入れ物

賢者テラ

短編

 S大教育学部・二回生の森田修司は、悩んでいた。

「おう、どうした。朝から浮かない顔して」

 同じクラスの男友達から、たびたびそう声をかけられる。

「まさか、恋の悩みかぁ?」

 一人が何気にそう言ったので、修司はギクリとした。

 友人としては、単に茶化して言っただけなのだのだろうが、それがまさに図星であったため、修司の心臓は必要以上にバクバク早鐘を打った。



「あら、森田君。おはよ~」

 ボーッとした頭で教室移動のために廊下を歩いていると、その悩みの最大の原因とも言うべき人物に後ろから声をかけられたので、彼は文字通り固まった。

 体は前へ前へ推進しているのに、足だけが両足揃った状態で止まってしまった彼はあわれにも——


 ビタン!


「きゃああっ! 大丈夫?」

 目の前で廊下への見事なダイビングを決めた修司を気遣って、星野早苗は思わず駆け寄って修司を抱き起こした。早苗にすれば、クラスメイトへの心配から出た自然な行為であったのだが——

「んんん……」

 頭に星がチカチカしたが、しばらくしてぼやけた視界がはっきりしてきた。

 その時、修司にとってこの世で最も心臓に悪いものを至近距離で見てしまい、さらに意識が遠のきそうになったのだった。

「ああっ、森田君、森田君ってばぁ!」



 森田修司の悩み。それはズバリ、恋の悩みだ。

 彼は、寝ても覚めてもクラスメイトの星野早苗のことばかり考えていた。

 早苗は、ロングヘアで、エクボのかわいいスレンダー美人だ。

 テレビのお天気お姉さんが、早苗に見える。

 欅坂46のメンバー全員が、早苗に見える。

 ハリセンボンの箕輪はるかが早苗に見えた時、修司は思った。



 ……オレは重症だぁ!



 こんなにも、一人の女の子を思って胸が痛いのは、初めてだった。



 しかし、である。

 彼の悩みは、そう単純ではない。さらに根深い問題がある。

 それは『自分に自信がない』ことだった。

 彼女いない歴が、人生生きてきた分全部。

 顔にも容姿にも、自信がない。例えそうでも、話術や中身で勝負すれば逆手にとって人気が取れるのだろうが、いかんせん彼は人付き合いにおいて不器用だった。

 自分の関心ある分野以外には無頓着なため、ファッションや身だしなみなどほとんど気にしたことがなく、見た目に垢抜けしていない。言わば、そこはかとなく『オタク風味』的なオーラが漂っている。

 だから、今修司を悩ませているのは『告白しても、きっとフラれる』んじゃないかという恐れである。

 向こうが修司を好きになって告白してくるなどということは、地球がひっくり返ってもあり得ない。



 数か月前、街の路上で無差別連続殺傷事件が起こった。

 その事件の犯人は、こう嘆いていた。

『彼女できない。オレのことなんか誰も好きになってくれない』

 修司は、何だよなと思った。



 ……辛いのはお前だけじゃねーよ。バカ。だからってやるなよ!



 不器用でKYな修司は、過去フラれること8回。

 中高生時代、周囲の男友達が彼女を作って休みの日にデートしているのを見て、ずっと心中穏やかではなかった。

『お前も、一緒に来るか?』と、やさしい友人などは誘ってくれるが、修司は断るのだった。邪魔しちゃ悪いし、第一ついていっても虚しいだけである。

 二人のアツアツぶりを見せ付けられて、こちらの彼女のいない身の上がさらに思い知らされるだけだ。

「やっぱ、世の中見かけなのかなぁ」

 顔とカネ、と言いたかったところだが、カネが関係してくるのは学生時代よりも社会に出てからだと思ったので、とりあえずそううめいた。

 彼女のできない辛さだけは、無差別殺人事件の犯人並みに感じているのだ。



 このままではいけない!

