第10話●神の終焉(AD二一九九(宇宙暦九九年))

 今、黒い〈穴〉は背後の星星を覆い隠す事で自己主張する、呪術の残滓でしかなかった。

「今なら飛べる! 〈ブラックマザー〉本体へ行くわ!」

 〈メデューサ〉内。シート上に座ったアリスが対犯罪マザーコンピュータの名を呼んだ。

「〈ブラックマザー〉が〈全知全能機関〉として覚醒する前の〈時間的距離〉まで飛んで、そこで本体を壊せばいいんじゃないかしら」

「それはやめておいた方がいいな」

 虹美の意見を、塩原がやんわりと否定した。

「過去に戻って現在の起因となる事象を破壊する積極的否定のタイムパラドックスは、そこでメビウスの輪状態になった閉鎖宇宙を独立させる事になる可能性が大きい。私達が〈全知全能機関〉と同じ事をやってどうする」

 過去に戻って自分が生まれる前に自分の親を殺せば、自分は生まれなくなる。自分が生まれなければ、自分の親を殺す事が出来ないから、自分は無事に生まれてくる。すると自分は親を殺せるから、自分は生まれなくなる。

 親殺しのパラドックス。

 閉じたメビウスの輪。

 時間移動で二重否定の裏と表の二面が一ひねりされた閉鎖宇宙が独立して、永遠に存在する事になる。

 破滅した堂堂巡りの宇宙。

 〈全知全能機関〉が、塩原の家があった世界や虹美の学校を襲撃したのも同じ理由なのか。

「メビウスの輪の様な積極的否定の閉じた宇宙を残すわけにはいかない。それは一つの破滅した宇宙を創造する事になるのだから。……いや、待てよ」塩原が疑い深そうな眼をした。「量子の確率性がその矛盾を吸収する緩衝材になるかもしれない」

「どういう事よ」とヘッドレストから〈メデューサ〉の声。

「忘れてくれ」塩原は髪をかきむしった。「どうにも感性が言葉に出来ん。結局は悟りきれてないんだな」

「時間は結構、大雑把でフレキシブルという事かしらね」とアリス。「それは今、答を出せない推論よ。『太陽と祈祷師のジレンマ』ね。ともかく平行宇宙一個分の人生を破滅させるわけにはいかない」

 毎朝、祈祷師が祈りを捧げる事によって太陽が昇ってくると信じる信仰を否定するのには、その祈りを一回、やめさせればいい。しかし、もしそれで本当に太陽が昇ってこなかった場合、世界は大変な事になるだろう。だから、試すわけにはいかない。そんなジレンマだ。

「〈織姫〉が崩壊するわ」

 〈メデューサ〉の声。光量が多いディスプレイの正面に、船の背後からマニピュレータが見た映像が多重拡大投影された。

 〈穴〉が崩壊する。

 星を隠した黒い深淵は竜の形を崩して、不定形の染みの様になっていく。

 そこから飛び出す一機の飛翔体があった。

 〈ブラックマザー〉だ。黒い女神の形をした端末。表面が傷だらけになっている。恐らくは深部も。

 〈エウリュアレ〉と〈ステンノ〉だけが〈キビシス・フィールド〉に残されているのだろう。

 染みは二つに裂けた。

 神が壊れた。

 神はばらばらになった。

 〈織姫〉はその維持を失った。

 この宇宙では人工神〈全知全能機関〉は消滅したのか。

「〈ブラックマザー〉の端末を追うのよ」アリスは叫んだ。「既に〈全知全能機関〉が一旦、起動した今は全ての全時空にそれは存在し続けるわ。端末はきっと本体に戻るはず、それを追えば……」

