第15話 それぞれの歩む道
胸元につけた花がくすぐったくて、取ってしまいたい衝動に駆られる。この先、二度と同じ経験ができないと思えば、しばらくここまででいいかと思えてきた。
後ろでわんわん泣いている大の大人に見ないふりをしていると、名前を呼ばれクラスで笑い者にされてしまった。親の愛であっても、これは受け入れられない。くすぐったくもない。あとで話し合いという名がついたひと悶着があるだろう。
三年間共にしてきた仲間とは今日でお別れだ。ほとんど話したことがない者、部活で一緒だった者、二度と会うことがない者。それぞれの人生を謳歌し、またどこかですれ違うのかもしれない。
最後の最後まで、副担任もとい担任は淡々としていた。涙を流すこともない。余計なことを話さない仕事人だった。話が長くない分、簡潔で分かりやすい人でもあった。
「またな」
「そっちも頑張ってよ」
世良とはこの言葉だけで充分だ。抱き合って泣くような間柄でもない。部活で得られたものは大きかった。後輩たちへの受け継ぎも終わったし、これからどうなるかは俺たちが道筋を示すつもりはない。
卒業式を終え、高校を出てしまえば俺はここの生徒ではなくなる。泣き喚く親父に他人のふりをしたかったが、残念ながらもう遅い。
「親父、あのさ、この後の予定は?」
「どうした? 何かあるのか?」
「一緒に食事に行ってほしい」
なんとなく、察してくれたに違いない。実はとある和食店で待ち人がいる。
「分かった」
クラスメイトが残る中、俺は後ろを振り向くこともなく校舎を後にした。後ろより、これから待ち受けている未来を共にする人の方が、何倍も大事だった。親父の車に乗り込んだ。当たり前に運転してくれる事実は有り難みを感じられる。免許を取るのにひと苦労だった。
「そこ、右」
「緊張する」
「俺の方が緊張してるって」
小競り合いも覇気がない。親父としても、こんなに早くやってくるとは夢にも思わなかっただろう。実は俺もだ。食事の話は、一週間前に聞かされたばかりだから。
駐車場には見慣れた車がある。卒業式の時期が被り、隙間なく埋まっていた。
「予約した星宮ですが」
「ご案内致します」
卒業式で名前を呼ばれるより緊張した瞬間だった。同じ名字を、いつか分かち合いたい。
座敷では、正座のまま外を眺めるみさきさんがいた。緊張しているのはお互い様だ。みさきさんは口をまっすぐに閉じていたが、俺を見ると立ち上がり、花束を渡してきた。
「卒業おめでとう。立派になったね」
「ありがとう」
こんな大きな花束は見たこともないし、受け取った記憶もない。みさきさんの気持ちと、これからの人生への期待の表れだ。
みさきさんは俺の隣にいる親父に向き、これでもかというほど頭を下げた。
「初めまして。星宮みさきと申します。息子さんと……お付き合いをしております」
「こちらこそ、お世話になっております」
「最後まで……彼を支えてあげられませんでした。教師失格です。挙げ句の果てに、大事なご子息に手を出しました」
正確には手を出していないし、出されてもいない。親父には言えないが。
俺はみさきさん側に腰を下ろした。そうするべきだと思った。これからの未来はみさきさんと歩むと、俺なりの意思表示だ。
たくさんの料理が並んでも、なかなか箸が進まない。みさきさんは下を俯いたままでいて、口を出すなと忠告を受けていても自然と口が開いてしまった。
「前に行ったけど、男だからとか今さらだからな」
「そうだなあ……。星宮さんは、ずっと男性とお付き合いを?」
「男性以外、好きになったことはありません。雅人君で二人目です。彼に会う前……僕は教師をしながら荒れた生活を送っていました。ゲイバーに通い、行きずりの身体の関係を何度も持ってきました。家に帰ろうと思っていた矢先、生徒だった雅人君にばったり会い、酔いつぶれていた僕を介抱してくれました」
「……………………」
「生徒との揉め事があったとき、一目散に駆け寄ってくれ、保健室まで運んでくれました」
「それは古賀君のことですね? 風の噂程度ですが、定時制の高校に通うと聞きました」
「そうですか」
古賀の反省の表れかもしれないが、俺は許すことはできない。例えみさきさんが許しても。ただ、古賀の人生を邪魔しようとも思わない。
「ことあるごとに、彼は僕を助けてくれました。生徒であるにもかかわらず、好きになる気持ちは止められませんでした」
「それは雅人もか?」
「ああ」
「本当に今さらですが……ご挨拶が遅れてしまったこと、申し訳なく思っております。正式に彼とお付き合いの話が出たタイミングでは、私は教師を辞めて無職でした。真剣に思うほど、余計にご挨拶をするタイミングではないと考えました」
「今は何の仕事を?」
「プラネタリウムで働いております」
教師だと名乗るときより、気力があって俺は好きだ。地に足をつけて、しっかりと働いている。