 修司は、ついに決意した。

「オレは、生まれ変わってみせる!」

 今まで服装には無頓着で、着れりゃ何でもいいや的な感覚でユニクロやGUですべて済ませてきたが、初めてそれ以外の店で服を厳選して買った。

 黒しか考えられなかった髪の毛も、初めて茶髪に染めた。

 そして、テレビコマーシャルでボディーフレグランスのスプレーを体に吹き付けたサーファーの男に、ビキニ姿の女性が群がってくるのを見た修司は、影響されてさっそくそれを購入。出かける際には、必ず吹き付けるようになった。

 ヘアケアは今までシャンプーとリンスだけだったが、きちんとヘアリキッドを振るようになり、仕上げにはヘアワックスで髪型を整えた。

「お兄ちゃんが、ついにおかしくなったぁ!」

 女子高生の妹、優子はそう言って修司をからかった。

 血のつながった兄妹なのに、兄はさえないオタク風味で、妹は身内びいきを抜いてもかなりの美少女であった。まったく、不公平なものである。



 ……からかわれてもいい。たくましく育つんだぁ!



 丸大ハムの宣伝のようなことをつぶやきながら、今日も男性用化粧品の研究に余念がない修司なのであった。

 でもある時などは、ブルガリの男性用の香水を買うつもりで街に出かけたものの、結局『Perfume』のニューアルバムを買って帰ってきてしまった。

 香水違いもいいところである。



 戦闘準備は、整った。

 そこそこに、世の男性の標準程度には身だしなみも気をつけるようになった。

 世の女性達にセンスないと思われない程度の服も用意したし——

 体臭・口臭対策もバッチリオッケイだ。

 修司は、勝負をかけることにした。

 いよいよ、星野早苗に告白しよう、というのである。



 こんな大事なこと、メールなんかで言うのは考えられない。

 かといって、手紙なんかにすると返事が来るまでの時間どんなに悶々と過ごさねばならないかを考えれると、耐えられそうもない。だから、堂々と正面きっての勝負を選択したのである。

 参考までに、早苗とはタイプが違うが美女度では勝るとも劣らない妹の優子に、こう尋ねてみた。

「お前さ、どんなタイプの男性に告られたらうれしい?」

 優子は、ぱっちりしたアーモンド型の瞳をウルウルさせて天井を見つめながら、当たり前のように言った。

「そりゃ、決まってるじゃないのぉ! 嵐のニノくんとかキンプリの平野くんとかだったらも~最高! カックイイイケメンなら、その場でオッケイよぉ」

「あ、そ」



 ……聞いたオレがバカだった。



 まったく参考にならない。



 計画の決行前夜、彼は眠れなかった。

 あまりに目がギラギラして大怪獣ギララ(?)が暴れだすほどだったので、羊の数を数えることにした。

 でも、羊だと飽きてきたので乃木坂46の人数を数えるのに切り替えた。

 ってか、46人以上いるとおかしいのだが——

 でも、ついに1万9千470匹……じゃなかった「人」を数えたところで夜が明けてしまった。

 結局、世界で一番好きな子に告白するという人生の一大イベントの前には、何をしようがムダだった。

 乃木坂19470のコンサートは、どんなだろう!?



「今日さ、ちょっと話したいことがあるんだけど。どっか時間いいかな?」

 ガチガチだったが、何とか修司は大学構内で早苗にそう声をかけた。

「そうねぇ。3時間目だったら一般教養科目が休講になったから空いてるけど。森田君はどう? 授業入ってる?」

 ちょうど修司にもその時間は空き時間だったので、早苗と約束して別れた。

 早苗が綺麗な髪をなびかせて走り去っていくその背中を、見つめる。

 今の気持ちで彼女を見つめれるのは最後になるかも、などと弱気になった。



 早苗は、おそらく愛の告白だとは思ってもいない感じだ。あまりにもあっけらかんとしているので、まったく違う用件だと思っているのだろう。

 ……やっぱりオレって、『アウト・オブ・眼中』なんじゃ?

