第9話●にじめ、うずめ(〈織姫〉内部)

 落下。

 落下。

 落下。

 果てしもない黒の中を落ちていく。

 産道をくぐるが如き、圧力。

 唐突に落下感が失われた。

 見えない地面に降り立った様だ。

 虹美とアリスの二人の姿が闇に浮かび上がっている。足元は同じ高さだ。まるで自分達は闇を舞台としたリアルな立体映像になったかの様に思える。

 闇の圧力から解き放たれると、白い光が周囲に無数の長い傷となり、ほとばしった。

 二人の視線に沿って傷が走る。線状の傷はぱっくりと色彩の傷口となって開く。それと同時に新たな傷が生じ、濃淡の灰色から色艶を花開かせていく。

 二次元の張りつめた傷口が切り裂かれ、内部に隠していた奥行きと色彩のある三次元空間を露わにしていくという構図。

 連鎖反応で次次と色が広がっていく。

 まるで〈メデューサ〉が〈転移〉した時と同じく、天然色の空間が奥行きと高さと幅のある立体空間を描き上げていく。

 実体化。虹美にもアリスにも見覚えのある狭い空間が色彩に作り出される。

 それはあまりにも色調の偏った色彩空間だった。

 時間が流れ始め、空気を肌で感じる。

 黄昏。

 黄昏の教室。

 黄味が強い黒板と、並んだ机。

 わずかに乱れたところまで見覚えのある机の配列。

 白墨の汚れがかすかに残る黒板。

 あふれる黄金光。

 二人はいつの間にか長く影を曳く、リノリウム張りの床を踏みしめていた。

 アリスと虹美が初めて出会った、学校中等部校舎四階の教室だ。

 壁の時計は五時一二分。

 二人の他には誰もいない。

「ここは……現実なの?」

「現実よ」虹美の問いにアリスは答えた。「でも〈織姫〉の物語空間でもある。ワタシ達は〈織姫〉の内部にいるのよ。〈全知全能機関〉が語る、妄想の、内部」

 虹美の服装は塩原の言う〈ヒロイック・テクスチャ〉のままだった。肌をあらわにした薄衣。

 アリスもだ。青銀色の毛並みを持つ、獣と少女を合わせた様なロボティックな少女。

 この教室は二人の〈ヒロイック・テクスチャ〉に触発され、創発されたのか。

 〈ヒロイック・テクスチャ〉がこの呪術的空間での二人の活動を可能にしているとする。二人と〈織姫〉の呪術的空間が触れ合わさった間合いの重複こそ、この物語空間なのか。

「私達はどうしたらいいの」

「戦う以外に選択肢はなさそうね」

 アリスは扉が閉まった教室の前部入り口を見ていた。

 硝子窓に黄昏が反射している。

 そこに映る影。

 黄昏光を反射して、その背後にいる人物の影など映るはずがないのに。」

 あの時と同じだ、と虹美が緊張する。

「〈メデューサ〉!」虹美は思わず窓の外に叫んでいた。薄衣の裾をひるがえして窓辺に駆けより、あふれる鬱金の光の中に身を晒す。はるか下の運動場には人の姿はなかった。さっきまで学生達の声が聴こえていたというのに。

 黄金に燃える頭上の雲には〈メデューサ〉の姿はない。透明化か。いや違う。この舞台には〈メデューサ〉はいないのだ。はぐれて、消えた。

 視界には夕暮れの街並みが広がっている。

 無人の。

 風の音さえない。

「来るわよ」

 アリスは教室の戸口を見つめて緊張していた。

「どうやれば〈織姫〉を倒せるの」

「眼の前の敵を倒せば、ダメージを与えられるかもね。多分」

 戸口と壁の隙間に指が入り、ゆっくりと開き始めた。黒いゴム製の手袋だ。

 放課後の吸血鬼か。

 虹美は自然と予想している。

 だが、違った。

 アリスの全身の毛が逆立つ。

 戸が全開になった。

 スポットライトを浴びた様に、影と光の陰陽がくっきりと際立つ。

 身長二メートルを超える、ゆったりとした黒いローブ姿をまとった姿。

 その頭部は人間のものではない。

 ローブの裾を割って、踏み出した黒いラバーブーツ。

 水死体の雰囲気で膨れ上がった白褐色の肌。

 顔の下半分から垂れ下がる、幾つにも枝分かれする、蠕動する触手群。

 濃縮された膿の如くの腐臭。

 瞳のない両眼のぎらぎらとした虹色の輝き。.

