第6-4話 憧れの和シフォン山桜(4/4)

 「さっ、作り始めて」

 下川先生の号令で、みんなが一斉に桜の塩漬けから処理をし始める。

「剥がれないように、しっかり」

 下川先生が注意点をアドバイスしてくれる。桜の処理が終われば、卵黄生地だ。ホイッパーを持って、卵黄のほぐしに取りかかる。

(入れる順番は……)

 KIKIさんの手元を見る。白い器が空になっている。

(そうそう、粒餡からだね)

 ゴムべらで粒餡を卵黄生地ボウルへ入れて、ホイッパーで混ぜ合わせる。

(そして、牛乳)

(次は油)

 KIKIさんは、もう卵白を泡立て始めている。

(最後に粉)

 ナカっちもレオくんも、冷蔵庫から卵白のボウルを取り出した。

(焦らない、焦らない。しっかり混ぜる)

 早都は自分にそう言い聞かせ、ホイッパーを動かす。

(よし、卵黄生地完成。次はメレンゲ)

 早都がメレンゲに取りかかったタイミングは、ミントさん、コウさんとほぼ同じだった。

(大丈夫。そんなに遅れていない。平常心、平常心)

 3人のハンドミキサーも、稼働し始めた。低速の回転音に、高速で回転する音量、時々ボウルの縁にあたる音がレッスンルームに響きわたる。何度もレッスンに通ううちに、この音量にも慣れてきたけど、6人分のハンドミキサーの操作音はなかなかのボリュームだ。

(あれ?この感じ、UBAUNDのレッスンみたいじゃない?)

 スポットライトが回る暗闇のスタジオ、流れる汗。

「ファイト、ファイト」

「プッシュ、プッシュ」

「スピードアップ」

 UBAUNDのインストラクターの先生の声が、聞こえてきたかのような錯覚を覚えた。

(こんなことを考える余裕が持てるようになるなんて、私も成長したな)

 早都がニンマリしていると、下川先生の声がした。

「相変わらずだなあ、さとは。ほら、力入りすぎ。力を抜いて、もっと早く」

「はい」

 油断すると、ハンドミキサーを強く握りしめるという早都の悪い癖が出てしまう。

(いけない、いけない。集中、集中)

「KIKIさんのメレンゲ、いいね。ナカっちも、そろそろかな」

 下川先生がテーブルを回りながら、製作中のメレンゲのボウルを覗き込む。

「ちょっと見せて」

 レオくんの横で、下川先生が声をかける。スイッチを切ったハンドミキサーをレオくんから受け取った下川先生は、手動で羽根を動かし、メレンゲをチェックした。

「うん、よくできてる。このメレンゲなら、お豆腐シフォンも大丈夫だと思う。低速で整えたら、混ぜ」

「はい」

「先生、私のはどうですか?」

 コウさんが問いかける。下川先生はコウさんの横のスペースまで移動し、レオくんにしたのと同じ動作でメレンゲの状態を確認する。

「右側が緩いから、もうちょっと泡立てて全体を均一にする」

「ありがとうございます」

 コウさんのメレンゲチェックの後、下川先生はミントさんのボウルを覗き込んで、うなづいた。

(あとは、私だけだよね……)

 早都は焦り始めた。

「さとのは、見なくても大丈夫?」

「大丈夫じゃないです。見てください」

 下川先生が早都の近くへやってきた。手元を見られて、早都の緊張度が高まる。

「力加減はだいぶよくなった。見せてみ」

 早都はハンドミキサーをOFFにしてボウルに立てかける。下川先生がメレンゲチェックを始める。

「ちょっと手を入れていい?」

「お願いします」

 早都が頷くと、下川先生はハンドミキサーを高速にセットしメレンゲを泡立ててくれた。

「縁に水分の多いメレンゲが溜まっている。ちゃんと縁まで混ぜる」

「はい」

「これでいいかな。あとは低速で整えて、混ぜに入って」

「はい」

(メレンゲまだまだなんだなぁ。情けない……)

 低速のハンドミキサーをゆっくり動かしながら、早都はため息をつく。

(ダメ、ダメ。そんなことを考えていないで、次は混ぜ。混ぜに集中、集中)

