とうかん様

富佐野

とうかん様

 全く以て、迷惑な話である。

 いつから始まったのかは私にも分からない。つい先日かもしれないし、百年をさかのぼるかもしれない。

 ここ貫名(かんな)町は、町自体は山に囲まれた静かな場所だ。特に紹介するところもない平凡な町なのだけども、近隣の都市同士が行き来する際の要所になっているせいかごみが多かった。

 行きかう人々が捨てるごみ、それに便乗して町の者の一部も不法投棄を繰り返していると見え、いくら掃除しても終わりがない。

 特にひどいのが町の出入り口となっている東の道路の脇である。私が知る限りでもそこに捨てられるごみは多種多様だ。

 空き缶、ペットボトル、たばこ、弁当の容器、片方だけのサンダル、中には箪笥まである。持ってくるのも大変だっただろうに。

 その道路――古くは東貫(とうかん)街道と呼ばれていた――は山の中を通っていて、周囲に人目がないせいもあるかもしれない。

 道の脇には『ポイ捨て禁止』『森をきれいに』『ゴミを捨ててはいけません』なんてことを書いた看板がいくつも建っているのだが、効果はなかったようだ。そこで町内会の誰かの提案で、東貫街道でもっともごみが多く捨てられる場所――大きく曲がっている地点――に、簡易な鳥居が置かれることになった。

 この国の人間は、そこに鳥居があるだけで何となくごみを捨てることができなくなるらしい。奇妙なことだ。

 鳥居の効果は看板よりもずっと強く、ごみの数はぐんと減った。

 町の人間たち、とりわけごみを掃除する立場だった町内会の者たちは大いに喜んで、鳥居様様であると家族や友人に話したという。

「じゃあ、その鳥居の神さまってどんなの?」

 これは、そんな中で交わされた会話のひとつである。

 町内会の集まりから帰った多田巧は、小学生の孫娘に鳥居の話をした。

 今年三年生になった孫の詩織も、減る気配のない道端のごみに子供ながら不愉快な思いをしていたのだ。

 子供会でも何回かに一回はごみ拾いをすることになるから、そんなのは楽しくないと祖父に語っていたのである。

 そんな詩織はごみが少しでも減ったことを素直に喜んで、次いでその純粋な疑問を口にした。

「鳥居って神社にあるのと同じでしょ? じゃあ神さまがいるんじゃないの?」

 巧は、孫の問いに思わず頬をゆるめながら答えた。

「いやいや、神さまは祠にいるんだよ。神社で言うと、お社……鈴を鳴らしてお参りをするところだね。だから、鳥居があるからって神様がいることにはならないんだ」

「でも神さまがいるからゴミ捨てする人が減ったんじゃないの?」

「それは、鳥居を見て気後れするから捨てなくなるんだよ。鳥居は神様のおうちの目印みたいなものだからね」

「ふうん……?」

 正直に言って、巧の説明はうまいとは言い難かっただろう。名前とは正反対である。

 その証拠に、孫の詩織はこの時こんな解釈をしている。

 鳥居のおかげでポイ捨てが減った、鳥居は神さまがいる目印、なら鳥居があるなら神さまがいるはず、だったらゴミが減ったのは神さまのおかげだ。その神さまには家がない――。

 彼女が言う家はイコール社のことである。それはともかく、そんな解釈をした詩織の思考は「家のない神さま、かわいそう」というところに着地した。

 そして祖父に「神さまのお家、作ってあげて」と頼んだのである。これを受けた祖父・巧の方も簡素でも社があればポイ捨てはもっと減るだろうと考え、町内会で提案してみようと孫に約束した。

 結果、彼の提案は会の方でも受け入れられ、東貫街道の湾曲部には鳥居の奥に小さな社が建てられることになった。

 社といっても、大したものではない。鳥居が細い棒を組み合わせただけの簡素なものであるのと同様に、社も廃材の木材を合体させただけである。

 地面に柱となる木片を四本突き刺し、その周りを薄い板で打ち付け四角柱の形にする。その上に同じく薄い板を斜めに打ち付けただけの屋根を乗せて、固定すれば完成だ。

 もちろん、ご神体なぞない。本当に見た目だけである。それでも効果はあったようで、街道の湾曲部にごみが捨てられることはほとんどなくなった。町内会としては万々歳といったところだろう。

 この空っぽの社が、私にとっては非常にはた迷惑だったのである。



 とうかん様のうわさがいつから流れているのか、光原綾香(みつはらあやか)は知らない。そもそも気にしたことがなかった。

 とうかん様とは、街外れの道沿いに建てられた小さな社のことだ。うわさが本当ならば『なくし物を見つけてくれる、または大事なものを与えてくれる』というご利益を持っている。

 その由来については、誰もよく知らない。ただ、信ぴょう性があるとされるうわさは流れていた。

 それは次のようなものだ。

 とうかん様は元々山に住んでいた鬼で、人々からあらゆるものを奪って苦しめていた。そこを退治されて改心し、今では失せ物探し/宝授けの神として人を助けるようになった。

 とうかん様の社や鳥居は小さいだけでなく、廃材を組み合わせたようなとても粗末な作りなのだが、それもまた社の材料すら人々に分け与えたからである。

 また、とうかん様が授けてくれるという大事なものが転じて恋人や赤ん坊となり、恋愛成就安産祈願のご利益もあるとしてさらに人々の心をつかんだ。

 とうかん様は街外れの道が大きくカーブしているところにあり、近づくには車しかない。

 歩いていくことも不可能ではないが、町から森の中の道をずっと進んでいくわけだから片道一時間は覚悟したいところだ。

 だからとうかん様に行きたいときは、車やバイク、さもなくば電動自転車に乗っていくのだが、それらの車両を停められる場所はない。自転車やバイクならガードレール横に停められなくもないが、車は無理だ。