 そいいう心配がオーケストラで演奏を奏でたが、もう後戻りは出来ない。

 さいは投げられたのだ。

 修司は昼食を取ったが、味はまったく分からなかった。

 講義も、すべて右の耳から入って左へと抜けていった。



 修司は、生きた心地がしなかった。

 周囲の風景が、すべて色あせて見えた。

 それでも、力を振り絞って体を動かす。

 一応現実社会に属する身だから、もう一時間授業を受けて、家に帰らねばならない。バイトだって、行かなくちゃ行けない。

 すべて放り出してしまいたいけど、そういうわけにもいかない。

 彼の心の中で、さきほどの光景が何度もリピート再生される。

 恐らく、一生忘れられないだろう。

 好きだ、ということをストレートに伝えた修司。

 早苗は、瞳を伏せて済まなそうに言った。

「私、彼氏いるんだ……」



 知らぬは、修司ばかりなりであった。

 あとで、さり気ない風をよそおって友人に話題を振ってみた。

「へ、お前知らなかったのか? 星野に彼氏いるのは結構有名な話だと思ったけどなぁ。ほら、アイツESS部に入ってるだろ? 部の三回生のイケメン先輩と付き合ってるって、もっぱらの噂さ」

 修司は、ほぞをかんで悔しがった。



 ……事前の調査不足だった!



 それから一週間あまりは、修司はせみの抜け殻か生きたしかばねのようだった。

 普段は兄をからかったりバカにしたりする妹の優子も、この時だけは何かを察して兄に優しくなった。

「元気出せ、お兄ちゃん。ワタシはお兄ちゃんのこと好きよ!」



 ……ありがとうよ。でも、お前に言われてもなぁ!



 人生、こんな苦しい時間というのがあるんだなぁと思った。

 大学受験の時も苦しかったけど、これはまた質とレベルが桁違いだ。

 他の人も、失恋したらこんな気持ちを味わうのだろうか?

 それとも、ここまで苦しいのは自分だけなのだろうか?



 でも、修司は時間をかけて考えた。



 ……男女の愛って、何だろう。



 素晴らしいものだ、とは思う。

 人間を人間たらしめ、子孫を存続させていくために神様から与えられた素晴らしいプレゼント。それが、異性を好きになる気持ちだと思う。

 しかし、問題は単純ではない。

 世間では、当たり前のように離婚が多い。

 初めは熱烈な恋愛で始まったカップルでも、やがてお互いに色々な部分が見えてきて、冷めるケースもある。

 現に彼の年上のいとこは、つい最近離婚した。

 修司は、そのいとこの結婚式に4年前に出席した。

 実に盛大に行われ、その時の二人はとっても幸せそうだったというのに。



 今の自分の気持ちを、整理してみる。

 早苗には、フラれた。

「あなたのこと好きじゃない」と言われたのではなく、「すでに好きな人がいるから」という断りかたではあったが、要するにフラれた現実には変わりがない。

 胸の中には、もうできれば早苗に会いたくない、話ししたくないっていう気持ちが少しはある。

 もうあいつのことは忘れたい、っていうネガティブな思いはある。

 でも、これってどうなのだろう。



 好き、って何だろう。

 誰のため?

 その気持ちは誰を大切にしたいため?

 相手のため。

 相手を幸せにしてあげたいため。



 ……本当か?



 そう言いながら、実は自分のためなんじゃないのか?

 自分を満たしたいからじゃないのか?

 それをうまくごまかすために、本当は自分を愛してるのにその本質をボカして飾ってるだけじゃないのか?

 そういうケースが、世にはあふれてるんじゃないだろうか。



 そういえば昔、こういうニュースがあったよな。

 あるAKB48の熱烈なファンが、サイトに『殺してやる』という書き込みをした。理由は、ファンクラブに入っていれば届くはずの誕生日カードが、届かなかった。それで、彼はキレたらしい。

 おかしいじゃないか。

 好きだったんだよな? 応援していたんだよな?

 だったら、なぜそんなことぐらいでいとも簡単にその好きな気持ちが恨みに変わってしまうのだ?

 答えは簡単。

 その好意は、相手を思うのではなくて自分を思っているから。

 結局、自分のために好きになったから。

 自分の利益に関係してくれない、と分かったらいともあっさりと捨てる。

 相手の出方で変わってしまうようなものが、好きという思いであっていいのか。

 今、早苗にフラれたオレは、もう早苗と関わりたくないなんて思っている。

 それは、勝手すぎないだろうか。

 これじゃあ、AKB48逆恨みの犯人と同レベルじゃないか!