 卵黄生地にメレンゲを混ぜ始めた早都に、下川先生が声をかけてきた。

「おっ、さと、混ぜはうまくなったじゃん。しっかり混ざってる。回数はそのくらいでいいんじゃない」

「ありがとうございます」

 早都は嬉しくなった。生地を型に入れ、マーガレットの模様をつける。

(よし、オーブン)

 オーブンにシフォン型を入れてひと息。

「KIKIさん、洗い物変わります」

 シフォンをオーブンに入れてから、ずっと洗い物をしてくれていたKIKIさんから、早都はスポンジを受け取った。


 洗い物が終わると、待ちに待った試食の時間だ。先生がデモンストレーションで焼いた「和シフォン山桜」を淹れ立てのコーヒーと一緒に味わう。

 配られたシフォンケーキを手で割って、生地の感触を確かめる。ふんわりしていて、しっとりしている。一口大になったシフォンケーキを頬張ると、粒餡の甘さが口の中に広がった。塩漬けの桜の塩気と桜の香りも良い。

(ああ、お濃茶が飲みたいなあ)

 早都はふいにねっとりとした濃茶の味を思い浮かべた。

(もう20年近く飲んでいないけど、お濃茶にも合いそう。久々に飲みたいなあ)

「どう?」

 下川先生がみんなの顔を見回す。

「美味しいです」

「甘さと塩っぱさがいい感じです」

「本当に和菓子みたい」

「ふんわり感がたまらないです」

 下川先生が瞬間ほっとした笑顔を見せる。でも、すぐいつもの自信に溢れた表情に。

「これ好きな人多いと思う。人にプレゼントしても喜ばれると思うよ」

「ナカっち、お店に出すシフォンの参考になった?」

「はい。なりました!」

「ああ、いいなぁ」

 レオくんがため息まじりに言う。

「ナカっちさん、羨ましいです。実は、僕もお店やりたいと思っているんですよね。今の仕事を続けながら、週1日だけ開くとか、夜だけ開くようなお店ができたらいいなと」

「副業としてってことですね」

 ミントさんがわくわく顔でレオくんに確認する。

「まあ、そうですね。ただ、副業って収入を補うイメージですけど、僕の場合は心の潤いを補うのが第一目的なんです」

「えっ?」

「どういうことですか?」

「人と話す時間って心の健康のために必要だと思うんですけど、本業はパソコンに向かっての作業が続くんで。打ち合わせもオンラインだったりすると、直接顔を合わせては誰ともしゃべってない、みたいな日が続くんです。孤独を感じるというか、何というか……」

「なるほど」

「そういうことなら、やってみたらいいと思います」

「レオくんならやれそうですしね」

「落ち着けるお店になりそうです」

 レオくんがマスターとしてお店に立つ姿は違和感なく容易に想像できた。

「そろそろ型出しできそうだね」

 時計を見て下川先生が発言した。寛ぎの試食タイムもおしまいだ。


 スパチュラーを使ってシフォン型から、ケーキをはずす。底上げしていないか、ドキドキする。

「おぉ~、よく出来てるじゃん。おっし。このままの調子で頑張れ」

 レオくんのシフォンケーキの出来に、下川先生も嬉しそうだ。

「いや、バッサリ、切ってください」

 辛口のコメントを期待しているかのようなレオくん。

「できている時はできているって言うよ」

 下川先生は苦笑いだった。レッスンルームに笑い声が響く。

「KIKIさんはさすがだね。みんなもちゃんと成功してるじゃん」

(私はメレンゲ手伝ってもらったしな………。次は、ちゃんと自分で作れるようになりたい)

 下川先生がシフォンに対して、とても繊細な心配りをして作っているということがわかったのは、通いはじめてからずいぶん経ってからのことだ。「+シフォン」の作業スピードは早都の生活リズムの1.5倍。「その流れに遅れまい」とすることだけに気を取られ、下川先生が製作中のシフォンケーキに注いでいる愛情深い視線に、しばらくは気づけなかった。

