ポンポンの郊外学習
矢口ひよ
お外は物理化学でいっぱい
「あっという間に八ヶ月が過ぎたね」
僕は妻の大きくなったおなかを撫で、その成長を思い返す。
「知ってた?今はおなかを蹴ったときに見えるほどまで膨らむのよ」
揺りかごみたいで胎教にいいという言葉のままに購入したロッキングチェアを揺らしながら、得意気に妻は言う。
もうそこまでだとは。
「本当。早くみたいな。さっそく試していい?」
『ポンポン』という胎児ネームをつけた子はとても優しくて、おなかをポン、ポン、と軽く触れると蹴って返してくれる。
妻の「いいわよ」という許可を得て、僕はさっそくおなかをひとつポン、と触れてみる。
おなかがボコボコと膨らむ。
「わぁすごい。もういっかい」
さらにポン。
「ちょっと、強すぎるわよ」
「ごめん、つい」
おなかのほうはというと、僕の強いタッチに応えてくれたのか、さきほどよりも大きくおなかが揺れる。
そして、足が飛び出した。
僕の人生で一番驚いたのは間違いなくこの時だ。
なんて可愛らしい足なんだろう。小さな五本の指がちょこんとついた、まだ何も踏みつけていないまぁるいお宝。
妻は大きく美しい目をこれでもかと見開いて、今にも眼球がこぼれ落ちそうだった。
幸いにも妻の体から飛び出したのはポンポンだけで済んだ。
しかし、足だけでは終わらなかった。
最初は足首くらいまで突きだしていただけだったのだが、脛、腿とジワジワ伸びていく。右足だけだったのが、すぐに左足も追いかけてきた。
「男の子だよ。青い服を買おう」
「後にしてよ。今産まれるには早いのよ」
そうだ、せめて臨月まではおなかにいてもらわないと。
「わかった、押し戻すよ。痛くないかい?」
「もぞもぞして気持ち悪いけど、痛みはないわ、それより手は洗った?」
「当然」
おなか越しにでも赤ちゃんに触れるんだから、手くらい洗うさ。
僕は意を決してぷっくらした両足を掴もうとするも、手はポンポンをスルリと通り抜けてしまった。
「なにしてるの?」
座ったままの妻からはこちらの様子がよくみえないのだろう。かといって動いて様子を見ようとは思っていないようだ。すでに緊急事態なのに、さらに動くことで胎児にどのような影響を与えるかがわからない。例えば羊水が漏れたりすればポンポンが戻っても子宮は安全な場所でなくなってしまう。僕は冷静な判断をとった妻に、後でアイスクリームを買ってこようと思った。
「それが、ポンポンに触れないんだ」
「この足は本物なの?」
「そうじゃないかな、君も見ただろ?すり抜けなんだ。きっとおなかもそうやって通り抜けたんだと思う、だからおなかは傷ついてないはずだよ」
「優しい子ね、でもそんなことってあるの?」
「原子のすり抜け現象は観測されてるよ。ポンポンほどの大きさだとすり抜けに成功するにはとてつもない回数のチャレンジをしたって不可能なはずなんだけど、きっと赤ちゃんには時間の概念がないからルールを無視できるんだ」
「難しいこと言わないでよ」
「そう言われてもこれ以上簡単に説明できないよ、僕自身深くは理解できていないんだ」
「じゃあなんで知ってるのよ、あなた文系でしょ」
「隣の物知りおじいさんだよ」
妻はしかめ面になり、納得したようだ。何度も聞かされた長話を思い出したのかもしれない。
何度も触ろうと試みるも止めることはできず、ジワジワと透過を続けていたポンポンはついに全貌を現してしまった。
産まれる前から世界一可愛い。
いや、これは“産まれる”にカウントされるんだろうか。
「ねぇ、みえるかい?僕たちの子だよ」
「ええ、可愛い。とてつもなく。抱きたいけど、通り抜けるのよね」
「やってみなよ」
妻は恐る恐る手だけを伸ばし、やはりポンポンをすり抜けた。
一方のポンポンは飛び出したあとそのまま母体を離れていった。今は風船のようにリビングを漂っている。
「どうして飛んでるの?」
「飛行機の場合は循環とかなんとかって言ってたけど、それは全く理解できなかった。聞いてこようか?」
「絶対だめ」