 今まで好きだったのに、フラれて自分の願いを果たしてくれない存在と分かったら、手のひらを返したように自分の人生から彼女を締め出す——。

 


 ……愛、って何だろ。



 修司は、悶々と悩んだ。

 そして、彼はひとつの結論を出した。


 


 吹っ切れた修司は、元気に大学へ通った。

「よぉ! 今日も元気そうじゃないかぁ~」

 多少から元気を出しすぎにも思えるが、笑顔を作って早苗に挨拶する。

「……おはよ。森田君」

 早苗にも、それまでと変わらない態度で、明るく接した。

 やっぱり、思いを受け止めてもらえなかったからといって避けたり忘れたりしようとするのは違う、と思ったのだ。

 相手が大事だという変わらない思い。相手の幸せを願う思い。

 それこそが本当の好意、というものだと思った。

 要は、相手が幸せになってくれるなら、それが一番なのである。

『自分と一緒に』幸せになるんでないといけない、というのはエゴである。その人が幸せになるんなら、他の人とであろうが祝福してあげるべきじゃないか——。

 心なしか、早苗もうれしそうであった。

 修司のわだかまりのない態度に、早苗のほうでも救われたような、心の重荷が軽くなったような、晴れ晴れとした表情で彼と接した。



 三ヶ月ほどもたった、そんなある日のこと。

 早苗が、ある日を境にぷっつりと大学に来なくなった。

「なぁ、星野のやつ、何かあったのかな?」

 修司は、いつも早苗がつるんでいる女友達にそれとなく聞いてみた。

「……あのね、ここだけの話にしといてね」

 彼女は声を落として、修司の耳にささやいた。

「早苗ね、何か重い病気にかかったらしいよ。一生障害が残る可能性もある、って言ってた」



 修司は、伝え聞いた病名を調べてみた。

 


『ギランバレー症候群』


●ギラン・バレー症候群(Gillain-Barre syndrome)は、急性、多発性の根神経炎の一つで、主に筋肉を動かす運動神経が障害され、四肢に力が入らなくなる病気である。

 重症の場合、中枢神経障害性の呼吸不全を来し、この場合には一時的に気管切開や人工呼吸器を要するが、予後はそれほど悪くない。

 日本では、特定疾患に認定された指定難病である。

 女優の大原麗子が罹患して有名になった。

 また稀な疾患であり、年間の発病率は10万人当たり1~2人程度とされる。



 ……10万人に1・2人!?



 修司は、うめいた。

 何という、運命の皮肉。

 よりによって、あの早苗に——。

 蝶のようにひらひらと、天真爛漫にキャンパス内を駆けていたあの早苗が、そんな病気に?

 運命とは、何と残酷なものであるか。



 早苗の事が心配でならなかった修司は、彼女の家に電話をした。

 もし、面会の許可がおりるほどに元気になったら、見舞いに行って励ましてあげたかったのである。

 それは、純粋な友情として。異性としての下心を越えて、ただただ友の幸せを思うがゆえに。

 早苗の母は、彼女の今の戦いを教えてくれた。

 彼女は、荒れて自暴自棄になっているらしい。

「私はもう終わりよおおお! 死なせて、死なせてええええ」

 そう叫んで、泣き暮らす日々なのだという。

 歩くことができない。

 もしかしたら、一生電動式の車椅子生活かもしれないという。

 体を真っ直ぐにできない。エビのように背中が丸まったような姿勢しか取れない。

 足のつま先が、ピンと伸びたままの状態で固まり、元に戻らない。

 指が動かない。だからペンを握って字が書けない。

 箸も持てない。スプーンですくうか、フォークで突き刺すかでしか、食事が取れない。そして、何より早苗を打ちのめしたものは——

 言語障害。

 しゃべれるのだが、どもったようなたどたどしい、聞きづらい声しか出せなくなった。おまけに機能の低下した顎の筋肉を頑張って使うものだから、しゃべった時の彼女の顔は少しゆがんだように見えてしまう。年頃の若い女性である彼女にすれば、もっとも気になる部分だろう。



 修司は、この話を聞いて胸を痛めた。

 何とか、早苗が元の元気さを取り戻しますように、と祈った。

 彼は決心した。早苗に会いに行こうと。

 きっと、そっとしておいてほしいと思っていることだろう。

 自分の姿を見られたくない、と思っているだろう。

 もしかしたら、こんな自分を友人に見られるくらいなら死んだほうがマシ、とまで思うかもしれない。

 でも、オレは会いに行く。

 だって、そうだろ?