 しかし車でしか行けない人もいるし、車でそこを通ったときにせっかくだからとお参りしたくなる人もいる。

 そういう人は、カーブでスピードが落ちた時にとうかん様の社に向かって願い事を言いながら小銭を投げればいいのだ。

 そうすることで、とうかん様は願いを聞いてくれる。

 作法云々は、元鬼の神さまだからそこまでうるさくないのだ。

 そもそもとうかん様の名前自体が「投函」から来ているのだからお賽銭は投げ入れるのが本来の作法だ、と主張する人もいる。

 この方法が広がった為、とうかん様の社の周りには五円玉や十円玉がたくさん散らばっている。場所が場所だし、仮にもお賽銭だから拾う人間はほとんどいない。一度、こづかいのつもりで拾った小学生が事故にあった、という話もあるからなおさらだ。

 こういった理由から、とうかん様はこの貫名町一帯の若者たちから信仰を集める――いわばアイドル的存在と言えるだろう。

「いやアイドルはないでしょ」

 休憩時間でざわめく教室の中。スマホをいじりながら竹野泉美(たけのいずみ)は鼻で笑うようにそう言った。

「もののたとえだってば。でも似たようなものじゃない? だってみんな知ってるし、大好きなんだよ。とうかん様」

「野良猫がエサをくれる人に群がってるみたいねえ」

 泉美の無慈悲なたとえ方に、今度は綾香の方が笑ってしまう。

 ここでようやく泉美はスマホから顔を上げた。

「で、そのとうかん様とやらがどうしたの? 行きたいの?」

「いや、私じゃなくて、篠山がね」

「しのやま? 誰?」

「こらこら。クラスメイトでしょうに。篠山司(しのやまつかさ)。ほら、前髪が長い、あのちょっと暗い感じの。覚えてない?」

「ああ……あいつか。で、その篠山がどうしたって?」

「とうかん様について騒いでるの。ほら、とうかん様のおかげで憧れの人と付き合えたってめずらしくはしゃいでたじゃない」

「そうだったっけ? まったく記憶にないなあ」

「そうだったの。で、とうかん様の社をもっと立派なものに建て替えようって今募金の計画立ててるんだって。それに協力してほしいって頼まれたの。他のクラスの人にも声かけて回ってるみたい」

「え、バカなの?」

「こらこら。オブラートは忘れずに」

「頭が心配」

「うーん、ダメだこりゃ」

 両手の手のひらを天井に向け、肩をすくめるジェスチャーをした綾香を見て、泉美は思わず吹き出す。その後は二人で大笑いした。



 どうしてこうなるのかと頭を抱えたい気分である。

 東幹街道の湾曲部に簡素な鳥居と社が設けられ、ごみが捨てられる頻度はぐっと減った。それはいい。いいことだ。

 ただ、鳥居だけでなく社まで建ったことで、いつからか「とうかん様」なんてうわさが流れるようになってしまった。

 名前がつくことで、空っぽの社は知る人ぞ知る――実際は町の若者の大半が知っていたようだが――霊験あらたかな神社ということになってしまったのである。

 しかもうわさにある「とうかん様」のご利益とやらは、失せ物探しや宝授けになっているらしい。

 失せ物はまだしも、己の宝くらい己で見つければいいだろうに。

 とりあえず、ごみ捨て防止に端を発する社が「物を大事にせよ」と言わんばかりの神徳を持つとされるのは納得できた。

 それはさておき。

 問題は「とうかん様」が集めた人間たちが賽銭や供物と称して色々なものを置いていくことである。

 社や鳥居周りの茂みに散らばった無数の小銭。供物のつもりらしい缶ジュースやペットボトル。果物は虫がたかるからやめるべきだ。

 社の中には「とうかん様」に授けてほしいものとその理由を綴った手紙が何十枚も放り込まれている。廃材を集めただけの社だから、手紙を差し込めるくらいの隙間が屋根の下にあるのだ。

 それらには皆大なり小なり人の思いがこもっている。浅はかな現世利益を求める欲望が元だとしても、いらないから捨てられるごみとはそういう意味では別物だろう。

 だが、無用の長物こそをごみと呼ぶなら、やはりこれらもその一種には違いないのである。

 ごみ捨て防止の社がごみを集めるなんて、こんな馬鹿な話があるだろうか!

 最近では、特に用事もないのに興味本位で社を訪れる者もちらほら出始めている。そういう者たちは「とうかん様」のうわさを頭から信じていないから、菓子パンの袋や空き缶、ペットボトルなどのごみも平気で捨てていく。

 全く、これが迷惑でなくてなんだというのだろう。



 まさか「とうかん様」の名前をテレビから聞く日が来るなど、綾香は考えたこともなかった。

 十月の第二火曜日。高校から帰った綾香は、特に意味もなくテレビをつけた。

 その時ちょうど流れていたローカルニュース番組のキャスターが「とうかん様」の名前を口にしたのだ。あわてて報道の内容に耳を傾けるが、どうにもよく分からない。

 仕方なくスマホで検索をかけると、それらしいニュース記事を見つけた。

 記事によると「とうかん様」のうわさを検証しようとした無名ユーチューバーが事故に遭い、意識不明の重体になったとのことだ。

 記事には頭蓋骨を折る大けがとある。

 ただ、綾香は首を傾げた。なぜなら「とうかん様」の周りはうっそうとした森が広がっているだけで、記事にあるようなケガをするような場所ではないからだ。

 頭蓋骨骨折と聞くと、綾香などはとっさに高所からの転落をイメージする。だが「とうかん様」がある道は大きく曲がってこそいるが、人が落ちるような崖はない。少なくとも綾香は知らない。

 もしかしたら「とうかん様」の社の奥、森の中にまで入ればあるのかもしれないが、社を撮影しに行った人がそんなところにまで進むのかという疑問は残る。

 別の記事を見てみると、どうやら重体になっている人はガードレールに頭をぶつけたと見られていることが分かった。頭蓋骨が折れるくらいなのだから、相当いきおいよく倒れたのだ。