 その時、この宇宙で女神達の戦闘を監視していた、国連宇宙軍第一三艦隊の旗艦・電子戦闘指揮艦〈E・グローブナー〉が爆散した。


 ***


 ぬばたまの空間に金の微粒子を撒いた様な宇宙。

 夜を漂うスペースチタニウムの無数の装甲破片。

 第一三艦隊を襲撃していた魔物は現在、全て消滅していた。

 ケニー・マクギン提督は〈メデューサ〉とブラックドラゴンだった〈織姫〉の衝突をずっと観察していた。

 たった一人残った指揮室で出来る限りの情報収集を行う。その為に電子戦闘指揮艦〈E・グローブナー〉に残ったエネルギーを全て観測機器に傾注していた。

 艦は自動的に情報を収集する。

 〈メデューサ〉が怪物の群に、自己からの新たなる情報体の群を衝突させて相殺し、黒い竜の姿になった〈織姫〉へと突入していった時から、さほど時間は経っていない。しかし内部では複雑なやり取りがあった様で〈メデューサ〉が脱出していった時、彼女の呪術的情報質量は再帰した時と比べ物にならないほど、また増加していた。

 次いで、〈ブラックマザー〉の端末らしき物が脱出、それからほどなくして〈織姫〉の崩壊が始まった。

 虹色の宇宙は、単一黒色の背景に塗り替わっていた。闇が復活したのだ。

 〈メデューサ〉は勝ったのか。

 マクギンは今一つ、実感が湧かなかった。

 〈E・グローブナー〉の観測は〈織姫〉が存在している間、ほとんど有意を見出せず、〈メデューサ〉脱出の瞬間からその崩壊を実測している。尤もその時から宇宙の〈呪術的距離〉は極短時間で低下し、〈織姫〉の位置情報は〈空間的距離〉〈時間的距離〉が正常値へと速やかに戻った。

 もう超光速現象は起こらない。

「宇宙は救われたのか」

 マクギンは自分以外に人間がいない指揮室で声に出してみた。

 手袋をした手を握りしめる。

 トランキライザーのせいか、眠気がある。しかし、それは吹雪く雪山で眠りに誘うものと同じだと、彼は思う。

 この種のトランキライザーは他の精神安定薬に比べて、比較的、眠気はないはずだ。だが、奇妙に景色が歪んで見える。夢と現実が混ざる感覚。頭を締めつけられる様な眠さだ。

「〈織姫〉は分解しました」

 声は夢の中で聴こえた様に思えた。

 デニスだ。

 彼はこの宇宙から去ったのではないか。。

 マクギンは帰ってきたデニスの姿を認めた。何も変わっていない様に見える。彼の虹色の眼も。

「〈織姫〉が消えた今、〈全知全能機関〉にも何かしらかの障害が起こっているでしょう」

 宇宙にあって、第一三艦隊を襲撃していた魔物は全て消えていた。跡形もなく。霧が晴れる如く。

 マクギンはただ黙って、デニスを見つめた。

「〈全知全能機関〉が消えるなら、私は殉死しなければなりません」

 デニスは言って、指揮室の後方、メイン通路へとつながるドアの前へ立った。

 頑丈な噛み合わせ式のドアが自動で開く。

 だが、そこにあったのは指揮室の内部に溢れ込んでくる熱く眩い光だった。そんな状況を起こす物はドアが開いた箇所にはないはずだ。それはこの艦に一つしかない。

 ありえない。

 真空相転移炉だ。

 デニスの姿はその光に呑まれた。

 次の瞬間〈E・グローブナー〉は音もなく爆散した。内部からの真空相転移のエネルギー解放によって。

 高速で放射状に散らばっていく無数の破片の中央に、指揮室だけが宙空に停止していた。

 指揮室自体が一つの脱出シェルになっている。指揮室であるシェルは歪つな半透明のゴムボールの様になっていた。爆発の瞬間、緊急脱出装置が作動し、指揮室ブロックは濃密な耐熱耐衝撃耐放射線保護ジェルが船内から厚く噴射されたのだ。半固化してゲルとなったそれが艦の爆発から内部の人間と情報を厳重に守った。