「まぁリビングにいるうちは安心かな、産婦人科に電話してみるよ」
「ええお願い。あとお水ちょうだい、疲れたわ」
予想と違って産婦人科の先生は僕の話を馬鹿にせず聞いてくれたが、肝心の解決策は『お父さん、お母さんの愛があればきっと赤ちゃんは応えてくれますよ』というあやふやなものだった。聞いてくれただけでやっぱりあしらわれているだけかもしれない。
「はいお水」
「どうだった?」
「心配ないよ、ポンポンは優しいから」
妻は納得のいかない顔だが、ひとまずは水を一気に飲み干す。
ポンポンはまだ子宮のなかにいるような丸まった体勢でゆらゆらしている。
「将来は宇宙飛行士かな」
「嫌よ、そんな遠くに行って欲しくない」
「でも親離れはして欲しい。親心って難しいね」
「そうね、だからって何も今親離れしなくても。戻っておいで」
ポンポンはまだ漂っている。
「マイペースだね」
「あなた似よ」
妻の声に不満がこもっていた気がしたが、聞かないことにした。
「おなかは膨らんだままだね」
「動くのが怖いからわからないけど、まるでポンポンがどちらにもいるみたいよ。ここにいなかったとしても、帰ってきたときにお部屋が小さくなってたらイヤでしょうし」
なるほど分裂は考えてなかったなと思いながら、おそらく無人のおなかを撫でる。
「あれ?へその緒、細くない?」
「うそ?え?へその緒が伸びてる」
「質量保存の法則だね。これは学校で習ったよ」
「ポンポンがまだ遠くにいっちゃうってこと?」
二人でポンポンのほうを見ると、ちょうど窓をすり抜けていくところだった。
「大変、追いかけて」
「わかった、君はどうする?」
「へその緒が切れてしまいそうで怖いわ、ここで待ってる」
妻を置いていくのも不安だったので、とりあえずスマホと救急箱、お代わりの水を渡してからへその緒を辿ることにした。
窓の外には洗濯物の上をプカプカと浮かぶポンポンがいた。幸い近くに猫や鳥はいそうにない。窓を動かしたときにへその緒にどのような影響を与えるのか想像もつかなかったので、いっときでも目を離すのも怖かったが素直に玄関から庭へ向かった。
ポンポンは見当たらなかった。
妻の元に帰っていればいいと願ったが、残念ながら蜘蛛の糸ほどのか細いへその緒が揺らめいていたのでポンポンはまだ探検中らしい。
切れてしまいそうな細さのへその緒を触らないよう慎重にたどり、塀の向こうへと行ってしまったのを確認した。そう、ポンポンは隣の家の中へとお邪魔しているのだ。
妻になんて説明したらいいのだろう。
僕は妻に報告を入れずに隣家へ向かった。
インターホンを押すとおばあさんが出てきた。
「はいはーい。あら、このあいだは野菜のおすそ分けありがとうね。そうそう、もらった野菜で煮物を作ったから、良かったら持って帰りなさい。ちょうど今準備してるところだから、さぁさぁ上がって」
「ありがとうございます、後でいただきます。ところで、そちらに赤ちゃんが迷い混んだみたいなんです」
招き入れられながら事情を話す。
「おや?もう産まれたのかい?それはめでたいね。今度赤飯炊いて見に行かせてもらうよ」
「それがまだ産まれてはないんですが、先におなかから飛び出しちゃったんですよ」
怪訝な顔をするおばあさんになんとか状況を説明し、二人で家のなかを探す運びになった。
もう細くなりすぎたのかへその緒を見つけることはできなかったが、ポンポンは幸いにも家の中で見つかった。
ただ場所が問題で、入るのが億劫で一番後回しにしていた書斎のなか、分厚い本を読んでいるおじいさんの真上を漂っていた。あまりにも熱心に読書をしているのか、書斎に入った僕にも、宙に浮かぶポンポンにも気づいていないようだ。
しかしおじいさんの愛猫は違った。ジーっとポンポンを見つめているではないか。
目を惹かれる可愛さなのは認めるけど、まだ猫と遊ばせるには早いんだ、さっさと興味を失ってくれ。
猫とポンポンの間に割って入ったところで、よくやくおじいさんが顔をあげた。
