第16話 記念日

 春休み中には会えなかった。俺よりみさきさんが多忙となり、結局会えたのは五月の連休中だ。

 普段よりも熱いシャワーを浴びると少しは落ち着くんじゃないかと思ったが、意味の成さない行為だった。むしろ、肌がヒリヒリするだけで良いことなんか何もない。冷水とまではいかないが、温めのお湯をかけたら、いくらか冷静になれた。

 壁としては無意味なガラスの向こうを見ると、想い人と目が合った。大人の余裕というか、縮こまるのは俺で、一度身体を洗ったのにもう一度泡まみれにした。

 バスルームとベッドルームを隔てる壁がガラスなんて、聞いたことがない。みさきさんに連れられるままホテルにやってきたのはいいが、けろっとしている彼とは正反対に、通ってきた獣道は違うと突きつけられた。

「長かったね」

「みさきさんのせいだ」

 俺の身勝手な八つ当たりに、みさきさんは微笑んだ。子供じみた行為なんて、お見通しだろう。

 心を落ち着かなくさせる香りは、アジアンショップで嗅いだことのある。棚から悶々と煙が出ている。隠れ身の術、なんて園児みたいなことをしたみさきさんには、口封じの刑をお見舞いしてやった。

「最初は口でする?」

 口に含んだお茶が出そうになった。首を振り、全力で断った。断った後、少しだけ後悔した。

 バスローブ越しの身体に触れると、シャワーの後だからか熱い。

「見てもいい?」

「ガラス越しに散々見てたよね」

「チラ見してただけだ」

「ふふ……僕も」



 

 身体の相性が良いのか悪いのか、初めての俺には分からないが、気持ち良かった。

 みさきさんは放心状態の後、お腹が小刻みに震え出した。分かっている。あまりにも早すぎた。持ちこたえはしなかった、俺の欲求。

「一緒にお風呂入ろっか」

「まだ笑ってる」

「ごめんって。必死なのがおかしくて。気持ち良かったよ」

「……もっと持つように頑張る」

「こういうのは頑張るんじゃなくて、ふたりで楽しむものなの」

 ガラスの壁の向こうに行き、一緒にシャワーを浴びた。身体を洗って、悪戯して、時間ぎりぎりまでバスルームで過ごした。幸せだ。刺激も、ほっとするコーンスープみたいな暖かさもくれる。

「身体が怠い。ジムでも通うかな」

「僕も通おうかな……若い人の体力についていけるか心配になってきた」

「みさきさんはそのままでいいよ」

「なんで?」

「触り心地がいいから」

 久しぶりのパンチを受けた。

「別に痩せろとか言ってないって。筋肉ついてない身体にぷにっとしてるのが良いってだけで」

「ほら、結局身体鍛えろってことじゃん! むきむきになってやる」

 みさきさんのむきむきを想像してみた。それはそれで、ギャップがあっていいかもしれない。首より上が可愛いのが良くない。いろいろしたくなる。下も可愛いけれど。

 ホテル街を出て、どこに行くか提案をする前に、みさきさんはケーキ屋に吸い込まれていく。ガラスの向こうには可愛らしい甘味が並ぶ。

 道路を挟んだ向こうで、男性が一人立ち止まった。視線の先は俺だ。

「あいつ…………」

 記憶から抜け落ちていたせいで、欠片を拾うのに時間がかかった。

 同じクラスだった、古賀だった。昔見た化け物を見るような目ではなく、人間らしい驚いた目だ。クラスメイトでもなくなった今、赤の他人でしかなく、声をかけるのもおかしい気がした。ましてや彼とは友情関係を築いたこともない。

 彼の視線は俺の陰に移った。咄嗟に彼に覆い被さり、肩に手を置く。

「他のケーキ屋も探さないか?」

「僕のアップルパイ……」

「いろいろ見てから決めようぜ」

「うん…………」

 まだ納得していない彼の手を握り、足早にその場を去った。

 彼もあのときのままなんてことはない。古賀だって成長し続けているだろう。人間の目から遮ったのは、俺が彼を信用していないから。またみさきさんに対して何かするのではないかと、不安と不審で頭がごっちゃになっている。一生かけて、俺は彼に信頼を寄せることはないだろう。失ったものは大きすぎる。

 結局、駅前のケーキ屋に決まった。中では誰かが買い物をしている。見覚えのある後ろ姿だ。長い髪を一つにまとめ、上から下までガラスケースの中を覗いていた。

「…………薫子さん?」

 彼女は驚愕し、こちらを向いた。

「どうしたの? あっケーキを買いに?」

「いや、買うっていうか……」

 後ろから小突かれた。

「いやいや、買いにきた。アップルパイを」

「アップルパイ? 食べたいの? ならアップルパイにしよっか。雅人君の家に行くつもりだったんだけど、アップルパイのホールケーキにする?」

「……そうする?」

 俺も振り返ると、みさきさんは困り果てている。

「お友達と一緒なの?」

「友達じゃない。恋人と」

「え」

 彼が自分から前に出るのを待った。それくらいの絆はあると信じている。すると、みさきさんはすんなりと前に出て頭を下げた。

「え……あなたは確か……」

「何度か、和菓子店へお邪魔したことがあります」

 家に来るかどうかは困惑しているのに、堂々と、みさきさんは前に出た。はにかみながら、教師だった頃の面影も見せずに。

 薫子さんはホールでアップルパイを購入し、店を後にした。

 親父にみさきさんも連れて行くと伝え、三人で岐路に就いた。決めたのは俺なのに、胃が痛くなってきた。息子が初めてセックスをし、大人の階段を上った後だ。気まずすぎる。言い出しっぺの俺がしっかりしないといけないのに、気づけばみさきさんに助けを求めている。