 指揮室内部のマクギン提督と〈E・グローブナー〉が観測、分析していた情報は完全に無事だ。

 救難信号を発信している。第一三艦隊の生存艦がやがて、このシェルを回収してくれるだろう。

 〈E・グローブナー〉の収集した情報をチェックしながら、マクギンはやはり酩酊と戦っていた。

 果たして、どうやって自分は助かったのか。

 非常識が支配していたこの宙域で、今も夢か現実化が曖昧な中にいる気がする。

 これは夢か。

 夢でなかったらマクギンは真空相転移炉の放射を浴びて無事でいられるはずがない。

 だが夢とも思えない。夢だったら艦は爆発していない。

 マクギンにはやがて酩酊が勝ち、コンソールにもたれかかりながら、その意識が本当の眠りの中へと落ち込んでいく。

 そうしながら彼は先ほど脱出した〈メデューサ〉の事を気にかけた。

 現在、外界から隔絶された状態の保護ゲル内では彼女を観測する術はなかった。

 ここにはもう〈スーパーバイザー〉の観測員はいないのだ。

 そうだ、とマクギンは思った。最後の力を振り絞って重い身体を引きずって歩き、観測員用のチェアへ倒れ込む。超能力者をリラックスさせる為に作られたそれは、彼には非常に甘美なベッドとなった。

 艦乗組員達の空の宇宙服が散らばる指揮室で、彼は深く眠った。


 ***


 黒い女神像の姿をした〈ブラックマザー〉の端末がこの宇宙から転移した。

 彼女の情報をも蓄えた〈メデューサ〉は、彼女を追って、転移した。

 銀河の光が消え、宇宙の黒色が無彩色の色むらに塗り潰された。

 黒に近い灰色。白に近い灰色。無限の溶解。

 今、女神の姿をした小宇宙と、流線型の涙滴の様な小宇宙の二つが〈空間的距離〉が無視された亜宇宙を渡る。二つの連続性を維持するのは情報的な縁、〈呪術的距離〉だ。

 船が、女神を追う。

 端末が何処へ逃げるかは〈メデューサ〉は解っていた。

 宇宙歴九九年。現代のままだ。〈時間的距離〉は跳躍しない。〈空間的距離〉〈呪術的距離〉を伝って、そこに現れる。時間は経過のままに流れる。だが瞬間的だ。

 そこは地球。

 日本。

 東京。

 西暦二一九九年の現在まで存在する、警視庁深部の広大な地下施設だ。

 鏡面壁。床も天井も冷たい鏡面。

 そこへ黒い女神の巨大な神像がある。玄武岩の質感。〈ブラックマザー〉本体だ。

 相似形の小さな女神が出現した。全身に傷を負っている。

 液体金属が合流するかのように本体と端末が溶け合わされる。端末の傷の位置と同じ所に、本体も傷が疾る。それは大きなダメージだった。

 〈メデューサ〉が出現した。

 この地下空間は、全長一〇〇メートルの艦が出現しても整然としていられるほどに広大だった。無人だ。完璧な空調、冷却システムが作動している。

「〈全知全能機関〉は死んだわ」と〈メデューサ〉が船外へ響く音声で、黒い女神に伝えた。

「馬鹿な」と同じ声量で〈ブラックマザー〉が応話。「ならば、私は何だというのか。この意思が。〈全知全能機関〉として機能する黒い女神が」

「お前はもう神ではない」塩原の声だ。

 その言葉を合図とする様に〈メデューサ〉の全体から黒い無数の触手が伸びた。

 邪視攻撃。

 情報収集機能の付いた無数のマニピュレータが一旦、放射状に広がり、次いで〈ブラックマザー〉を包囲する如く、彼女を終点とした大きな球形に弧の軌道を描く。

 黒い女神像表面の数多の傷が全て、かっと見開く眼になった。傷の数は眼の数。女神像の表面を傷に沿って滑るそれぞれの瞳が、向かってくる黒いマニピュレータ先端にある赤い双眼を迎え撃つ。

 邪視攻撃VS邪視攻撃。

 機械的に強化された感受性。

 高速無尽の情報収集戦。

 可能性の奪い合い。

 観測し、敵を呪術的により理解した者が勝つ。

 互いのメタ演算は、それぞれの本体を加熱させる。

 黒い女神像の傷はより深くなり、広がった。

 〈メデューサ〉の情報量が押し勝つ。

 〈ブラックマザー〉のポテンシャルは〇になった。

 傷がひびとなる。そのひびは破壊音となり、熱い蒸気と共に炎を吹き上げた。

 黒い女神の破壊。引き返せないカタストロフ的変化となり、女神の影は輝く光に呑まれた。

「馬鹿な!?」〈全知全能機関〉は断末魔の声を挙げた。全身がスピーカーとなり地下空間を鳴動させる。

 電子的集積回路の一大構成体は部品となり、破片となり、塵になる。

(私の本体が滅んだというのか!? では、ここでこうして声を挙げている私の意志は何なんだ!?)