 早苗は、早苗。

 一体、何が変わった?

 別に悪人になったわけでもなんでもない。

 体が悪くなったというだけで、早苗本人の本質は・魂は何も変わらない。

 それを分からせてあげなくちゃ。

 こっちがヘンに気を遣って面会を避けたら、やっぱり人は見かけだということを間接的に言っているようなものだ。それだけは絶対にイヤだ。

 オレは何にも変わっちゃいないよ、ということを伝えたい——。



 病院にて。

 初め、枕や食器が飛んできた。

 手の筋力も低下していると聞いたが、怒りのパワーはすごい。

 修司は覚悟はしていたので、動揺はしなかったがやはり悲しかった。

「見ないでえええ」

 一日目は、おとなしく帰った。

 早苗の母は、ごめんなさいね、もうしばらくしたら落ち着くと思うのでまたおいでくださいね、と謝ってきた。もちろん、修司はまた来るつもりだった。



 5回目に訪ねた時くらいに、何も飛んでこなくなった。

 でも、会話が続かなかった。

 修司は、お笑い番組を見て色んなネタを仕入れては、早苗の前で披露した。

 が、早苗の反応は冷たい。

「あれ? あまり面白くなかった?」

 焦った修司が尋ねると、早苗はどもりながらも一生懸命答えてくれた。

「だって、さぁ、わた、し、病院で、その番組、ぜんぶ見て、るもん」

 目が点になった修司は、思わず言った。

「何だぁ、全部ネタ、知ってたんだぁ!」

 その瞬間、早苗はプッと噴出した。

「ハハハハハ……」

 二人は、笑った。

 早苗は、実に久しぶりに笑った。



 治療に関しても、現時点でとりあえずできることに関してはしてしまったので、早苗は退院を許可され、自宅療養に切り替わった。

 ただ大学へ通うことは絶望的で、逆に障がい者の通所施設に通うことも検討しなければならないような状況であった。

 彼女は、電動車椅子の手放せない生活になった。

 車椅子の乗り降りも、トイレや入浴も、独力ではできない。

 食事すら、家以外では出される食べ物の形状や大きさによっては、介助が必要なほどだった。でも、早苗は修司の純粋で献身的な見舞いのお陰で、何とか生きる気力を保ち続けていた。