 虫か何かにおどろいて足を滑らせでもしたのかもしれない、と綾香は納得した。

 さらに別の記事では、そのユーチューバーがけがをした当時撮影していた映像を載せている。

 綾香は興味本位から、その映像の再生ボタンをタップした。

『皆さんこんばんは~! ジャンハムでーす! ジャンガリアンハムスターがこの世で一番好きだからジャンハム! 今日は町でうわさの「とうかん様」の社から、生中継でお送りしまーす!』

 記事に載せる際に手を加えたのか、機械で加工された声が響いた。

 映像を見ると、顔にモザイクのかかった男性がアップで映っている。ぼんやりわかる輪郭だけ見ていると、頬袋に餌を詰めたハムスターが思い浮かんだ。

 アングルを見るに、自撮り棒を使っている。夜に撮影されたらしく、背景は暗かった。

 男性が持っている懐中電灯に照らされて森の木々や茂みが映し出される。その中に「とうかん様」の社と鳥居が浮かんだ。

『はーい! こちらの「とうかん様」は、お願いするとなくしものが見つかったり恋が叶ったりするそうで、そのご利益は絶大! 「とうかん様」のおかげで恋人が見つかりました、なくしものが出てきましたという話は数限りがありません! そんなわけで、地元のみんなに大人気な神さまなのですが、実は由来がよくわかっておりません。ただ、地元では退治された鬼をまつっているという説が有力みたいですねー。そこで今回は、謎につつまれた「とうかん様」の正体を暴きたいと思います!』

 加工されている上、元から滑舌が悪い人間らしく非常に聞き取りづらい。掲載する際に付け足されたと思われる字幕がなければ何を言っているのかわからないほどだ。

 懐中電灯が照らす「とうかん様」の社が、映像の中でどんどん大きくなる。撮影者がそちらに近づいているのだ。

 映像が一瞬ぶれた。男性が社の前にしゃがみこんだようだ。

『うわあ、近くで見ると、思ってた以上にきたな……いやいや、庶民的な感じですね。それにちっさ! 小一の子の背丈くらい? 扉もないけど、屋根板の下に二センチくらいの隙間が見えますー。あ、地元ではここに見つけたいものを書いた手紙を入れるといいっていう話もあるみたいですねえ。ちなみに「とうかん様」の由来は、ポストにするみたいにこうして願い事を「投かんする」から「とうかん様」なんだそうです。本当かどうかはわかりませんが。さて、この「とうかん様」の作りは一体どうなって……屋根は一応固定されているみたいで、動きません。壁の方は……うわあ、これは本当に薄いですよ。触るとわかりますけど、ふんっ! って力込めて殴ったら割れちゃいそうです。鳥居の方も、古い木材を組み合わせただけに見えますねー。仮にも神さまなんだったら、もっとしっかり作ればいいのにって思うのは俺だけでしょうか。それにこれ、雨と風でだいぶ傷んでますから、台風が直撃したら倒れんじゃね? って思います。危ないですねえ。建て直せっていうのは誰に言ったらいいんでしょうか? ここを管理してる人とかいるのかな? いるとしたら、一体それは誰なのでしょう?』

 社の周りをぐるぐる回る映像が一分ほど続く。やがて、社を正面から見据える位置でぴたりと止まった。

『……はい! それではいよいよ「とうかん様」の正体を暴いてみようと思います! その方法はずばり! ご神体です!! この中にあるはずのご神体を見れば「とうかん様」の正体もまるわかりってもんですよ! さあ、何が出てくるでしょうか!』

 まさかと思った瞬間、映像の中で男性の手が社の屋根にかけられる。

 小さな社は、前後左右に激しく揺らされた。先ほど説明された通りの粗末な造りならひとたまりもないだろう。

 そのうち、木の枝をへし折った時のような音がした。

『あらら、屋根が取れちゃいましたー。まあ「とうかん様」はそんなに礼儀にうるさくないという話もあったので、たぶん大丈夫でしょう! それではいよいよ、ご神体とご対面でーす!』

 はぎとられた屋根の板が社の傍へ無造作に置かれる。

 そして、懐中電灯に照らされた社の中身が映し出された。

『さあて、気になる「とうかん様」の中身。まず中に見えるのは……あー、これはさっき言った「とうかん様」への願い事を書いた手紙ですね。メモ用紙からかわいい便箋まで、そんなものが何十枚もつもってまーす。ということは、ご神体はこの下でしょうか?』

 がさがさ、という音がする。男の手が手紙の山をあさっていた。

『……おや? 底の方に何か固いものがありますね。これかな?』

 そんな声と共に、社の中に突っ込まれた手が引き戻される。

 映像に映った手には、たしかに何かが握られていて――。

『ぎゃああああああああああああ!!!!!!!!』

 突然響いた悲鳴。ガタガタと揺れる映像。雑音にまざって『うそだ』『ごめんなさい』なんて声がかろうじて聞こえる。

 そのうちひときわ大きな音がした。とても鈍い音だ。まるでバットか何かで人を打ち付けたような、そんな音。続いて端末が落ちる音がして、映像は真っ暗になる。

 記事に掲載された動画は、そこで終わっていた。

 記事の本文に目を通してみると、動画の視聴者が通報したことによって、いちはやく警察と救急車がかけつけられたとあった。

 映像の内容から、現在重体となって入院しているユーチューバーの男性(二十六)は器物損壊の容疑に問われることになるだろう、という意味の文章で記事は終わっている。

 綾香自身の感想はない。正確には、湧き上がる何かしらの感情はあるのだが明確な言葉にはならなかった。

 ただ、気になることがある。

 映像の中でユーチューバーの男性が取り出した物。あれは何だったのか。

 男性はあれがご神体だと言っていた。

 確かにそうなるのかもしれないと綾香は思った。

 あれは。

(――まだあそこにあるの?)