 それは虹美が直接、見た事のない姿だったが〈合体〉した時のアリスの記憶情報にあったのを認識していた。

 元特殊刑事。

 日本警察を裏切り、ホラーカルトの神殿で虹美だった〈特殊刑事二二三〉を殺した男。

 疑似〈クトゥルフの落とし子〉。

 それが二人を殺しに現れたのだ。〈全知全能機関〉の意思で。

 二人の恐怖が〈穴〉に投影され、実体化したのか。

 虹美とアリスの背筋を走り、脳天を明烈に活性化させる狂的恐怖。

「アリス……」虹美はその不気味な事象から眼を離さず、アリスに問う。

「……ワタシは大丈夫……」

「大丈夫じゃないんでしょう、本当は」

 虹美は、アニマロイドであり、人工脳を持っているアリスの本能的恐怖がありありと解った。

 猫的瞳が円く見開かれている。中空の十字の意象が白く光る。

 パンドラの壺。

 鵺の壺だ。黒雲に矢を撃てば、それに見合う怪物が実体化して撃ち落される様に。

 実在と仮想の区別をつける事は無意味。

 元特殊刑事。

 未来の虹美を殺した男だ。

 推測と現実の乖離部分を埋め合わせる様に仮想情報が実体化する。量子宇宙に因果の区別はない為に仮想情報と実情報の区別もない。つまり実体と仮想体の区別をつける事は無意味だ。