「名字にふさわしい職業ですね」
「自分でもそう思っています。星が好きなんです」
飲み物がきたところでようやく乾杯できた。緊張感はあるものの、対面したときよりリラックスはできている。
「こちらもいろいろ考えていました。まさか男性で、元担任を好きになったと聞いたときは、言葉が出なかった。戸惑いもありました」
好きになった俺だってよく分からなかった。横槍を入れようとしたが、水を差すべきではない。
「正直……最初は気の迷いだと思っていました。タクシーであなたの家に行くと聞いたときは、息子がストーカーにならないか心配したものです」
「そっちの心配かよ」
「嫌がっていない星宮さんを見て、今はほっとしております」
「まさか……雅人君に救われているのは私です。実家の場所を教えたわけではないのに、実家付近の写真を見て辿ってきてくれたのですから……驚きはしましたが、それほど生徒に好かれた経験もないもので、涙の我慢はできなかったです。純粋に嬉しかった」
「……………………」
親父、そんな目で見るな。ストーカー気質は自覚がある。
「父として応援したいところですが、これからも困惑してしまうときがくるかもしれません。それは男性同士ということに限らず、自分の人生は自分しか体験したことがないからです。息子が芸能人になりたい、教師になりたい、海外に行きたいと言っても戸惑うでしょう。経験がないからです。戸惑った分、あなた方を知り、一緒に乗り越えていけたらという気持ちです」
大人としての敬意と理解をしようとする懐の深さは、嘘を綺麗に並べられるより突き刺さる。
「息子を、どうぞよろしくお願いします」
「…………はい」
精一杯の返事は、親父に伝わったと信じている。
スーツ姿なんて普段は見られないので、俺は尻目に堪能しながら料理に手をつけた。
同棲の話になったが、俺は実家から通える範囲の大学であり、アルバイトをしながら大学と行き来する生活だ。みさきさんも悩んだ末、祖母の家から通う道を選んでいる。
食事の後は、みさきさんと別れ、近いうちにまた会う約束をした。
馴染んだ自室もあと四年。それまで、お世話になる選択肢を選んだ。ベッドにダイヴしごろごろしていると、凝り固まった緊張が解れてきた。
車の中で、親父は「良い人に出会って良かったな」と言ってくれた。親父への紹介もできて、ある程度の山場は越えたのではないかと思う。そのうち、薫子さんにも紹介したい。俺が大学を卒業するタイミングで結婚すると、車の中で話していた。俺への配慮はいらないと言っても、きっと聞き入れてはくれないだろう。そうか、と一言返すだけに留めた。俺が高校を卒業してから、大学を卒業してから、成人を迎えてから、といろんなことを話し合ったに違いない。二人の思いやりを、無駄にしたくない。
落ち着いたところで、みさきさんにメールを入れてみた。最初は躊躇っていた「報連相」も、今ではできるようになっていた。
──家に着いた?
──電話していい?
──もちろん。
質問に質問に返された。嬉しい返事だ。
『ふふー』
「ご機嫌だな。泣き止んだ?」
『うん、もう大丈夫。何してた?』
「ベッドにいた」
心に引っかかっていて、けれど受験もあってなかなか言い出せなかったことがある。チャンスは今だ。
「あー」
『あー? うー?』
「あのさ、」
『どうしたの?』
「……もっと幸せになりたい」
『そうだね』
「みさきさんも?」
『今もとっても幸せだけど』
「そうだけどさ……」
みさきさんは待っていてくれる。俺が勇気を出して伝えなければならない。
「……みさきさんと、セックスしたい」
電話の向こうでは、声にならない息が漏れた。
「俺、経験ないけど……」
『うん、知ってる』
言葉の暴力って怖い。しかも半笑い。
「元国語の教師だろっ……すげー傷つく」
『ふふ、僕が初めてになるだろうし、嬉しくて。次会ったときにする?』
「いいのか?」
『僕もずっと考えてたことだから』
ありがとう。ありがとう。ありがとう。すべてに対し、感謝したい。
『入学式まで、一度くらい会えるかな? 忙しい?』
「大丈夫。全然忙しくない」
『高校入学とはまた違うし、引っ越しもないもんね。でも無理はしないでね』
「大丈夫。会う」
二度、大丈夫と言ってしまった。また半笑いが聞こえてくる。どうせ、こっちは必死だよ。
来週のみさきさんの休みに合おうと約束し、電話を切った。
大学の授業より、勉強しなければならないことがある。前々から調べていたが、生々しくて端末から何度も目を逸らし、動画のストップボタンを押しながら勉学に励んでいた。
経験の差は圧倒的に出るだろう。かといって、任せてばかりもプライドが許さない。
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