「おお、よく来たな。今日は面白い本が届いてな。君も電話を使うなら電導について興味があるだろう」
おじいさんはいつものペースで難しい話を始めようとするが、今日に限っては聞いている場合ではない。
「いえ、今日は急ぎの事情があって、まず上をみてもらえませんか」
珍しくおじいさんは僕の意見を聞き入れ、書斎を見渡す。ポンポンのいるところにも目をやったはずだが、見過ごした。
「なにもないが」
「ほら、猫ちゃんの視線の先をみてください」
おじいさんは猫をじっと見つめ、そしてポンポンの方向を見やる。
ポンポンはいくつもの視線などおかまいなしにいまだフワフワと漂っている。
足がもぞもぞと動かしている様が可愛い。これがいつも感じている胎動なのか。
僕は誰よりもポンポンを知っていることをとても喜ばしく感じた。
ただ、おじいさんは僕の笑みを別のものと解釈したようだ。
「なるほど、生物による視野の違いだな。人間には見えていないものが猫には見えている。これは言葉通り、本当に見えているものが違うだけだ。もちろん人間のほうが網膜の錐体細胞が多いから見えるもの自体は多いとされている。しかし天井等の暗い部分ではどうか。獲物を探すことに特化した猫の目が優れている瞬間だ」
物理学者だと思っていたのに生物学にまで詳しいとは。
というか、おじいさんにはポンポンが見えていないのか。
「あの、それって人間同士でも違いがありますか」
おじいさんは顔をほころばせ、読んでいた本を閉じた。
しまった、つい質問してしまった。
「いやそのちょうどそこにポン……じゃなかった赤ちゃんがいるんですよ。早くおなかに戻してあげないとどうなるか想像もつかなくて」
「遺伝子情報が何から何までは同じでないのは当たり前のことだろう。違いがないと種としての存続に関わるからな。しかし昨今は環境の変化があまりにも激しく、絶滅種が多い。しかし種の遺伝子はそう変わらない。人間の持つ情報も、私の世代と君の子どもの世代では観測できるほどの違いがあるように思えるが、環境の変化に過ぎないのだ」
スイッチが入ったらしいおじいさんはこちらの話を無視し、持論を続けた。
おばあさんの登場によりようやく解放されたが、すでにポンポンの姿はなかった。
謝るおばあさんに恐縮するも、内心はポンポンをどうやって探すかを考えることに必死だった。もうへその緒を肉眼で確認することは不可能だろう。
「ごめんなさいね。もう少し早く来てれば良かったのに、お鍋に火をかけっぱなしだったから泡がこぼれてしまってね」
泡、温度変化。
試してみる価値はあるぞ。
「ありがとうございます、また煮物もらいにうかがいます」
僕はおばあさんへのあいさつもおざなりに家へ走った。
妻は携帯を握りしめて待ち続けていた。
「ねえ、見つかったの」
「今から呼んでみるよ」
僕は冷蔵庫からあるだけの氷と保冷剤と、あと冷凍食品の袋を取り出して、妻のおなかから少し離れた場所に当ててみた。
「ちょっと、何してるのよ」
「温度を下げてへその緒を収縮させるんだ。短くなればおなかの中におさまるはず」
「なにそれ」とは言いながらも、妻はじっと僕の行く末を見守っていた。
へその緒がまっすぐ伸びているとは限らないので、定期的に氷の位置を変えた。
やがて、へその緒が見えるようになった。
触れないように、氷を近づけ、溶けてきたら変えるを繰り返した。氷がなくなってきたら保冷剤も出動させる。
妻はただ祈っていた。
ついにポンポンが戻ってきた。
今度も透過を成功させ、出てきた窓からゆっくりと入ってくる。
「どこも怪我してない?」
「大丈夫、キレイな肌だよ。気持ち良さそうに目を閉じてる」
さあ、もうちょっとだよ。
僕ももう保冷剤を置き、妻と一緒に祈った。産婦人科の先生も愛に応えてくれると言っていたことだし。
愛してるよ。戻っておいで。
「あなた、ポンポンが帰ってきたわよ」
「おかえり、次は産まれてからのお出かけしようね」
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