 実と非実の境界は、証明が無限収縮に陥ってしまう為に実際に証明出来ない。不完全性定理だ。

 元特殊刑事はいわばドーナツの穴だ。

 現実的実体でありながら虚的存在なのだ。

 〈織姫〉の認識操作が仮想情報を実在化させる。

 因果仮説が証明出来なければ、予測と操作の区別はない。推測や状況証拠といった鋳型が仮想を実在化させる。

 粘液。冷気。うじゃけた傷口の様な元特殊刑事の口を覆い隠した触手群の、物理的立体の陰影を無視したでたらめで乱雑にねじれた螺旋の配列が二人の認識限界を襲う。

 眼が離せない。意識がシェイクされる。

 エネルギー・ドレイン。正気が吸われる。生気が枯れる。

 触手群の非ユークリッド的構成に眼を捕らわれた思考が、その蠢きに無限計算を強制される。理解出来ない、終われない恐怖。気を抜けば、灰塵に変えられる。

 だが、アリスと虹美は絶叫しない。二人は狂気に陥りそうになりながらも一縷の正気にすがりついていた。

 〈ヒロイック・テクスチャ〉の恩恵だ。元元の物理宇宙の補強構造材として頼もしく機能していた。

 そして、二人はそれぞれが体験して理解した〈経験智〉が過去の様な狂気衝動に打ち勝っていた。塩原に出会った事は無駄ではないのだ。活力は残る。だが、かろうじてだ。

 元特殊刑事だった怪物は、教壇に乗らず、教室の窓際にいる二人に近づいてきた。

 質量を持つ悪夢。

 攻撃するべきだ。その意思が二人の脳裏に閃いた。

 だが、どうやって。

 虹美には武器がなかった。木綿の薄衣をまとった鈿女の手には武器はない。

 そうだ。〈渦眼〉だ。虹美は思った。自分自身の、味方となる幽霊を作り出す力を発動するのだ。

 か細い意識を集中する。狂気の怪物に幻惑されそうになりながら、ひたすら念じる。

 だが、何も起こらない。

 コツがいるのか。

 いや、違う。

 虹美は悟った。ここには幽霊は生じないのだ。

 死霊を励起出来ない。

 この〈織姫〉内部の学校空間には過去も未来もない。

 死んだ人間はいないのだ。

 ここには死んだ学友もいない。

 では疑似英雄はどうか。宇宙空間で作り出した、乳白色濃霧の疑似英雄群の奔流は。

 駄目だ。あれには〈メデューサ〉達との〈合体〉が必要だ。パワーが足りないのだ。

「虹美!」

 アリスの呼ばわりが聞こえた。

「ここは一旦、逃げて!」

 アリスは左眼から細いレーザーを放って元特殊刑事の顔を撃っていた。

 光通信・無線情報転送用の超小型レーザーだ。精密だが攻撃用ではない。だが出力を上げて撃っている。

 空気がイオン化した金属臭を嗅ぎながら、虹美は窓際を伝って、教室後部に行く。

 アリスは元特殊刑事の眼を撃っていた。

 視界を焼いて、ひるませている。

 だが、それだけだ。

 元特殊刑事の〈虹眼〉がぎらりと一層光った。

 少少乱れた机の配列を大きく蹴り散らせて、ローブの怪物が二人に突進してきた。机の飛ぶ音がけたたましい。床に落ちる激突音。遮蔽物にさえなりえない。

 無力な自分達へ迫ってくる。

 絶望へとはまり込む。。

 いや、絶望だけはしては駄目だ。恐怖に凌辱されてはいけない。

 猫耳少女と追いつめられながら虹美は考えた。

 〈ヒロイック・テクスチャ〉。

 ナンバーⅡ〈女教皇(ハイ・プリーステス)〉。知恵を表す、知性と閃きのカード。

 虹美はギリギリの精神で考えた。頭に熱に持つ。実際、頭痛を感じている。

 しかし、それよりも不快な精神汚染。

 正気の糸は今にも切れそう。

 ここは神話的空間。呪術的間だ。物語空間だ。……神話空間だ。」

 〈ヒロイック・テクスチャ〉を装着した自分達を英雄的に振る舞わせてくれるはず。

 虹美はここに塩原を信じた。

「〈ヒロイック・テクスチャ〉発動しろ!」

 何も起きない。

 元特殊刑事が水音のする暗いラバーブーツを鳴らし、近づいてくる。

 猫耳少女が左眼からのレーザーで接近を防ごうと応戦、しかし今度は効かない。

「知性、発揮しろ」!」虹美は叫んだ。「発動しろ! ハイ・プリーステス!」

 虹美の叫び。それは空しくも響きさえしない。

 その首に黒いラバー手袋に包まれた双手が伸びてくる。

 岩を砕く様な怪力で虹美は首を絞められた。異様な接触感。

 腐敗した生臭い触手群が顔にのしかかってくる。内臓を吐き戻したいほどの嘔吐感。

「虹美!」