 その間、大学の他の友人や早苗の現彼氏は、訪ねてこなかった。



 修司は、リハビリの時間以外は車椅子の早苗を連れまわした。

 テーマパーク・動物園・ショッピング・映画——。

 当然、トイレ介助など修司が手を出せない部分もあるので、福祉施設から派遣された女性のガイドヘルパーさんにも同行してもらった。

 修司には、早苗が自分のものになるとか、一生そばにいてくれるなどということはどうでもよかった。

 ただ、彼女の喜ぶ顔が、幸せそうな顔が見たかった。

 交換条件なんていらない。見返りなんていらない。

 ただオレは、早苗といたい。それだけなんだ。

 早苗も、だんだん自分の不幸や障害を呪うようなことは言わなくなっていった。



 ある日、思い立った修司は大学で早苗の彼氏を呼び出した。

 もちろん、早苗に頼まれたわけでもなんでもない。

「……アイツに会ってやってくれよ。ホントはオレなんかじゃなく、お前が守ってやらないといけないんじゃないのかよ?」

 噂どおりのイケメンであった。しかし、性根が腐っていた。

「何だよ。だってアイツ、障がい者になっちまったんだろ? 将来のことも考えた彼女としてはもう考えられ——」

 みなまで言う前に、修司はその男を殴り飛ばした。



「わぁ、キレイ——」

 大学の屋上からの眺めは、最高だった。

 今日は、大学祭。

 色んな出店やイベントもある。

 夕方になった今は、校舎がド派手な照明でライトアップされていた。

 修司は、気晴らしにと車椅子の早苗を連れ出してきたのだ。



 この時点で早苗は、これ以上の通学は不可能なためすでに大学を退学していた。

 大学に対して、そして当時の友人に対してわだかまりがあるかもと心配した修司だったが、早苗が自ら『行く』と言ったので、思い切って連れてきた。

 心配するほどのこともなかった。 

「わぁ~早苗じゃん! ひっさしぶり~」

 結構、昔の女友達ともはしゃぐことができてひと安心であった。

 早苗の彼氏は、最後まで姿を現さなかった。

 早苗自身も、あの時から彼のことを口にすることは一度もなかった。



 修司と早苗は、並んで屋上からのキャンパスの夜景を見た。

「……ねぇ」

 早苗は、おもむろに修司にしゃべりかけてきた。

 彼女のほうから話を振ってくる、というのは珍しかった。

「何だい?」

 ライトアップされた向かいの校舎に視線を向けたまま、早苗はうめく。

「ありがと、ね。ほんと、ありが、とね」

 急に、ワァッと泣き出した。

 この頃さらに筋力低下と硬直が進み、独力で物を持てないほどになっていた早苗の涙を、修司はハンカチを出して拭いて優しく拭いてやった。

「森田君、って、スゴイ、と思う。ふつう、そんな、風には、でき……ない」

 嗚咽交じりに、たどたどしくも必死に言葉を続ける早苗。

「私、こんなになっちゃったのよ? 以前、確かにあなたは、私、を好きだと言ってくれた。それでも、今でも、こんなになってでも、森田君、はぁ、私のこと、好きでぇ、いてくれてるの?」

 かなり筋力を使ったのか、ハァハァと息を荒げる。

 そうしてでも、彼女はこの問いを発したかったのだろう。



 秋風が、頬に心地よい。

 しばらくの静寂の後、修司は言った。



「体ってのは、入れ物だと僕は思う。

 僕らがこの世界で暮らすために、僕らの心や魂、といった大事なものを入れておくためのね。

 だから大事ではあるけど、決して本質じゃない。

 大事なのは、入れ物じゃなくって中身。

 人間ってさ、目に見える物のほうが分かりやすいもんだから、その人自身をよく知ろうとする前に外見とかで、その人の好き嫌いを決める大事な判断をしちゃうことって、多い。

 星野さんはさ、病気になる前と後で何か変わったかい?

 そりゃさ、色々変わっただろう。

 でも、『星野さん自身』は、何も変わっていないんだよ。

 星野さんは、星野さんなんだよ。

 僕には、見えるよ。いつでも、あの元気な星野さんがね。

 君が望みさえすれば、取り戻せる。

 外側なんて、関係ない。

 君はいつまでも、僕の大好きな早苗——」



 ここまで言った時点で、修司は続きを言えなくなっていた。

 なぜなら、早苗が電動車イスを操作して修司ににじりより、ありったけの力を使って彼の首を引き寄せ、唇で唇をふさいだからだ。

 早苗は一生離さないとでも言いたげに、荒々しく口を押し付けてくる。

 涙のいっぱい溜まった瞳を閉じたので、居場所を失った大量の涙は一斉に早苗の頬を伝い流れた。

 夕日と、きれいな校舎のライトアップの光に照らされて——

 二人は、長い時間心からのキスを交わした。



 別に、この時からも今までも、修司の早苗に対する気持ちは変わるものではない。

 早苗に受け入れられたから、早苗を改めて好きなったなどというものではもちろんない。

 ずっと、同じだったのだ。

 変わらない想い。

 見返りがあってもなくても、相手の幸せを願う愛。

 相手の反応に振り回されない、不動の愛。

 修司が早苗に対して持とうと誓ったのは、そういう好意であり、愛。 



 オレは、いつだって変わらずオレ。

 早苗は、いつだって同じ早苗。

 だから、心配するな。

 たとえ、目に見える何かがどう変わっていくとしても——

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