 クラスの連絡網になっているSNSのグループチャットに、篠山司からのメッセージが挙げられたのは、ちょうどその時だった。



 まったく、人間とは本当に馬鹿な生き物だと思う。

 何が万物の霊長か。これなら本能だけで生きている獣たちの方がどれだけマシかしれない。

 獣よりも頭がよくなったから、獣にできないような馬鹿をやらかすなど、もはや笑い話の域である。

 獣がやらず、人間だけがやることといえば、たとえば信仰もそうだ。

 獣は信仰を持たない。当たり前だ。そんなものを持たなくても、獣は生きていける。

 人間は信仰を持つ。道理だ。見えない世界に逃げ込まなければ、人間は質量あるものに押しつぶされて死んでしまう。

 押しつぶされないために、人間は神という庇護者であり逃げ道であるものを生み出した。

 馬鹿な話だと思う。

 神は全てを見ている。知っている。この世の出来事は皆、神の手のひらの上である。

 馬鹿じゃないのか。

 神がすべてを操る真実の超越者ならば、世界は神がいるだけで事足りる。人間の存在理由が消える。

 大体、人間の行動が神によって決定されるなら、人間が自我を持つ一個人でなくなる、ということになる。

 操り人形に、自我はいらない。

 見えないものへ敬意を持つことは必要だが、それだけに支配されるのも愚かだろう。

 均衡を取ることが大事なのだ。

 そして、それを貫かなければならないのである。

 最後まで面倒を見る気がないのなら、最初から手を出すべきではない。

 まして、それが見えないもの相手ならば尚更だ。形なきものの扱いは、本来そう気安くしていいものではないのだ。

 だから馬鹿と言ったのである。



 なんでこれだけしか集まらないんだよと毒づく篠山を、来てやっただけ感謝なさいよと泉美が一蹴した。

 綾香を含むクラスメイト四人は町と森の境目に集まっていた。今皆の傍らにある道を森の中へ進んでいけば「とうかん様」の社がある場所に行くことができる。

 顔ぶれは綾香のほかは泉美、篠山、松前祐樹(まつまえゆうき)の四人だ。全員自転車に乗ってきている。

 松前は篠山の友人で、泉美は綾香を心配してついてきてくれただけだから、招集をかけた篠山本人の人望が知れるというものだろう。

 むしろ、篠山と交流のない綾香と泉美がここにいることがおかしいのだ。

 グループチャットに上がった篠山の招集――次の日曜日を使って、みんなで「とうかん様」のご神体を探し、社を直そうというもの――に、SNS上で反応したのは松前だけだ。あとは全員スルーしている。綾香とて、ここに来ることは直前まで迷ったのだ。

 最終的に来ようと決めたのは、やはりあのご神体が気になったからに他ならない。

 そもそも、従姉の話が本当ならあれをご神体と呼ぶのが正しいかどうかも分からないのだ。

 その従姉、多田詩織は綾香より十も年上で、就職する時に別の町に行ってしまったから正月くらいしか会う機会がない。

 そんな彼女と最後に会ったのは、やはり十か月前の正月の時だ。

 その時、綾香が何かのきっかけで「とうかん様」の話をした。すると詩織はとてもおどろいた様子で「あの空っぽの社がそんなことになってるの?」と聞き返してきたのだ。

 そこで綾香は「とうかん様」の社がもともとゴミの不法投棄対策で建てられたもので、中身は空っぽなのだということを知った。

 しかも最初は鳥居だけしかなく、社が付け足されたのは詩織がきっかけだというから綾香もただ口をぽかんと開けていることしかできなかった。

「綾香ちゃんも行ったことあるでしょう? 一緒にあの近くを探検したじゃない。覚えてない?」

 たしかに、綾香が小さい頃、何度か祖父の車で森に連れて行ってもらった覚えはあった。

 その祖父・巧は、二年前にがんで他界している。

 二年前といえば「とうかん様」のうわさが過熱する少し前だ。もしも巧がまだ生きていれば、彼も詩織のように「とうかん様」のうわさに目をむいていたかもしれない。

 とにかく、詩織の話を聞いていたから、綾香は「とうかん様」のうわさをすべて頭から信じなかった。

 空っぽの社に向かってマジメに願をかける人たちを見ては小気味いい気分にすら浸っていた。篠山などその筆頭である。

 だから、もしあのユーチューバーが見つけたものが「とうかん様」のご神体ならおかしいと思ったのだ。

 この話を相談した泉美は「どうせお参りに行った誰かが放り込んだ石ころよ」と言っていた。

 しかし、気になるものは気になるのだからしょうがない。このもやもやは直接自分の目で確かめるほか、晴らす方法はないと思った。

 だから、綾香は今日ここに来ることを決めたのだ。

 なおもぐちぐちつぶやいている篠山にイラ立ったのか、眉間にしわをよせた泉美が口を開いた。

「あのね、大体社を直すって、あそこ一応器物破損の現場でしょう? 警察が保存してるんじゃないの? そうでなくたって、どこかに持ち主はいるんでしょうに。直すというからには、そういう許可はちゃんともらってるんでしょうね?」

 篠山は答えない。

 泉美ににらまれて委縮してしまったのかもしれない。彼女は顔が整っているから、すごむと怖いのだ。

「じゃあ、あの動画に映ってたご神体みたいなものも警察が持って行っちゃってるかなあ?」

 場違いなくらいのんきな声で、松前がそう言った。泉美は少しだけ視線を和らげて「かもね」と短く返す。

「ま、現場といっても殺人事件じゃないんだから、さすがに規制線は解かれてるでしょう。だから行くこと自体はできると思うけど、どうする? やめるなら今が最後のチャンスよ」

 チャンスというのは、おそらく自分に対して言ったのだろうと綾香は思った。

 篠山が「行くよ」と言った。とても苦々しい声だった。

「あ、そ。じゃあ行きましょうか。綾香、ころんじゃだめよ」

「小学生じゃないんだから」

 泉美の言葉に笑い返しながら、綾香も皆にならって自転車にまたがった。


 そのカーブは貫名町の東に広がる森、その真ん中くらいに存在している。

 上から見るとUの字を右に倒したような形だ。こんな急カーブをなぜ作ったかといえば、内側に固く巨大な崖がそびえていて、それがどうしても貫通できなかったからだ。

 とはいえ、この道自体は江戸の頃からあるそうだから、貫通できない云々もその当時の技術では、という話である。

 江戸の人たちを断念させた岩壁は見上げるほと高く、上の方はうっそうとした木々が覆っている。あの上がどうなっているのか気になったことはあるが、行く方法を綾香は知らなかった。