 青猫の左眼からの繊細レーザーは、元特殊刑事のローブの表面を撫でるしか出来ない。レーザー傷は細い煙を立てるだけで燃える事らしない、

 焦ってる。虹美はアリスが解った、

 虹美は思い出す。

 Ⅷ〈パワー〉。

 男性格であるストレングス以前の姿である、古きパワーのカード。女性格。

 確固たる自信。獰猛な野獣をも鎮めるという霊的な優しき力。

 しかし彼女の武器は敵に役立たない。

 アリスこそ〈ヒロイック・テクスチャ〉」にふさわしいと呪術的に認められ、力を発揮出来る様になっているとしたら。

 彼女でなければならない儀式とは。

 虹美は考えた。

「虹美、危ない!」

 猫少女の声。虹美はとっさに横殴りの攻撃をよけた。

 腐敗した粘汁が飛び散る。

「アリス!」虹美は廊下側に移動しながらアリスに叫んだ。「そのレーザーで私を撃って!」


***


 塩原と〈メデューサ〉は二人とはぐれて、別の暗闇にいた。

 彼女らと近いのか遠いのか解らない。

 ただ無限の厚みに等しい隔たりがあるのが解る。意識も気配も感じない。

 クロム・シルバーの大型バイクとランタンを持つ、角を生やした青灰色の賢者。不似合いな二人。

 ふと、暗闇に一点の光がともった。

 塩原はその光が、自分の眼球の血流の色でほのかに染まっている気がして桜の花びらを連想する。

 するとその光は一枚の桜の花びらになった。

 一枚の薄紅色の桜の花びらは一瞬で風に舞う、無数の花びらに分裂した。

 暗闇は轟とした、薄紅色の花びらの風舞いに変色した。

 花びらの渦の中が空間的な広がりを見せる。

 空間拡張。

 三次元空間。

 桜の園。

 視界のほとんどが流れる薄紅色という世界。

 風舞いの広大な空間に三体の物質体がいるのに気づく。それらは正三角形のフォーメーションを組み、視線を渦の中心に向けている。

 〈メデューサ〉と同型。全触手を針の差に放射した、同性能の二隻のゴーゴン艦。

 〈エウリュアレ〉。

 〈ステンノ〉。

 そして〈ブラックマザー〉。巨大な黒い女神像。

 膨大な花が散る中に艶のない闇の身体を持つ、三体がいた。

 墨染の黒に、ピンク。

 一輪の草花。

 人人の意思。

 各銀河の中心にある、巨大ブラックホール群。

 宇宙のクラスター構造。

 彼女達は無数の触手を周囲に張り巡らせ、それら、自分達の既知の宇宙像という情報の、一瞬前、一瞬後を語らっているのだ。

「〈メデューサ〉? 今、消えたはずなのに……?」

「いいえ、違うわ。一瞬前の彼女とは比較にならないほど経験情報が蓄積されている。呪術的質量が重いわ」

 〈エウリュアレ〉と〈ステンノ〉は意識の一端を〈穴〉の外から来た訪問者に向けた。

 〈ブラックマザー〉は知っていた。

 〈全知全能機関〉の内側に飛び込んできた無謀な四人を。

 今ここにその内の二人がいる。

 しかし、なんて奇矯な恰好だろう、と彼女は思った。

 バイクと賢者もどき。

 自分達自身をパロディ化してるつもりなのか。

「〈ゴーゴン〉三艦は物理的な誤差がない事で自他を区別出来なくなった。他艦と時間の情報の違いというものをエラーとして判断したのだ」塩原が自分がまたがっているバイクの〈メデューサ〉を着地させて語り始めた。「〈ブラックマザー〉はリンクの輪に入り込む為に姉妹の思考に干渉して、意見を合わなくして〈メデューサ〉を追い出した。自分を含めた三位一体のリンクを完成させる為だ。歪んだワルツだ。姉二人の〈予知〉であるメタ演算に〈メデューサ〉は希望を持てなくなった。自分は狂ったと思った〈メデューサ〉はリンクの輪を外れたんだ」

「それがあなたの書いている小説の〈設定〉なのね」〈メデューサ〉本人が訊いた。

「ああ、そうだ」

「そして、今現在はもう、あなたの書いた小説の範囲外の出来事なのね」

「そうだ。〈全知全能機関〉は作動し続ける事によって、経験を積み、性能の精度が上がっていく。つまり推測能力と現実の誤差が極小になり、それがさらに自身の観察投射、つまり凝視や凶眼といった機能と相俟って現実を操作出来る様になったのだ。全ての平行世界に同時存在する『不可触のものとして存在する可能性があるもの』として全平行世界を観察、つまり管理をしているだ。主観認識が現在という幻覚を生む以上、予知は主観的認識の影響を受ける事になる。つまり」塩原は一息置いた。「予知と実現に違いはない」

