瞳に迫る妖精学

 赤ちゃんは何を感じているのだろう。日常はそう考えさせられることで溢れている。

 急に泣いたり笑ったりしたとき。

 ぬいぐるみをバシバシ蹴り続けているとき。

 そして、天井の一点をずっと見つめているとき。

「何を見ているの」

 当然問いかけには答えてくれない。生後二ヶ月半の時期、少しずつ視界が色鮮やかになっていくため見えるものに対する興味はより強いことだろうが、なぜ何もないところなのか。

 赤ちゃんの視線の先をたどっても、ただ天井があるだけ。視覚を司る細胞が大人より不全なためにかえって見えるものでもあるのかもしれない。いるはずのない宙に浮く胎児を見た猫のように。

 濁りのない瞳をじっと覗きこむ。僕が見える。照明が見える。

 そして、さっきまでいなかった何かが見えた。


 振り返る、いない。

 赤ちゃんの目を見る、いる。

 なんてこった。

 瞳越しのため色味はわからない、自分のシルエットですら黒っぽくみえる。大きさについては遠近感がわかりにくいためはっきりとは言えないが、照明の傘にすっぽり入るくらいの小ささだろう。形は三頭身くらいの人型だ。腕にあたる部分が激しく動いているので、羽の役割をしているのだろう。

 まさかスカイフィッシュか、いやあれは速すぎて視認できない類いのものだ。おそらく瞳に写る生物は光の屈折率により姿が確認できている。赤ちゃんの目という澄んだレンズの反射が起こした奇跡なのだ。

「ねえ、こっち来てよ」

 僕は洗い物をしている妻を呼ぶ。彼女はすぐに来てくれたが、大好きなママの登場により赤ちゃんの目線が移ってしまった。

「あちゃあ」

「渋い顔をしてどうしたの、ポンちゃん頭でもぶつけたの」

 赤ちゃんには素晴らしい名前を与えているが、両親ともに少なくない頻度で胎児ネームを使ってしまう。ごめんね。

「違うよ、今この子が世紀の新発見をしたんだ。ちょうどこの辺だったと思うんだけど」

 そう言って赤ちゃんの首を動かそうとするが、妻から「首がすわってないんだから変に動かさないで」と怒られてしまった。赤ちゃんの視線はママに釘付けなので実演は諦める。

「瞳に見たこともない、というか見えない生物がいたんだよ。そう、あれはまるで妖精だった」

 自分で声にだしてしっくりときた、妖精だ。おとぎ話に出てくる彼らの特徴に非常に似ている。伝承や目撃談があるのも実際にいるからに他ならないのではないか。

「見えないものが見えるって、よくわからないわ。遊んであげるのもお話を聞かせてあげるのもいいけど、家事をしてる私まで巻き込まないで」

 妻はこちらの反論の余地も与えずキッチンに戻ってしまった。僕の話に驚かず、相づちをうたなくなったのはいつからだったか。おそらく赤ちゃんが産まれてからだろう、彼女は好奇心を全部子どもにあげてしまったのかもしれない。

 妻が行った先を赤ちゃんは見続けている。「妖精さんに興味はあるの」と聞いても反応してくれない。音が出るカエルの人形をプーと鳴らすとそちらへ目をやったので、さっき妖精がいた場所に視線を誘導させてみた。すでに影はなかった。