「計量が違う。ちゃんと平行に見て計った?」

「サラサラ動かしているだけで、ちゃんと混ざってない。そこはしっかり混ぜないと」

「メレンゲに砂糖を入れるタイミングが遅い」

「空気、混ぜ混みすぎ。手首をかえさない」

 全ては美味しいシフォンケーキを作るために欠かせないポイントだ。少なくともお教室のオーブンで焼き上げるシフォンケーキは一定水準以上になるようにと、下川先生は細心の目配りをしているのだ。受講生が忘れがちな焼きむら防止の入れ替えも見逃さない。

「+シフォン」に通い続けているうちに、初めは宗方コーチのように思えていた下川先生がいつしかお蝶夫人に思えてきていた。下川先生の新作シフォンケーキの試作やデモンストレーションで感じる熱量は、「やるべきことは全てやる」「私は手は抜かない。見せなければいけないから」「追ってきなさい。永遠にあなたの前を走る」というお蝶夫人の意気込みに通じているように、早都は思う。

 受講生への激励は「あなたにはいついかなる時でも、だたひたすらな努力をしてほしい!」という思いなのかもしれない。

(下川先生は宗方コーチというよりはお蝶夫人)

 そう思ったら、宗方コーチに見えていた時よりもレッスン時の緊張度は少し和らいだ。


 型出しが終わったら、8等分にカットして、ラッピング。セロファン紙でシフォンケーキを包んでいく受講生の手元を確認しながら、下川先生が更なるアイデアを聞かせてくれた。

「見た目のインパクトを求めるなら、竹炭を使ってもいい。黒い生地にピンクの桜。どんぴしゃ夜桜のイメージだよね」

 早都の頭には、坂木冬美の「夜桜お七」の艶やかな衣装が浮かんだ。

「餡を変えればバリエーションが広がるし、興味ある人は試してみ」


 「ナカっちさんのお店、そろそろ開店1周年ですか?」

 帰り道、早都がナカっちに話しかける。

「あっ、1周年は先月の16日だったの。あっという間の1年だったわ」

「おめでとうございます」

 今日は、お祝いが多い日だ。

「ありがとうございます。何とか続けられています」

「素敵です。ご夫婦の夢に1歩ずつ近づいているってことですよね」

「まあね。思いどおりとまではいってないけど、それでも、ぼちぼちやれているからうまくいってる方なのかな」

 自宅を改装して小さな焼き菓子やさんを営みはじめたというナカっち。いずれはご夫婦でカフェを経営したいという夢を持っている。

 レッスン前は一人で過去を振り返りながら歩いた道を、仲間と、夢を語りながら歩く。


 レオくんにあんな夢があったなんて……ナカっちも目標に向かって頑張ってるし、KIKIさんは相変わらず向上心の固まり。ミントさんも新しい生活に踏み出してるし、コウさんも……

(ここは、留まることを良しとしない人たちが集まってくるカプセルなんだなあ)

 「もっともっと。上へ上へ」という下川先生。そんな下川先生の元に集まる受講生もまた意欲的な人ばかりだ。

 「努力することが苦手」「練習を継続する気持ちが足りない」と自覚している早都でさえ、周りの影響を受け、通いはじめた最初の1年で100個以上のシフォンケーキを焼いた。数を焼けばいいってものではないけれど、それでもその数のシフォンケーキを作ったことは自分の中ではすごいことだと、早都は思う。

 いつも揺るぎなく前へ進むお教室。道場という名にふさわしく、凛と張りつめた空気で満たされているカプセルが「+シフォン」だ。


 「できないことが少しずつできるようになるのって、素敵じゃない?」

 KIKIさんの声が早都の頭にこだまする。

「いつからでも始められるよ」

 下川先生とKIKIさん、みんなの声がシンクロする。

 「+シフォン」には背中を押ししてくれるエネルギーがある。朝は沈んでいた早都の気持ちにも、前向きエネルギーがフル充電され、すっかりプラス思考に変換されていた。

(これだから通うのをやめられないんだよね、おうちカルチャー)

 ナカっちと別れ高円寺駅行きのバスに乗り込んだ早都は、幸せ気分に浸りながらそう独り言ちた。

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おうちカルチャー マニア 志木 柚月 @yukinana

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