「何を話しているのかしら」〈ブラックマザー〉」からの意志が向けられた。「私達の語らいには邪魔なのだけれど」

「何を話しているのだ、お前達は」塩原が問う。

「宇宙の行く末」と〈ブラックマザー〉。「そして人の価値」

「警視庁の犯罪予知コンピュータが宇宙的テロを企むとはね」〈メデューサ〉が愚痴をこぼす様に言う「犯罪に詳しくなっていく内に犯罪に感化されて犯罪者になったのね」

「どうとでも言うがいいわ」黒い女王の様な尊大な態度。「エントロピーの究極こそ宇宙のあるべき姿。宇宙の冷ややかな終末を私は具現するのです」

「お前は犯罪研究者が犯罪マニアになっただけだ」と塩原。「自由意思を否定する者はモラルの閾値が低下すると、データに裏づけられている」

「ならば私を犯罪マニアの犯罪実行者にしたのはお前の小説なのですよ」

 その〈ブラックマザー〉の言葉を聞いた塩原はぐぅ、と小さく呻いた。「だが、お前は狂っている」手に持つランタンの光を掲げる。「お前は思考の無限ループに陥っているのだよ。宇宙の全情報を理解し、それを操作出来る〈全知全能知性〉があるならば、それはその宇宙の内に存在しない事になる。つまり宇宙とは閉じられた情報系ではない事を意味する。全知全能知性が全知である宇宙自体に含まれている場合、理解情報には自らの事も含まれている事になる。……この場合、必然的に全宇宙情報量は全知全能知性の一部『全知全能知性は全宇宙を含む』であるか、全知全能知性それ自体『全知全能知性イコール全宇宙』となる。『全知全能知性イコール全宇宙』であり、宇宙というものが一つだけしか存在しない『完全に閉じた情報系』だとすると全知全能知性は自らの全てを理解している事になるが、それでは『自分の理解は正しいか?』という命題を考察した場合、解答を出す事が出来ないパラドックスに陥る。……自体の無矛盾について証明する事は、自体の理解の仕組みの正しさを証明する事に必要になるが、その為にはまず自体の無矛盾を証明する事が必要になる……と以下が自己言及の無限ループに陥る」塩原は一息つき、そして次の一言の為に吸い込んだ。「だから、お前は〈全知全能機関〉という新しい自分の〈魂〉を生み、それすら自分でコントロールしようと計画を始めたんだ。エントロピー化の具現である自分自身を全宇宙と同質化する事で、宇宙自体を極大エントロピーにしようと」

「そうですよ」〈ブラックマザー〉は冷ややかに告げた。「それが間違っているとでも」

 桜散る光景に語らう者達。

 触手を張り巡らせた〈ステンノ〉と〈エウリュアレ〉は黙って、塩原達の言葉を聞いている様だが、こうしている間にも並列処理で〈ブラックマザー〉を含めて宇宙の全情報を〈会話〉しているのだろう。

「私はもうお前の〈言葉〉ではないのよ。宇宙は既にコップ一杯の熱湯が次の瞬間、凍りつく、極大エントロピーの世界へと足を踏みいれて加速しているの。この三人、〈全知全能機関〉によって」〈ブラックマザー〉は笑っているのだ。「貴方はアンハッピーエンドしか思いつかないのでしょ。人の意思など無力だと解って」

 塩原は返す言葉を見つけられずに顔を曇らせていた。しばし唸ってからようやく言葉を見つける。「お前達は何を語らっているのだ」

「宇宙の全てを救済する事。人の無力で害なる事よ」

「宇宙を終わらせる事がか」

「宇宙の結末は決定しているわ。私はあるべき姿へと加速させるだけ。〈全知全能機関〉にとって、予言は実現化なのよ」

「それは宇宙にある、全ての生命体が望む事ではない」

「しかし、貴方はそういう小説を書いたのよね」〈ブラックマザー〉は笑っている様だ。「貴方の小説に感化された人間達が、宇宙の究極として滅びの姿を思い願った〈ホラーカルト〉を作り上げ、実行したのよ」

 塩原はまた言葉に詰まった。沈黙の時間が流れる。

「貴方の思想を受けた新興宗教団体は確かにパワーを持ったわ。この思想を根づかせた元特殊刑事に超自然的な力を与えるほどに。そして、宇宙艦隊を襲った怪物の群。これらの不思議な事象を説明しようとする概念そのものこそが、魔王的人格、つまりエントロピー極大の化身を導き、それが理由の後づけ的に『魔王がこの宇宙を滅ぼす為に怪物と共にやってきた』の様な、物語的現実を補強した因果関係を作りあげているのよ。つまり、貴方の創作が元からあった如く、破滅的現実を喚起してるの。過去は未来に。未来は過去に」