 そしてUの字の外側を出てすぐの茂みに、とても簡素な鳥居が立っている。木材を組み合わせただけの鳥居。高さも綾香の背――大体百五十センチ――よりだいぶ低い。緑の中で目立たせるためか、お稲荷さんのように赤く塗られている。

 その鳥居の向こう側、曲線の頂点から直線を伸ばした先に「とうかん様」の社はある。

 高さは小学校低学年の子の背丈と同じくらいだろう。雨風にさらされたためか、ずいぶん古ぼけて見える。いいや、実際古いのだろう。詩織が小三の時に建てられたのなら、その社は十七年の時をここで過ごしているのだ。綾香よりも年上である。

 三十分近く自転車を走らせてついた「とうかん様」の社。幸い、警察のテープは残っていなかった。

 ガードレールの内側に自転車を入れて、自分たちもそちらへ移動する。

 風の音すら聞こえない完全な静寂が一瞬だけ走った。

 森の木々に囲まれ、木漏れ日に照らされた社が、綾香には何だか恐ろしく見えた。

 空っぽのはずなのにと、自分で自分の感情を不思議に思う。

「あれえ。屋根、直ってるね」

「よく見なよ松前。これは上に乗っけてるだけよ。ほら」

 静寂を破った二人の声。松前の言葉を受けた泉美が無造作に社の屋根に手をかける。薄いベニヤ板で作られた屋根は、何の抵抗もなく持ち上がった。

「たぶん警察でしょうね。ご神体も中に戻してある……わけじゃなさそう。空っぽだわ。見てごらん」

 泉美にうながされて、綾香たちも社の中身を覗きこむ。

 たしかに、中身は空だった。あの動画に映っていた「とうかん様」への手紙すら一枚も残っていない。

 警察が証拠品として持って行ってしまったのだろうか。

「やっぱり警察がぜんぶ持ってっちゃったんだよ。どうする? 司……司?」

 松前の怪訝そうな声に、綾香も顔をあげて篠山の方を見る。

 篠山は社の目の前で両手を合わせ、目をつぶり、何某かを一心に唱えていた。

「とうかんさまおゆるしくださいとうかんさまおゆるしくださいとうかんさまおゆるしくださいとうかんさまおゆるしくださいとうかんさまおゆるしくださいとうかんさまおゆるしくださいとうかんさまおゆるしくださいとうかんさまおゆるしくださいとぅかんさまおゆるしくださいとうかんさまおゆるしくださいとうかんさまぉゆるしくださいとうかんさまぉゆるしくださいとうかんさまぉゆるしくださいとぅかんさまおゆるしくださいとうかんさまおゆるしくださいとうかんさまおゆるしくださいとうかんさまおゆるしくださいとうかんさまオゆシくださいとウカンさマおユルしクださイとウカんさマおゆるシくダサいトうかんサマおユるシクだサいトウかンさマ」

 何のことだと、綾香は困惑した。

 そのうち篠山は手を合わせた状態のまま座り込んだ。それでもなお、許しを乞う声が止まることはない。

 その様子に、泉美もさすがに何かを感じたのか「とうかん様」の屋根を戻し、社から一歩あとずさった。

「ああ、また始まっちゃったよう」

 松前の、いかにも緊張感が緩む声に彼の方を見る。

 その顔はあきれているような、見守っているような、そんな表情だった。

「またってどういうこと?」

 綾香が問うと、松前も視線をそちらへやった。

「最近、司はたまにこうなるんだよう。昼ご飯の後とかが多いかなあ。よっぽど怖いんだね、とうかん様が」

(――こわい?)

 綾香は首を傾げた。どういうことだろう。篠山は「とうかん様」のご利益で憧れの人と付き合えたのだ。だから信仰に近い感情を持つようになったのだ。

 それが恐怖につながる理由が分からなかった。

「ちょっと、いつまでやってるのよ」

「あ、ダメダメ。司、これを止めるとめちゃくちゃ怒って手が付けられなくなるんだ」

 篠山の肩を触ろうとした泉美を、松前がそう言って止める。泉美は不承不承という表情で手を引っ込め、あたりを見回した。

「ご神体っぽいもの、ぱっと見はない感じだけど、どうする? 一応探してみる?」

 十中八九警察が回収してるでしょうけど、という声にならなかった言葉が綾香にだけは聞こえた。

「うーん、探すにしても、どんなものかが分からないしなあ」

「ああ、たぶん白いものだよ。……あの動画に少しだけ映ってた」

 ユーチューバーが握っていた物が、指の隙間からわずかに見えた。

そしてそれは、明かりに照らされて白く輝いていたように思うと綾香は言った。

 その言葉を受けて、松前が言った。

「じゃあ、白い物を探してみようよ。森の中で白い物ってそんなにないだろうし、案外見つけやすいかも」

「……そうね。それじゃ、あなた達が満足いくまで付き合うとしますか」

 そう言って、泉美はうんと伸びをした。

 篠山は、その後もずっと「とうかん様」へ許しを乞うていた。



 ああ、ああ! 腹が立つ!

 何故そうすぐに責任転嫁をするのだろう。

 お前の今はお前のそれまでの堆積だ。それだけだ。目の前の現実は誰のものでもないお前のものだ。

 たったそれだけのことが、どうして分からないのか分からない!