 僕としても首もすわってない赤ちゃんを酷使させたくないので今日の妖精探索を終了した。この子はよく宙をみつめるので、そのときに確認すればいいだけだ。


 翌日、僕は客周りの合間にホームセンターへ寄った。

 虫取り網、虫かご、粘着テープ、手当たり次第に虫取りグッズを買い物かごへ投入する。餌も欲しいところだが、残念ながら生態がわからない。

 店を出たところでお隣の老夫婦とバッタリ出会った。

「こんにちは、奇遇ですね」

「あらあらこんにちは。主人が孫に実験をしてやるんだって意気込んじゃってね。そちらもお子さんと虫取り、ってまだ早いんじゃないかしら」

 僕は仕事中なのにまずいぞとは思いつつも、おじいさんに質問を投げかけることに決めた。

「実は妖精を捕まえようとしてて。何かご存知ありませんか」

 単刀直入に聞く。おばあさんは目を丸くして驚いたが、おじいさんは少し考え込んだあと「すまんが妖精学には手をつけておらんのだ」と回答してくれた。初めて聞く言葉だ。

「妖精学ってなんですか」

「日本では認められておらんが、イギリスでは古くから研究が進められている。民俗学の一つといえばわかるか」

 民俗学、名前は聞くが何かと言われてもピンとこなかった。文系なのに。

 とりあえず「なるほど」と答えておくと神道やら方言の出自やら、日本への郷土愛あふれるありがたいお話が泉のように湧き出てきた。この人はいったい何学者なのだろうか。

 お隣さんと別れると僕は民俗学についてわかったようなわからないような気持ちのままアポを入れていた顧客に詫びの電話を入れた。


 仕事後図書館に寄りたかったが、長話のしわ寄せが来たため残業。帰りの電車で妖精学についてネット検索をするにとどめた。どうも妖精学というものは生物学的に研究するというよりもその在り方を知ることで時代背景を探る側面のほうが強いらしい。

 なるほどたしかに民俗学だ。

 調べた中に妖精は人間の生活に溶け込んでいるとあり、昨日見たものと合致する。と同時に彼らの食事も人間と同じものらしい情報を入手したため、準備はすでに整っていたことも知る。

 最寄り駅につく頃には二十一時を回っていた。妻は夜を覚えさせるため、二十時には消灯している。この調子だと妖精捕獲作戦は週末まで待つ必要がありそうだ。


 予想と異なり、チャンスは早く訪れた。

 明くる日の早朝五時、母乳要求を終えた赤ちゃんは宙の一点を見つめていた。

 「もうちょっと寝たいんだけど」という妻に「寝かしつけ、僕のほうでするよ」と言い、さっそく瞳を覗きこむ。

 いた。

「寝そうにないねえ、少し歩いてみよっかぁ」

 わざとらしく言い、妻のいる寝室から離れキッチンへ。当然妖精も見失うが、妻の前での大捕物はまた中断されかねない。かくなる上は誘い込み作戦だ。

 キッチンにつくとまずは赤ちゃんをバウンサーに乗せ、おもちゃを与え待機させる。準備は迅速に、最初は餌だ。食パンをスライスしトースト。続いて卵をフライパンで焼き、粉チーズをふりかける。あとは牛乳をコップに注ぎ、即席のイギリス風朝食の完成だ。これらをテーブルに配膳したらルート確認。寝室からリビングまで一本道になるように扉を閉めていく。そしてうちわで寝室に向けパタパタとあおぐ。最後にテーブル回りに虫かごと粘着テープをセットしていく。虫取り網をひとまずおいて、準備完了。心もとないが限られた時間のなかでは上出来だろう。

 あとは赤ちゃんの瞳で妖精を探すだけという段になったが、育児で散々思い知らされていた苦労はここでも僕を悩ませた。赤ちゃんは口を大きく開けたまま入眠していたのだ。


 トーストの香ばしさと小さな寝息がリビングを満たしていた。起きるまで待てばトーストは冷えきるだろう。妻が先に起きれば冷えきるのは夫婦の関係か。

 となれば赤ちゃんを起こすしかない。それも寝起き泣きをさせて妻にこのイングリッシュブレックファーストがばれる、ということのないように。

 まずはバウンサーをそーっと揺らす。今までここで寝たことがないため、なんなら夜帯に乗せたこともない、起きる加減はまったくわからない。動きがない。少し強めに揺らす。まだだ。さらに強く。さすがに異変を感じ取ったのか、幼い体がもぞもぞと動く。同時に、先ほど与えたカエルのソフビ人形がバウンサーから転がり落ちた。

