砂漠を走れ
山田沙夜
第1話
デパートの紙袋から、なおみさんはまず白ワインのハーフボトルを出した。それから、あれやこれやとお惣菜が並ぶ。
「手間をかけずに、このまま食べよう」
お惣菜のパックの蓋を開けていく。
レタスと水菜のビーンズサラダ、スモークサーモンを乗っけたポテトサラダ、里芋とイカの煮物、大根の煮物、ローストビーフは二枚、イワシの南蛮漬けのイワシも二尾、漬物。塩むすびがふたつ。割り箸。合宿みたいだ。
「なんだか緑が足りないわね」
なおみさんはもうひとつ包み紙を開いて、ふっくら厚みのあるグラスを取りだし、キッチンで手早く洗ってペーパータオルで水気を取り、わたしに見せた。
「このグラスはさこちゃんへ。遅ればせだけど独立祝いとしてもらってね。なんちゃって、先にわたしが使っちゃうけど」
白ワインをグラスにそそぎ、眼の高さでゆっくり揺らす。天井の明かりに透かしたり、ワインごしに窓のカーテンを見たり、矯めつ眇めつ。グラスと透明でうっすら黄色のワインに魅入られている。
まったく酒の飲めないわたしは緑茶をいれて、冷蔵庫から作り置きの田作と浅漬けのきゅうりを出して並べた。
田作を見たなおみさんは、やるわね、という目でわたしを見る。わたしは自慢げな視線を返す。
「さこちゃんは機を見る力があると思うよ。会社を辞める絶妙のタイミングだったな」
「この三ヶ月は先のことばかり考えてしまって、眠れない夜ばかりです」
「踏んばりどころね。このまま踏んばり続けなきゃいけないにしても、踏んばるしかない。わたしは来年三月に定年だけど、どうしても逃げ切った感があるもの」
「退職金に年金、勝ち組感もありますね。正直、うらやましいです」
「そこはね、生きてきた時代が違うというだけのことよ……。この先の世の中の変化は、今まで以上に大きくて、激動だと思う。そういう時代だったとしても、やっぱり踏んばるしかない。ガンバロ」
ワインと緑茶で乾杯する。
就職してから十年、家族以外のこの部屋の訪問者はなおみさんが初めてだ。みんなでわいわいするのは、どこかのお店で。ポリシーとまではいかないが、そうしてきた。
「クリエイティブルームで退社するのは、わたしだけでしたね。二人とか三人とか辞めると思ってました」
二人とか三人とか、特定の顔を思い浮かべる。彼らと彼女は、後日、やはり辞めるような気がする。もしかしたらなおみさんの定年よりも早く。
「フリーランスになるの、怖かったでしょ」
わたしは大きく頷く。声をかけてくれたプロダクションもあった。迷いに迷って、仕事くださいと頭を下げた。
「その怖さって、乗り越えるのは勇気が要るよ。よく決心した」
なおみさんは拳を握ってみせる。
「でもね、来年はクリエイティブルームを廃止すると社長と会長が顔をそろえて言ったのよ。宣告したの。クリエイター諸君はわかってんのかなぁ」
「それを聞いた時、わたしは震えました。お先真っ暗な気がして怖かったです。もしかしたら営業になるかもしれないと思いました。部屋がなくなったら、どこかのフロア、どこかの事業部へ配置されるんでしょうね」
わたしは描いて対価を得たい。
うーん、となおみさんは首を傾げる。
「どうもね、若旦那というか次期社長はIT関連の事業をやりたがってる風だよね。どっちにしろ広告事業は縮小してくだろうし」
わたしもそんな気がしていた。その先のクリエイティブルームがイメージできなくて、歯を食いしばって退社したのだ。おかげでこの三ヶ月、不安で不安で心配ばかりの中にいる。
「わたしも定年退職したらフリーでやれることをしていこうと思ってる。先駆者がいると心強いわ」
わたしが自分を指差すと、なおみさんは頷いて楽しそうに笑った。身近に経験豊かなデザイナーがいるなんて、わたしも心強い。
「……なんの音かしら?」
「ハムスターです。夜行性なので、やっと眼を覚ましたみたい。回し車で走ってるんです」
「なんて名まえ?」
「ムスタ」
一瞬の間をおいて、なおみさんは笑いながら立ちあがりケージをのぞいた。
ムスタは回し車に乗ったままフリーズした。フリーズしたまま約十秒、また軽やかに回し車で走りはじめる。
「かわいいわね。一所懸命走ってる。どこまで走るのかしら」
「どこまでも」
ムスタは走り、ときどき止まってじっとして、また走るを繰り返す。
「どこを見てるのかな? 百草丸みたいなその眼で、きみはなにを見てるの?」
「砂漠です」
ムスタは砂漠を見ている。
「ハムスターってシリアあたりが故郷らしいんですよ。野生のハムスターは絶滅したと言われてるんですけどね」
「遺伝子が砂漠を走らせるのね。ムスタくんが砂丘を越えていく後ろ姿が眼に浮かぶわ」
まゆみさんが涙ぐんで、わたしもつられた。
「ダーウィンが来た、で野生のハムスターを発見してくれないかな」
そう言って、まゆみさんは帰っていった。明日は土曜、とりあえず目覚ましをかけずに眠るわ、とも言った。
夜の続きは、ムスタが走る足音を聞きながら、塗り絵を描いている。未就学児が楽しめる塗り絵を三〇種類作る。
会社員だったころ、「ないしょでバイトしない?」とイベントルームの某氏が耳打ちしてきた。
「仲間内で子ども向けのゲーム大会をする予定なんだけど、会場に子どもたちのための塗り絵があると楽しいと思うんだ」
その時は塗り絵を一〇種類描いて、某氏はきっちりバイト代を支払ってくれた。
「評判よかった、助かったよ。ありがとね」
すごく嬉しかった。わたしにとって大事な経験になった。
その某氏はとっくに退社してイベント会社を立ちあげている。
「こども広場のイベントをするから、植物と動物で塗り絵を三〇枚つくってね」
はーい、ありがとうございます。
ムスタが砂漠を走る夜、わたしは仕事に精をだす。
noteより転載(2018/10/18擱筆)
砂漠を走れ 山田沙夜 @yamadasayo
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