 お前の不幸を私のせいにするんじゃない。

 まして、己の不徳を不信心にすりかえるなど言語道断である。

 自分の行いの責任くらい自分でとるべきだ。

 それができないのなら――せめて、報いを受けなければならない。

 無論、そちら側の決まり事の中で、だ。



 見つからない。

 綾香は四つん這いの状態から一度立ち上がり、思い切り体を伸ばした。

「ああもう、うっとうしい! スプレー持ってくるんだった!」

 どこかから泉美の声が聞こえる。カにまとわりつかれているのだろうなと、綾香は思わず苦笑した。涼しくなってきたとはいえ、十月はまだまだ虫がいる。

「見つからないなあ」

 松前のどこかのんきな声がした。

 二人とも茂みの影にいるのか、綾香がいる位置からは姿が見えなかった。

 唯一見えたのは、木々の先――「とうかん様」の社と、その前に座っている篠山だ。綾香は今、社の後ろにいるから、篠山の方は頭の先くらいしか見えないが、それでもそこにいることは分かる。

 まだ許しを乞い続けているのだ。

 スマホで時間を確認すると、もうここに到着してから三十分近くが経っていた。篠山はその間ずっとああしているのだから、いくらなんでも長すぎる。

 綾香はさすがにイラ立ちを覚えた。

 そもそも「とうかん様」のご神体を探そうと招集をかけたのは篠山なのだ。それを思えば、綾香がイラ立ったのも無理はない。

 ただ、松前の話によると、あれを邪魔されれば篠山は会話ができないレベルで怒り狂うという。

 一体、何をそんなに許してほしいのだろうか。

 その時、ひときわ強い風が吹いた。

「わっ」

 綾香は思わず目をつぶる。枝葉が揺れる音がする。泉美の声も松前の声も聞こえない。風がごおごおと鳴っている。

 ようやく目を開けられた瞬間、泉美の悲鳴が聞こえた。

「泉美!?」

 慌てて悲鳴の方へ走る。茂みの向こう、その光景を見て綾香は目を疑った。

 篠山が泉美に殴りかかっている。

 綾香より一瞬早く松前が二人の間に入り込み、篠山に飛びつく形で彼を止めた。

 その隙に泉美が立ち上がり、近くに落ちていた枝を拾って――。

 鈍い音がした。

「ふざけんな!! どういうつもりだ!!!」

 泉美が怒りの形相でそう怒鳴る。殴られた篠山はというと、松前に押さえつけられたまま何かをつぶやいていた。

 一瞬の逡巡ののち、綾香は泉美の元に駆け寄る。

「泉美、大丈夫? けがは?」

「大丈夫。あーもう最悪。汚れちゃったじゃない」

 泉美はジーンズのハーフパンツと黒のタイツについた汚れを忌々しそうに払い落とした。

 もう片方の手にはまだ篠山を殴った枝がにぎられている。普段ならばなんてことを言うところだが、状況が状況だけに責めづらい。

 そのうち、篠山の体から急に力が抜けた。松前が慌てて支えるが間に合わず、二人そろって地面の上に落ちる。

 綾香が思わず伸ばしかけた手を泉美が止めた。仕方なく、声だけ飛ばす。

「だ、大丈夫?」

「いてて……僕は平気ぃ。司、どうしたんだよう……司?」

 松前は倒れた篠山の顔を覗き込んでいる。その怪訝そうな声の意味を、警戒心むき出しのまま泉美が問うた。

「何よ。どうしたの?」

「……気絶してるっぽい」

「はあ?」

 いかにも怒っている声音に、松前も肩をすくめている。

 泉美は一度前髪をくしゃくしゃとかき乱した。

「……もしかして、あのユーチューバーを殴り殺そうとしたのってこいつじゃない?」

 そして、いきなり突拍子もないことを言いだした。

 松前は目を見開き、綾香は絶句する。そんな二人の反応を受けてか、泉美は「自分でも飛躍と思うけど」と付け加えながら語りだした。

「松前、さっき言ってたじゃない。篠山は最近、毎日昼ご飯の後くらいにおかしくなるって」

「ま、毎日とは言ってないよう。たまにって――」

「おんなじよ。どっちにしろ、なんでそれをあんたが知ってんのよ。篠山、恋人ができたんでしょう? なら昼ご飯は普通カップルで食べない? いや、彼女にも友達はいるんだからたまにはそういうこともあるでしょう。でも短期間で何度も? 以前から昼ご飯はカップル同士じゃなくて友人同士で食べることにしてたのかしら。そこまでベタベタしない関係なのかしら。いいえ、悪いけど篠山がそんなにさっぱりした性格には思えない。なら何等かの理由で彼女の方が拒否したか、篠山が避けだしたかのどちらか。おかしくなった男子から距離を取ろうとするのは自然でしょうし、この状態で楽しいおつきあいができるとは思えないから、もしかしたら両方かしらね」

 綾香も松前も何も言えない。口をはさむすきがない。

 泉美はとどめを刺すような口調でつづけた。

「それと、篠山がおかしくなったのって、最近って言ってたでしょう? 具体的には? 今週の月曜日か火曜日くらいからじゃないの? 火曜日のニュースで流れたんだから、ユーチューバーの事件は日曜日か月曜日くらいの出来事。つまり篠山がおかしくなったのはその直後。違う?」

 小首をかしげながら投げられた問いに、松前は答えなかった。ただ小刻みに震えている。

 やがて、彼が小さくうなずいたのが見えた。

「さらに、今私を殴ろうとしたでしょう? なんで私? 言いたくないけど、単に暴力衝動を消化したいだけなのなら、私は私を狙わない。綾香か、せめて松前を狙うわ。弱そうだもの」

 ひどい、とつぶやく余裕は綾香にない。

「なら私を狙う積極的理由があったはず。私、さっきあの社の屋根を持ち上げたわ。神様に何の断りもなく、謝罪もなく。狂信者にはとっても不敬な行いに見えたことでしょう。――天罰のつもり?」