「石鹸の匂いをさせてると変に思われねえかな」

「精液くさい方が変に思われるよ。っていうか、なんの心配してるの」

「会いづらい」

「どうせ家に帰るんだから、覚悟を決めて」

「はい」

 成り行きとはいえ、いずれ薫子さんとも会ってもらうつもりだったし、良いタイミングだったのかもしれない。ラブホテル帰りでなければ。

 玄関先で三人立ち止まった。俺が先に入るべきなのに、なかなか足が動かない。業を煮やしてか、みさきさんがチャイムのボタンを押してしまった。

「あっちょっ」

「もう、自分の家でしょ」

 親父の声が聞こえる。俺より早かったのは、みさきさんだった。

「こんにちは。星宮みさきです。息子さんを送り届けに来ました」

『わざわざすみません。どうぞ中へ入って下さい』

「ありがとうございます」

 みさきさんが男を決めてくれた。あとは俺の出番だ。石鹸の匂いを放出させながら、玄関のドアを開けた。

「おう、帰ったか。みさきさんも薫子さんも、どうぞ上がって下さい」

「お邪魔します」

 お茶の準備をしている親父に、薫子さんは手伝うとキッチンに入ってしまった。薫子さんは何の用で来たのだろう。切り分けられたアップルパイは、蜜煮の大きなリンゴが入っている。

「家族も揃ったし、ちょうどいいな。ふたりにも話がある」

 親父の言葉に、みさきさんの肩が揺れる。

「前に車の中で話したが、お前が大学を卒業するタイミングで、正式に籍を入れようと思うんだ」

「そっか。良かったな」

 素っ気なかったのか、俺の言い方に不平不満の顔だ。

「そっちで決めていいって言ったろ」

「ああ。薫子さんの家族にも、ちゃんと挨拶に行こうと思うんだ。そのときは、みさきさんもご一緒して頂きたいんですが」

「私もですか?」

「もちろんです。家族ですから」

「でも……結婚はできないですし……」

 みさきさんのたまに出る後ろめたさはそこだ。前ほどではなくても、猫が通るくらいの隙間から少し顔を出す。俺が閉めようとすると勝手に施錠し、何事もなかったかのような態度を取る。苛々してしまい、たまに喧嘩の原因にもなる。

「渋谷のなんとかっていう条例だったり、いろいろあるでしょう。それはふたりで話し合いなさい」

 肩に乗ったものが軽くなった。パートナーシップはあるが、家族から後押しされると重荷の降り方が違う。

 改めて、薫子さんにみさきさんを紹介した。ずっと笑っていて、心の奥では何を思うのか。緊張していたみさきさんも、少しだけ自分のことを話していた。すぐに仲良くなれとは思わない。一定の距離を空けて、上手く付き合える間柄もあるだろう。

 夕食も一緒にと親父はすすめたが、みさきさんは首を縦に振らなかった。仕事を理由に帰ると言い、俺も送ると席を立つ。本当は、みさきさんは明日も仕事が休みだ。

 嘘を吐いたみさきさんは、しおらしい。可愛くて手を握ってみると、握り返してきた。

「ごめん、嘘吐きだ……僕は」

「別にいいよ。なんとなく分かるし。遠慮する気持ちも、結婚できる二人を目の当たりにすると、もわっとする気持ちも。別に別れたいって意味じゃないからな?」

「うん、だいたいそんな感じ」

 みさきさんの視線は、一瞬だけ俺の胸元へ向く。光るネックレスは、高校を卒業してから肌身離さず身につけている。

「なんか、悩みって尽きないな」

「……さっき、僕をかくまってくれたでしょう?」

「何が? 嘘吐いたことなら気にする必要ない」

「古賀君のこと」

 俺は足を止めた。

「僕と目が合ったら、頭を下げたんだ。見た目も変わっててびっくりした」

「あいつなりに、変わろうとしてるのかもな。俺はもう近づきたくないけど。この気持ちは、俺は止まったままだ」

「それは僕もだよ。雅人君が歩いてくれなかったら、固まったままだった」

 会話の内容とは打って変わり、みさきさんはなぜか笑っている。

「急にどうした?」

「うん、あのね……今日一日だけで雅人君のいろんな顔を見たなあって思って」

「いろんな顔? どんな?」

「最初会ったときは飢えた野獣みたいだった。いろいろ終わった後はすっきりしていて、お父様とお会いする前は、子猫みたい。今は大人びてる」

「飢えた野獣は認める。まったく余裕がなかった」

「次もしようね」

「お、おう……」

 人生の先輩で、今は引っ張ってもらっている状況だが、ふたりで住むことになったら、それは俺から話を持ち出そう。それがいい、そうすべきだと後押ししてくれているのか、胸元のネックレスもきらりと光った。

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ミサキの星空 不来方しい @kozukatashii

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