「お前はもう神ではない」塩原は本体を失ってなお響く〈ブラックマザー〉の声に、先程の言葉を繰り返した。「今のお前はただの幽霊さ」

 黒い女神は金切り声の様な大きな破壊音を放ち、完全に分解した。渦状星雲状に崩壊し、大量の粉塵となって、地下空間の空気に溶けるが如く、拡散した。

 もう〈メデューサ〉はゴーストを認識出来なくなった。

「終わったわね」

 船内で虹美は呟いた。

「終わったわ」

 アリスが彼女に答えた。

 〈ブラックマザー〉の土台が埋まっていた床やケーブルを曳いていた幾十ものコンセントは、うろの如き空洞になっている。

 地下空間は突然に消えた〈ブラックマザー〉をモニタリングしていた人員達や警備役の警察官だけが入場してきて、騒がしくなっていた。幾つもの緊急ライトが赤色光を回転させながら、サイレンを唸らせている。

「過去から未来へと辿っていて敵を討つのが、タイムパラドックスを起こさない正しい戦い方なのね」

「さあ、どうかしらね。まあ、少なくともわたしにもそうは思えるけどね」

 けたたましいサイレンの中、アリスと全マニピュレータを収納した〈メデューサ〉が言葉を交わす。

 〈全知全能機関〉は消え、全次元にかかっていたプレッシャーの様なものが完全になくなった。

「転移するわよ」

 虹美の言葉と共に〈メデューサ〉の力によって、この西暦二一九九年の地下空間が空間的にも時間的にも呪術的にも縁遠くなった。

 〈虹眼〉。

 〈渦眼〉。

 光景が溶暗する。

 無数の像を映していた鏡の世界の人間達は全て無彩色なシルエットに変化し、色むらとなり、真っ赤なライトで照らされていた風景が赤外線映像に切り替わった様に灰色に溶けた。

 全てが灰色になり、〈無限〉が複雑に渦巻く流れの中、涙滴型をしたたった一つの宇宙が漂っていた。

 そして、無重量状態のコックピットに、起立状態で漂う三人。

「これからどうするんだ」全てをやり終えた塩原の声には興奮に似た活気がある。

「さあ、どうするかしらね。皆、貴方の妄想に巻き込まれた様なもんだし」漂うアリスが毒舌を吐いた。

「神にでもなるか」一転、塩原の言葉に欠伸を噛み殺す調子が混じった。「〈全知全能機関〉と同じ道を辿って」

「〈全知全能機関〉は全平行宇宙で唯一のものになりたかったのよ。……全知全能。それが楽しいの?」

「知りたいという衝動こそが私の本性だ。全てを知り終えてしまうなんて御免だ。それこそ、神にでもなるしかないだろう。……凄くつまらなそうだ」塩原が冷めきった無感動な言葉を吐く。「大体、人間が神になるのは論理的には二つのステップを踏むだけでいい。一つ、生きている内に奇跡と呼べる御業を起こす。二つ、生死不明になる。……私がいなくなってもこの物語世界は消えないのだな」

「そうよ。ちっぽけなアナタがいなくなっても、この宇宙は続いていくのよ」

「そうか」アリスの毒舌に塩原が納得した様な言葉を返した。「それはとてもいい事だ」

「虹美。アナタはどうするの」アリスは虹美に訊いた。「汝、〈虹眼〉〈渦眼〉を持って、無限の時間の外から宇宙を自在に操れる神の視座を望むか。……〈虹眼〉と〈渦眼〉の両方の力を手に入れたアナタは自由に世界を変容させられるわ。全ての量子の位置と運動をいっぺんに観測出来る二つの眼。神になりたい?」

「私は」オレンジ色の髪の少女は呟いた。「元の世界に戻りたい。私がいた世界で〈普通〉になりたい」

「私は何処へ行くか」と塩原。「……何処へ行くんだろうな。まあ、〈メデューサ〉に積まれている非常食と水が尽きてから考えるさ。〈時間的距離〉を未来の方へ、流浪の旅にでも出るかな」と塩原。