 そこで泉美は言葉を一瞬止めた。

 細められた目が、この上なく怖い。

「何をあんなに許してほしいのかしら? 殺人未遂の罪じゃないの?」

 泉美は頭に血が上っている。普段の彼女ならここまで短絡的な物言いはしない。

 滔々と続く言葉に口を挟むことはできず、結局最後まで言わせてしまった。

 泉美が口を閉じると、場はしんとする。

 風の音さえ、今は聞こえなかった。

「――さい」

 静寂が破られた。

「うる――さい」

 倒れていた篠山がのそりと体を起こす。その目は泉美をにらみつけているように見えた。

 自分を支えようとした松前の手を押しのけて、あぐらの体勢で座り込む形になった。

「お前らは何もわかっちゃいないんだ。とうかん様が、もうとうかん様しかいないんだ。俺は、俺は――」

 また何か唱えだしそうな気配を感じ、綾香はとっさに口を開いた。

「あのね! そもそもとうかん様は神さまなんかじゃないの!! あの社も鳥居も、ごみの不法投棄対策で昔の町内会の人たちが作っただけ! ハリボテなんだよ!!」

 綾香は従姉の詩織から聞いた話をそのまま話した。先に同じ話を聞いていた泉美はともかく、松前はかなり驚いたようである。目を丸くしている。

 そして篠山は、その松前以上に目を見開き、硬直していた。

「――うそだ」

「ウソじゃない! 何なら詩織さんに連絡して直接話してもらう?」

 綾香がスマホを取り出すよりも、篠山の豹変の方が早かった。

「うそだうそだうそだうそだそんなはずないそんなはずないとうかんさまはいるいるんだおれはみたんだとうかんさまはおそろしいんだだからだからだからだから――しかたなかったんだ」

「仕方なかったから殴ったわけ?」

 泉美の鋭い声に、篠山の肩がびくりと跳ねる。

「――あいつが悪いんだ」

 本当に彼だったのかと、綾香は思った。

 主語を欠いた問い方は泉美の罠だ。もしも篠山が殴ろうとしたのが泉美だけならば「あいつ」という言い方が出てくるはずはない。

 ユーチューバーを殴り殺そうとしたのは、真実篠山だったのだ。

「……なんで?」

 呆然としながらそう問うたのは松前だ。篠山はいきおいよく顔をそちらへ向け、答えた。

「あいつが! 邪魔したんだよ!! せっかくいろいろ調べたのに! 考えたのに!! なのに人の儀式を邪魔したうえ、あんな罰当たりなこと――とうかん様が怒る前に止めてやったんじゃないか!!」

 篠山が叫んだ内容をまとめるとこんなところだろうか。

 彼はあの日「とうかん様」の社に来て噂を元に考え出した自己流の儀式をしていた。

 そこへあのユーチューバーがやってきた。

 とっさに隠れてしまったことで、篠山は儀式を中断せざるを得なくなった。

 しかもユーチューバーは、あろうことか「とうかん様」の社を壊し、ご神体を取り出そうとした。

 だから。

「ばっかみたい」

 吐き捨てるような泉美の言葉。篠山は彼女をにらむが、きつくにらみ返され、さっと目をそらした。

 同情する気にはなれなかった。思ったことは綾香とて泉美と同じだったからだ。無意識にため息が出た。

「……あのね、ご神体なんかじゃないよ」

 皆の視線が綾香に集まる。

「さっきも言ったとおり、とうかん様は元々神さまじゃない。あの社だって中身は空っぽ。空っぽだったんだよ、最初は。だからご神体なんか入ってるわけないの。不法投棄防止のハリボテにそんなものいらないでしょう?」

「でも、じゃあ、あれは? あれは何だってんだよ!! 俺は見たぞ、白くて――」

 綾香は一瞬目を見開いた。次いで、納得したと言わんばかりに一度まぶたを閉じ、右の手のひらを額にあてる。

「それ、たぶん貝殻だと思う」

「は?」

「篠山が見たのは、貝殻だよ。小さい頃、おじいちゃんにここに連れてきてもらった時――私がとうかん様の中に入れたの。四歳か五歳か、それくらいだったかな?」

 海へ行ったときに拾ったのだと、その時の詩織は言っていた。

 巧に連れられて綾香と詩織はここに来た。綾香が四歳か五歳くらいだったから、詩織は中二か中三だ。

 きょうだいがいなかった彼女は、綾香のことを本当の妹のようにかわいがっていた。

 二人で遊んでいる時、幼い綾香は「とうかん様」の社、その屋根の下に隙間があることに気づいた。社の高さが小学校低学年の子の背丈ほどということは、幼稚園児なら下から見上げる形になる。その為、気づきやすかったのだ。

