五万といるのに、彼らがここで危機に瀕していることを伝える手段がない...。

 くそっ。大野は嘆じた。俺は今生まれて初めて生きたいと思っているのに...。

 ままよ! 大野が壁を蹴って、無理矢理にも原尾の手を引き剥がそうとした時である。彼の手を掴む、もう一本の腕!!

 何っ! 大野は驚いて思わず見上げた。

「し...新米君!」

「遅れまして、猫の手です。」


「な、何でここが判ったんだ。」少しずつ引っ張り上げられながら、信じられず大野は言った。

「リフトは降るわ爆発はあるわ、おまけにあれだけの量の海水ですよ、いくら何でも判りますよ。」馳が呆れて言った。「でも救助隊はロンド・バリ会場で手一杯なんで、対特である僕だけが駆り出されたんですけどね。よいしょっと!!」

 大野はようやく引き上げられた。彼は力無く原尾に倒れかかると、右腕で彼女を抱きしめた。原尾も拒みはしなかった。あれっと思いつつも、さり気なく目をそらす馳。

「何でもいいや...。」大野は一言だけ言った。

「とにかく俺達は生きてる。」



 エピローグ


 人工転移と集団転移を巡る一連の事件の顛末は、こうして幕を閉じる。

 ロンド・バリの会場にいた人々は、自衛隊の特殊部隊に撃たれて即死した三十人以外は、重軽傷混在しているものの一命を取り留めた。原尾の即断が功を奏したといえるだろう。だが、特殊部隊に関しては、集団転移中に取り込まれた者たちを除くと、ほぼ全滅という有様だった。

 21号令を発令した者として、普通なら国家から抹殺されるはずの原尾だったが、現場における指揮部隊が全滅したことの隠密処理のごたごたと、クールが自衛隊との最後の交信を行っていたことが、幸いにも彼女が利用されたのだとの認識を生じさせ、今回の処分からは無関係とされていた。だがそれよりも決定的となったのは、明林ら対特の連中がマスコミを上手く利用したことだろう。日本にかくまで危険な人権冒涜システムがあることをマスコミが静観するはずが無く、この三ヵ月後には内閣総辞職という事態にまで発展したのだから。

 日本に住む上での生命の危険は無くなったとは言え、彼女はこれとは別に、謹慎中にも関わらず警察寮を抜け出して、しかも無断で関東一円の救助車両を集めるという強権を発動した隠しきれない事実がある。当然のことながら重罰で、彼女は二階級の降格と半年間の減給という処置を受けることになる。ブランド物を当分は買えなくなった彼女は、「痛すぎるわこれ。」と周囲に洩らしているという。ただ、彼女の影の功績を評価する対特課長の明林による尽力が無ければ、懲戒免職間違いなしだった事は彼女自身身に染みているから、上記の苦言もあくまで冗談である。

 驚くのは馳であろう。対特中唯一動ける者として、クール隊のアジトを見つけだしたこと、またロンド・バリ会場の惨状の処置を曲がりなりにもこなした功績から、二階級特進して警部になってしまったのである。これで鈴鳴と同じ階級になったわけで、「こんなんありか!」という鈴鳴の悔しがりっぷりには気の毒なのだが笑ってしまう。

 上記に明林と鈴鳴が登場していることからも判っていただけるとおり、渋谷でアルカガスにやられて壊滅状態にあった対特も、半年あまりでようやく落ちつきを取り戻し、それに平行して、ガスにやられた市民達も一般の生活に戻っていった。

 さて、大野だが...。肋骨十本と両足の骨折、内蔵出血五カ所、肩からの出血多量に、身体中の打撲切傷数知れずという有り様だった彼は、医者が「普通死ぬぞ。」と呆れるほどの瀕死の重症だったわけだが、「しゅ...主人公ですから...。」と訳の分からないことを口走って耐え抜き、八カ月後に退院した。

 何を思ったか彼は、奇しくも同じ日に退院した最土園子を、何と養女にして引き取っている。「お前には将来身体で借金を返してもらうんだからな。」とか言って聞かせているらしいが、園子は妙になついているらしいから不思議なものだ。


 成木が死んでも、ジャッカーはいなくならない。

 だから今大野は、新しい左腕を付けるために膨大な借金を抱えつつ、またもハンターとして生き始めた。彼が糧を得る術は結局の所それしかないのであり、こぶつきになってしまった以上、それについてうだうだ文句を垂れている暇などなくなってしまったのである。

 とにかく、彼は生きていくことにしたのだ。


 ところで、再び商売敵になった大野と原尾はその後どうなったのであろうか。非常に興味深いところではあるが、これはもうこの話からは別のことになってしまうので、敢えて書く必要を感じない。

 そもそも、今回の事件で少しだけ大人になった彼らの心をこれ以上覗くのは、野暮というものであろう。

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マンジャック @norkato

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