最終話

翌日も私はバスに乗り込んだ。

いつも帽子を被っている老人が、

なぜかその日は帽子を被っていなかった。


老人はいつものように先頭の座席に座ると、

帽子を脱いで膝の上に乗せるような動きをして、

静かに微笑み、ゆっくりと目をつむった。


そして二つ目のバス停で、

「おります」ボタンを押し、

ゆっくりと、丁寧に帽子を頭の上に乗せる動きをして、

静かに降りて行った。

小さい鞄は、ちゃんと背中にぶら下がっていた。


老人を降ろした変わりに、

老人の三倍、重さがあろうかと思われるいつもの女性を乗せ、

バスは再び走りだした。


私は、大きな欠伸の音も、だらしない服装も、

耳障りな足音も、呼び鈴を押す背中も、

全く気にならなかった。


教科書も広げず、学校前でバスを降りて、朝の挨拶もしなかった。


その日、また弁当を忘れていた。

購買でパンを買った。

また背中を押された。

一年男子。


今回は頑張ってツナデニッシュを手に入れた。

しかし自販機で、イチゴミルクのボタンを押した。

緊張が不安を生んで、違う動作が出来なかった。

指先は震える。


弁当忘れ一連の会話も健在で、憂鬱な昼休み。


帰りのバスの運転手が女性になった。

その運転手は、まだ二十代のようで若い。

中間地点の停留所で、赤いバッグの女性が乗ってきた。

最近、度々一緒になる時間帯。   


ドタドタと歩く足音が、

後方から前方へ近づいてきた。

そして、運転席の斜め後ろに立ち、

突然甲高い声を上げた。


「千絵? 千絵だよね? えっ、なんでなんで。なんでバスの運転手なんかやってるの? えっ? びっくり! どうしたの? 卒業以来だよね。何年ぶり? 

就職したんじゃなかったっけ? 東京のあの大きな会社、なんて名前だっけ、有名な……」


大きな声で、しかも一気にしゃべり続けた女性の興奮が

収まった頃を見計らって、

「圭ちゃん」

運転手はその女性の名を呼んだ。

明らかにテンションは低く、

会話に集中していなかった。

大きな平べったいハンドルを握りしめ、

前方に注意を向け、安全運転遂行の業務を果たしている。

全く、人を思いやるかけらもなさそうな、

その、圭ちゃんと呼ばれた赤いバッグの女性は、

いつも帽子の老人が座る座席に腰掛け、

「はあ~」と欠伸でも溜息でもない大きな声を出した。


それから、私の目の前ではしばらく二人、というか、

ほぼ一人の声が、成り立たない会話となって車内に響いていた。


マイクを通す運転手の二倍は大きい声。

どうも同級生らしい、二人の再会は、

狭いバスの車内で繰り広げられていた。


赤いバッグの女性は、座席から身を乗り出した格好で座り、

一人で声を出している。


「母がね、体の調子悪くて。一人暮らしで心配だから一緒に住むことにしたの」

運転手は静かに話した。

「へえ、そうなんだ。で、帰ってきたんだ。しかも、バスの運転手ってさ! 私、最近、平日はこの時間のバスに乗る事が多いから、また会えるよ。ねー、前の運転手知ってる? 定年で辞めたの、あの人? なんか、私が降りる時、今日で最後の運転になるんです~とか、言われちゃってさ、困るよ、だから何? って感じ。会社に言っといてよ、そんなこと客には関係ないからって」

と言いながら、ふと真顔になった女性は、私の方をちらっと見た。

すぐに運転手の方へ向き直って、

「でも、千絵、今までのじいさんよりよっぽどいいわ」

運転手は言葉少なく、まるで昼休みの私みたいだった。


赤いバッグの女性は、再会した現実に浮かれたまま、バスを降りて行った。

女性が降りると、バスはすぐに発車した。

乗っているのは私だけ。ため息混じりのエンジン音。


この運転手はこれから先、

何回ため息をつくのだろう。

彼女の場合、回数より、ため息の中身が心配だ。


私はその日のバスを降りるとき、なぜだか女性運転手に、

「ありがとうございました」と言った。


老人の帽子は、翌日も、その翌日も、

私が卒業するその日まで、ずっと消えたままだった。


ここまで、クリアー。


具体的に思い出せるのは、このくらいか。

ガラクタの中のガラクタを引っ張り出した。


あとは、曖昧な記憶と感情がたくさんあって、

どの指先にも引っかからずに埋もれてしまっている。


都合よく自分で差し替えている部分もあるかもしれない。

いや、もしかしたら何一つ起きていなかったのかもしれない、とさえ思う。


全て嘘かも、って。


とりあえず、しまっておこう。

再びガラクタの中へ混ぜ込んで。

ガラクタでもあるだけいい。

折角だから、そうしよう。


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透明 高田れとろ @retoroman

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