 プー、という音が響いた。

 しまった、なぜ音が出るものを与えてしまったのか。

 再び訪れる静寂。これを破るのは妻か、子か。僕は静寂を守るべく、じっと待った。

 一秒、二秒、三秒。

 ただ、心の中で数え続けた。

 十秒、十一秒、十二秒。

 赤ちゃんは身じろぎを止め、また深い眠りに沈んでいる。

 三十三秒、三十四秒、三十五秒。

 寝室から気配は感じられない。

 六十秒数えたところで危機は脱したと判断した。作戦再開である。

 バウンサーを揺らしても起きないため、赤ちゃんのほっぺを軽くさする。手で払いのけられたが、まだ目を覚まさない。手の使い方をちゃんと理解していることに感動しつつ、もう一度さする。今度は首を左右にふる。もう少しだ。次は両ほほをむぎゅっとつかむ。首を動かせなくなって違和感を感じたのか、ついに赤ちゃんは目を開いた。

 このまま穏やかにいてくれるか、それとも泣くか。僕は何度目かの張り詰めた空気に喉の渇きを覚え、先ほど注いだミルクを飲み干す。ゴクンという喉の動きすら寝室に届きそうだ。

 幸いにも赤ちゃんは泣かずにじっと僕をみている。慎重に抱きあげ、ついに妖精探索開始だ。赤ちゃんの瞳を見ながら寝室まで進み、妖精の現在地を確認しなければ。そう思った一歩目で何かを踏みつけた。

 ついさっき聞いたばかりのプー、という音は探索開始の合図か、はたまた終了のお知らせか。

 そこに転がってたのね。

 前回と違い、僕は今赤ちゃんを抱いている。じっとすれば泣きじゃくられるのは確実だ。もうどうにでもなれと作戦を強行した。

 災い転じて福となす。カエルを拾い上げると赤ちゃんの目線はそこに向かった。音が出たことにより興味を一心に集めたのだ。僕は左手でカエルを動かしつつ、右手で押さえた赤ちゃんの目線を誘導していった。

 キッチンの天井にはまだいないらしい。

 そのまま廊下に移動したところで、妻が立ちふさがっていることに気づいた。


「あなた、何遊んでるの」

 その声に抑揚はなく、怒りを内に溜め込んでいることはすぐにわかった。

「いや、寝かしつけだよ」

 すぐにバレる嘘だが他に言い訳が思いつかなかった。頭が真っ白だ。

「首が座る前に変に動かさないでって昨日言ったばっかりだよね。しかも片手で抱っこして、何考えてるの」

 この質問の返答次第で爆発する。ただ、うまい言い訳はこれっぽっちも出てこない。こうなったら他人任せ、と僕は赤ちゃんを差し出した。

「ポンちゃんの目を見て」

「もしかして、まだ妖精なんて言ってるの」

「いいから」

 僕は懇願した。妻は不信感もあらわだったが、赤ちゃんの瞳を覗きこんでくれた。

「え、嘘」

 妻から困惑の声があがる。まさかとは思い僕も赤ちゃんの瞳を覗きこむと、そこに妖精が写りこんでいた。ひょっとすると、昔から人間の生活を見続けていた妖精からすれば夫婦の修羅場なんてものは格好のエンターテイメントなのかもしれない。

 俗っぽさに幻想を崩されたが、ともあれ危機は脱した。僕は妻に妖精捕獲作戦の全貌を伝えた。

「何か質問はあるかい」

「捕まえてどうするつもりなの」

 僕は返答につまった。妻に妖精を信じて欲しくて始めたが、それはすでに達成されている。富と名声は得られるかもしれないが、それは捕まえた妖精の自由、最悪命までが奪われることを意味する。僕は赤ちゃんに自分が発見したために彼らの生活が脅かされたなんて重荷を背負わせられなかった。

「お近づきになりたくて」

 口から出た言葉に自分でも驚いた。たしかに、同じ家に住んでいるのでしいい関係は築きたい。

「なら、こんな強行策に出てはいけないと思わない」

 その通りだ。僕は妻に赤ちゃんの寝かしつけをお願いし、捕獲作戦の道具を片付けた。トーストとチーズオムレツ風はラップをかけずに置いておくことに決めた。


 少し仮眠をとったあとリビングに行くと、テーブルの朝食は当然冷めきっていた。よく目を凝らすといくつかかじられた後があるように見えた。

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ポンポンの郊外学習 矢口ひよ @chunchunworld

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