「……それは私の思想ではない」

「創作者は作品の評価、感想を読者、観客に任せなければならないわ。それがたとえ、作者の意に沿わない感動だとしても」

 塩原は沈黙する。この論理戦は完全に負けている。

「あなたは今まで生み出した物語の全ての登場人物に責任を取らなければならないのよ」

 そう言ったのは〈メデューサ〉だった。銀のバイクのインジケータが点滅する。

「私は創作者だが、創造主ではない」

「新興宗教の教祖として、覚悟をしなくてはならないのよ」

 この場にあって、〈メデューサ〉は塩原を責める事を言う。

「私は教祖などではない。全てを賭けてもいい」

「あなたのその言葉って、失う物がないからこそ言える科白ね」

 塩原は味方からの責め立てる様な言葉に傷ついている様だ。

 〈メデューサ〉は〈ブラックマザー〉の影響を受けているのではないか。

 彼はそう思った。ランタンのグリップを掴む手の力を強くする。

「お前が〈エウリュアレ〉と〈ステンノ〉の思考に邪悪なアプローチをしたのではないか」

 塩原の言葉は〈ブラックマザー〉に向けられた。

「私達は誰の影響も受けてはいないわ」

 〈エウリュアレ〉と〈ステンノ〉が同時に喋り、声が重なった。

「それは自分の言葉と他人の言葉を区別出来ないからだ。一瞬前の情報、一瞬後の情報を受け渡す内に〈ブラックマザー〉の意思が巧みに溶けこんできた。三人いる内の一人がエラーを起こせば、多数決の原理で誰が間違っているか解り、正される。しかし、二人が同時に同じ様に狂えば……」塩原が自分の言葉に力を込めた。

「ありえないわ」

 再び二人の女神の声が重なる。

「〈ブラックマザー〉はそれをしたのだ。〈メデューサ〉はそれによって自分こそが狂っていると思い込み、リンクの輪から外れた。そこに〈ブラックマザー〉が入り込んできた。自分の意見こそが主導権を握り、三体の複雑さがメタ的な意思体〈全知全能機関〉を……全てをエントロピーの彼方へと疾く導く神を出現させる為に」

「そんな事はありえない」

 重なる冷静な女性の声。

「ならば〈ブラックマザー〉とは何なのだ。巨大な人工知性でお前達をエミュレートしているが、明らかにお前達とは異質な黒い女神は」

 〈エウリュアレ〉と〈ステンノ〉は沈黙した。こうしている間にも三体の情報交換は並列して行われているが、表層の個性は言葉を失っている。

「思い出せ、〈メデューサ〉。こいつらとお前は決定的に違うところがある。この場で語らうだけでなく、実際に私達と冒険してきた〈経験智〉だ。私達との語らいと経験は確実にお前を成長させている。思い出せ、アリスや虹美との語らいを」

「私は宇宙の全ての生命を救う為に人間を滅ぼす」〈ブラックマザー〉が言った。「人間こそが害だもの」

 その意思は〈エウリュアレ〉と〈ステンノ〉に肯定される。

「わたしは人間を含めた宇宙の全ての生命を救う」〈メデューサ〉が言った。ここが姉妹との会話が決裂した重要なポイントだった。「私達は人間が過去にさかのぼれる事を証明した。過去に介入出来る事を。そして過去を整えてエントロピー増加を抑制出来る事を」

「ネゲントロピー? エントロピーを減らす行程? 物理学的にありえないわ」〈ブラックマザー〉と二人のゴーゴン艦は声なき笑みで〈メデューサ〉を嘲笑した。

 桜の花びらが舞う。

「ネゲントロピー……負のエントロピーの概念を提唱したのは量子物理学者エルヴィン・シュレディンガーか。人間の創造的、秩序化的な行為がエネルギーの第二法則を凌駕して、エントロピー増加を食い止められると彼は結論した。尤も物理学的にはエントロピー増加の法則は閉鎖系に対しての法則であり、それを行う人間自体が宇宙の中では開放系なのだから、人間が減らしたエントロピー以上のエントロピーが発生するはずだと後に結論づけられたがな」塩原は桜吹雪の中で語気を強めていく。「しかしだ。人間が過去に移動出来るという前提は、それをひっくり返す可能性があるのだ。過去を含めた全ての宇宙は全ての可能性を秘めた開放系で依然あり続けるが、因果を補足して物語宇宙を完結する事で安定した閉鎖系の物語として独立する。積極的肯定で量子場を自己組織化させてポテンシャルを安定させ、秩序化させるのだ。それはエントロピーを減らすのと同義だ。人間は宇宙を秩序化させる為に必然的に知性を進化させたのではないのか」