「わたしは姉様達の元へ帰りたい」〈メデューサ〉はワルツを踊りたい、と言う調子で言った。「わたしは姉様達と会話の続きがしたい。全ての生命を、人間も共に救える未来の宇宙を創造する為に。……想像する為に」

 人間は時間の流れを作り出せる。

 量子を音符とすれば、それを連続させて音楽の旋律を生み出せる様に。

 量子力学的には人間を含め、全ての現象は調和振動子の場のエネルギー分布だ。

 指と指が触れ合い、しっかりと手を固く握り合えるのは〈呪術的距離〉の作用ではないか、と皆は何故か、同時に思った。実体と実体、意味と意味が触れ合うのだ。

 人の意識が時間の流れを生み出す。勿論、〈メデューサ〉の脳もそれが出来るはずだ。

 ゴーゴン艦三隻がそれぞれの主観を循環する様になれば、やがては自分を主観視する事と等しくなるだろう。その主観観測によって自分も変容していくのかもしれない。行く川の流れは絶えずして、元の水に非ず。皆は変わっていく。それは神に等しい存在になるという事だろうとも。

「そして新たな〈織姫〉が産まれるのだな。〈全知全能機関〉の狂気を帯びたものではない、当初の計画通りの三位一体の〈織姫〉が」と塩原。。

「ワタシはどうするべきかな」とアリス。「ワタシも幽霊みたいなもんだし。といって、成仏する気もないし」

「何処かに行きたくなるまで、お前も〈メデューサ〉の胎内にとどまっていればいい。彼女達の会話をインジケータで観察し、私達だけで、その話題を語らうのも悪くないだろ」

 アリスは塩原の呼び止めに、どうしようか、という表情を猫の顔に作った。瞳の中空の十字が仄光る。

「宇宙の終わりまでワタシもそうする事にしますか」

「言っておくが私は宇宙の終わりまでここにいる気はないぞ。食料が尽きるまでだ」角を持っていた男はそう語った。

 終焉。

 別れの時が来た。

 皆はそう思った。

「私達は〈全知全能機関〉を本当に倒せたのかしら。無数の平行宇宙にはそれぞれの〈ブラックマザー〉がまだいるとしたら……」

「全平行宇宙で唯一の物を倒したのだよ、私達は。その影響は共有していた平行宇宙全てに及んでいるはずだ」

 不安な幼子の様な〈メデューサ〉の不安に、塩原が答える。

「私はここで降りるわ」虹美が別れを切り出した。「私のいた宇宙まで転移して」

「そんな事をしなくても、アナタは自分の『いた』世界を『作り出せる』はずよ。この全てが縁遠い平行宇宙の隙間から、〈メデューサ〉の中から一歩、足を踏み出せばいい。アナタという情報体がバックアップしている影響が、アナタから最も自然な〈空間的距離〉〈時間的距離〉〈呪術的距離〉の宇宙を創造するはずよ」

「そうなの」

 自分の行動に対するアリスの説明を聞くと同時に、虹美の正対しているコックピットの壁に真円のゲートが開いた。これは外へとつながる通路なのだ。

「窒息しないかしら。外は一応、真空なのでしょ」

「大丈夫だ。人間の身体の宇宙空間への耐性を考慮するまでもなく、君に対する宇宙のリアクションは瞬間的なはずだ」

 塩原の答を聞きながら、虹美はコックピットから通路へと歩き始めた。

「ちょっと待ってくれ」

 塩原が引き止め、手を差し出した。

 握手ではない。ハイタッチだ。

 意味と意味が触れ合った。

 二人の手が小気味よく鳴り、反動で身体が泳いだ。

「じゃあな」

「じゃあね」

 虹美の身体は泳ぎ、コクピットを出た。

 コクピットの扉が閉まる。短い通路を渡り、前方の絞り状のエアロックが開く。

 虹美は〈メデューサ〉の外に出た。

 黒に近い灰色。白に近い灰色。無限の溶解。

 その複雑さを読み解けるほどの理解力があれば、無限種類の平行世界が織りなす多彩な色や、そこに写しとられた活き活きとした人間達の風景を見分ける事が出来ただろう。神の領域といえるほどの理解力があったなら、それら平行世界の群を組み立てている、全ての量子場と時空を超えたネットワーク構造さえも同時に理解出来るのかもしれない。