 幼い綾香に言われて詩織もその隙間に気づいた。その時、綾香は隙間に指をつっこもうとしていた。理由はない。子どもなんてそんなものだ。

 そんな綾香を見て、ほほえましくなったのだろう。

「――綾香ちゃん。これ、そこに入るんじゃない?」

 詩織が取り出したのは、平べったくて白い貝殻だった。当時の詩織の手のひらくらいである。形はハマグリのそれに似ていた。

「この前海に行ったときに拾って、忘れちゃってたの。同じかばんでよかったわ。ねえ、これくらいの厚さなら中に入るんじゃない?」

 幼い綾香はうれしくて、その貝殻を屋根と社の間の隙間にさしこんだ。

 多少引っかかったものの、やがて貝殻は社の中に入り、下に落ちる音がした。

 二人はハイタッチした。何か達成感があったのだ。

 その時の貝殻が。

「それが、あの動画に映ってたご神体だと思う」

 全員がしんとしている。当たり前だ。この話は泉美にすらもしていない。綾香自身、話しながら思い出していったのである。つまり先ほどまではロクに覚えていなかったのだ。

 泉美のため息が聞こえた。

「なるほど? 今日わざわざ来たのは、いとこのお姉さんとの思い出の品を見つけたかったからなのね?」

「うん。といっても、私もそれが何だったのかさっきまでよく思い出せなかったから、純粋に気になったっていう方が大きいんだけどね」

「……でも、森にある貝殻なんて目立つから、やっぱり警察が持って行ってるんじゃないかなあ」

「だよ……ねえ」

 松前の言葉に肩が落ちる。

 落ち込まないのと泉美が背中を叩いてくれた時だった。

「そう――だとしてもだ。たとえその話が本当だとしても、とうかん様はいる。いるんだよ」

 言いながら、篠山はゆっくりと立ち上がる。多少ふらつく様子は見せたが、やがてそれも収まった。

「いいや、もしかしたらその記憶すらとうかん様が作ったものなのかもしれない。そうだそうに違いない、とうかん様はそれくらい強い力を持った――」

「篠山――いい加減にしなさいよ」

 泉美が篠山の胸倉をつかもうとする。それをすんでのところで松前が止めた。

 松前は泉美に向って首を横に振った後、篠山の方を向く。

「つ、司。落ち着いてよ。頼むから落ち着いてくれよう。なあ、なんでそんなに――あ、もしかして……唐沢さんのせい?」

 その名前が出た瞬間、篠山の表情がこわばった。

 唐沢――唐沢織江。

 篠山が憧れていたクラスのマドンナ的存在である。

「司がやろうとした儀式って、もしかして唐沢さんに頼まれたことを確実に叶えてもらおうと思ったから……とか?」

 篠山は答えない。代わりに、視線があちこちにせわしなく飛んだ。

 その反応が、肯定を語っていた。

「何よ、その頼みって。儀式までするとか、私にしたらその時点でもう狂気の沙汰なんだけど」

 泉美の問いに、松前は彼女の方を振り向き、答えた。

「唐沢さん、万引きをしちゃったらしくて……それで、そのことをなかったことにしてほしいって――とうかん様にそう頼んでくれって、司に」

 その瞬間、篠山が松前の胸倉をつかんだ。

「お前! 何でそれっ」

「み、見えたんだよう! 司が読んでた時、スマホの画面が――」

「そ、それって……とうかん様の管轄、なのかな? 泉美、どう思う?」

「……こじつけるなら、失せ物探しのご利益で、万引きしていなかった時の今はもういない自分を取り戻させてくれ、ってことかしら? いや、無理でしょ」

「……そう思ったから、儀式なんかしようとしたんだ? そうでもしないと叶わない、無茶な願いだってわかったから」

「バカじゃないの? 本当に彼女のことを思うなら一緒に謝罪に行くなり警察に行くよう説得するなりしなさいよ。それを訳の分からないことして、挙げ句に暴行事件を起こす? 呆れて怒る気にもなれないわ」

 篠山は何も答えない。うつむいたまま、掴んでいた松前の胸倉をそっと離した。

 また静かになる。今度は長い。

 誰も何も言わないから、綾香は無意味に視線を巡らせた。

 木の幹の向こうに「とうかん様」の社が見えた。距離で言うと三メートルくらいである。

 本当に粗末な社だ。廃材を組み合わせただけで、雨や風のせいでだいぶ痛んでいる。全体はもう元の色がわからなくなるほど変色していて、黒いシミがいくつも浮かんでいた。

 そのシミのひとつ、一際大きいそれが綾香の目に留まる。

 ひとつ、と形容するのが果たして正しいのかどうか。どうやらそれは三個か四個くらいの小さな濃いシミを、ひとつの大きくやや薄いシミが飲み込んだような形になっているらしい。少なくとも綾香にはそう見えた。

 綾香の目がいいわけではない。彼女の視力は至って平均だ。

 なのに、それなりに離れた場所からそんな細部まで分かったのである。

 或いは、そのシミの様子もまた幼少期の記憶の一部だったのかもしれない。

 とにかく、綾香はそのシミを見つめていた。理由はない。無意識だ。

 三つ並んだ小さな濃いシミ。それがだんだん目と口に見えて来る。

 小さなシミを飲み込むように広がる大きな薄いシミ。それは顔の輪郭のように思えてきた。

 人の顔が、そこに。

「ああもう! いい加減にして!」

 泉美の鋭い声で静寂が切り裂かれる。完全に不意をつかれた綾香は、もう少しで悲鳴をあげるところだった。

「いつまで黙りこくってるつもり? さ、もういいでしょう。帰るよ! あ、篠山。あんたは警察に行きな。ついでに唐沢さんも誘って、二人で行きな。楽しいデートにはならないでしょうけど、一生忘れられない思い出にはなるんじゃないの? 行かないつもりなら私が通報するからね」

 スマホをちらつかせながらそう言う泉美に、篠山は苦虫を噛み潰したような顔をする。

 そのうち、小さな声で「わかったよ」と言った。

「つ、司、僕も一緒に行こうか?」

「何でだよ。祐樹は関係ないだろ。……ちょっと、彼女に連絡してくる」

 篠山はズボンのポケットを漁りながら社の横を通り過ぎて行った。ガードレールの手前で立ち止まっている。

 綾香はもう一度社の方を見た。

 シミがたくさんあるのは分かったが、人の顔を思わせるようなイメージは、もう湧き上がってはこなかった。



 季節を一巡か二巡する程度の時間、貫名町の若者たちを惹きつけた「とうかん様」のうわさは、社と鳥居が撤去されてからはあっという間に消え去った。

 その社やそれを取り巻くうわさのために殺人未遂事件が起きたことを町の自治体が深く受け止め、撤去することになったのだ。

 幸い、設置したのもかつての町内会だと分かる資料が見つかったから、手続きは早かった。

 やれやれ、これでようやく私も肩の荷が下りるというものだ。

 勝手に生み出して勝手に壊す。つくづく人間とはくだらないと思うけど、今回ばかりは壊してくれたことに感謝しなくてはなるまい。

 こんな粗末で汚い社など、私は絶対に嫌だ。こんなことなら、磐座(いわくら)の中で静かに眠っていた方がよほどいい。

 大した理由もないのに器を作るべきではないのだ。そこに呼ばれる羽目になった側の気持ちも考えてもらいたい。

 全く、どこまでもはた迷惑な話であった。




                                  了

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とうかん様 富佐野 @husuhusu2525

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