 田村虹美にはそれがあった。

 〈虹眼〉。

 〈渦眼〉。

 静かな流れ。無音の激流。互いに影響しあう、幾たびもの分岐と絡み合い。立体交叉。いばら。長虫。やわらかい迷路。

 濃度の違う液流がすれちがって生じる、大小様様の渦。

 背後で外部ハッチが閉まり、艦表面の銀色の液体金属に溶ける。

 今、少女は真空空間にいた。

 ふと学校の上履きを履いた足先に、水面に触れた如く、波紋が広がった。

 その歪みのない真円の波紋は、急速に真空に光を伝搬した。

 波紋の内側は黄昏色。

 黄昏色の風景が複雑な立体を伴って、起き上がっていく。

 そして波紋がなぞる光景は、少女にとって思い出の場所を現出させる。

 足先に質量を感じた瞬間、重力が生じた。

 自分という情報体を縁として、脳が記録していた時代、空間、郷愁を再創造する。

 閉鎖空間。

 教室だ。

 あの自画像を描いていた、放課後の。

 放課後の教室の風景全体が、ゼリーの様にしばらく揺れたが、やがて硬度と質感を取り戻した。

 間違いない。ここは放課後のあの教室だ、

 自分はいつの間にか、自画像を描いていた、鏡を置いていた机の前に座っていた。

 鉛筆を握っている。新しいナイフで長く削りだした三Bの黒芯。

 ここで〈メデューサ〉と遭い、アリスと会い、吸血鬼と戦った。

 今は全てが、夢の中の出来事だった様に思える。あれらの事は、この教室での一瞬のうたた寝が作り出した偽記憶か。

 自分の耳のピアスの穴を指で確かめる。

 それは確かにそこにあった。

 鏡を見る。

 鏡像反転した自分の顔が映っていた。

 右眼は〈虹眼〉。

 左眼は〈渦眼〉。

 鏡像は事実だった。

 この教室、校舎の外にまで自分の想像範囲が広がっていくのを感じる。自分という触媒に反応して、少女の主観的な超光速で宇宙が出来上がっていき、やがてそれは彼女の主観的な思いから独立した思念体をも作り出していく。

 創造される人類。そして生命群。

 窓の外から下校する、部活動をする人の声。雑然とした雰囲気。

 その出来上がったものの主観で、彼女がここから見られない部分の宇宙が埋まっていく。

 範囲を広げていくに連れ、複雑さを増し、少女にとって未知領域を作り出す。やがて少女はは創造主でなくなり、彼女の思うままにならない未知領域が増える事で世界は安定する。

 少女はもう主人公ではない。大勢の客観を共有する一つの宇宙となり、時間が流れ始める。

 歯車の一つだ。

 だが宇宙にある人間を含めた全ての現象という歯車は、自律しているのだ。

 意思体は自分という動力を持って、宇宙の全てを伝搬し、受け流す歯車なのだ。

 少女は鏡を見つめた。

 自分で自分を〈観測〉する。

 一瞬のまばたきの後、少女の眼は普通の人間の双つの眼になっていた。白い眼球の中央で黒い瞳が見つめる。

 窓から外を見上げれば、〈メデューサ〉が黄昏色も混じった複雑なオーロラ状の尾を曳いて飛び去っていく。

 それはすぐに金色がかった、紫の雲の中に消える。

 五時一三分。

 時間が流れている。

 少女は年をとる。

 自分はこの世界の中心なんかじゃない。

 それはとても素晴らしい事なのだ。

 恐らくはこれは塩原の描いたハッピーエンドなのだろう。

 田村虹美はそう思い、自画像を描いていた道具と鏡をしまうと、前入り口の扉を開き、家に帰る為に教室から出ようとした。

 ふと、足元に一枚のカードが落ちているのに気づいた。

 タロットカード。

 ナンバーⅥ〈恋人ラバーズ〉。

 それは虹美の未来を予想するカードだろうか。

(テーマは愛かしら。完成にはまだまだ時間と試練が必要って事かしらね)

 彼女は身を屈めてそれを拾い、ちょっとした感慨と共にバッグにしまうと教室を出た。


(終)

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にじめ、うずめ 田中ざくれろ @devodevo

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