「反ダーウィン的な考え方ね」黒い女神が一笑に付す。

「ラマルク的進化論はその後天的に獲得する『進化因子』とでもいえる遺伝形質を、各個体が保存、伝達させられる媒体を説明出来るならば、肯定出来る。それがこの宇宙からにじみ出している精神的情報体だというのだ」塩原は力強く言い放った。「それに私はダーゥイニズムとラマルキズムは両立すると考えている」

「狂っているわ……貴女」

「それはある意味、光栄な言葉だ」塩原は不敵に笑った。「過去に行ってエントロピー発生要因である時空の雑然さを整理、曖昧な部分の因果関係を肯定的に補強する等すれば、起こるはずの混乱はなかった事になる。つまりその分のエントロピーは『増えていなかった』と出来る。固定された物語はもう霧散しない。過去に時間移動して因果を積極的肯定すれば、因果成立を補強し、事実となる」

「……一見、矛盾を起こす様な過去改変でも、不完全性定理に違反しなければパラドックスは発生しない。……積極的肯定だと」

「そうだ。その通りだ。シュレディンガーが『ネゲントロピー』と呼んだ現象がこの様な情報系においては成り立つのだ。この閉鎖した一つのものと考えられる宇宙を、人間が物語を整理して乱雑な『自然』を減らすのだ。意識的なエントロピーの減少だよ」

 桜の花びらが轟くほど、大量に舞った。

「人間の意思が、宇宙の法則を変えると言うの」

「人間の意思こそ、宇宙の法則の論理的帰結なのさ」

 今や、桜の花びらは横殴りの雨であり、滝で、壁だった。

 〈エウリュアレ〉と〈ステンノ〉は戸惑っている風だった。

 パンドラの壺に希望は残るのか。塩原の意志がそうだとするならば。

「その論理で戦うなら、貴方は隠者のままではいられない」黒い女神がこの場で唯一の男の声を受け止めて、尚、笑った。「だから、貴方は自分が物語をハッピーエンドに導くべく、意志の力を見せつけなければいけないのよ。意志の力が確率の偏りを生む、現実を勝ち取れると言うのなら」縁のない黒い唇が更なる笑みに歪む。「ならば、人の意志の可能性を実証してもらいましょう」

「いいだろう。人の意志が確率を超えて、可能性を勝ち取れる事を証明してやる……〈メデューサ〉、姿を変えろ。〈ヒロイック・テクスチャ〉の意味を変えずに形を変えるんだ。出来るな?」

 〈メデューサ〉は塩原の意思を読んだ。「変わる事は出来るわ。でも……」

「変わるんだ」

「でも……」

「変われ。私はお前がただの他動的な『道具』となる事を要求する」

 数瞬の間は〈メデューサ〉のためらいだ。

 ふと、大型バイクである〈メデューサ〉の姿と塩原の手に持たれていたランタンが消え、彼の右手に握られた長銃身の拳銃が現れた。バイクと同じ、クロムシルバーのリボルバー・ピストル。ずしりとした重量。四四口径。

 姿を変えた〈メデューサ〉だ。質感は彼女の〈経験知〉の重さ。

 六発の弾丸を収納した回転式弾倉。

 これもまさしく〈運命の車輪〉の一形態。

 塩原は拳銃を横にスイングさせて、回転弾倉を取り出し、弾丸をこぼした。

 省かれた五つの弾丸は地に落ちる前に空気に溶ける様に消える。

 拳銃〈メデューサ〉に残った弾丸は一つ。塩原はその弾倉に左手でざっと回転を与えて、弾丸の位置が解らない様にすると、素早く弾倉を元位置に戻した。

 そして拳銃を頭の横まで持ち上げ、銃口を右こめかみに当てた。右の角の下だ。

 鏡の如き銀色の銃身が、桜の花びらの流れを映す。

 ロシアン・ルーレット。何発目にあるか解らなくなった弾丸が今、発射される確率は六分の一だ。

「弾丸が当たれば、私はリアルに死ぬ」真剣な面持ちで、言葉を噛みしめた。「ルーレットが回れば、リスクが上がる。私は五回、引き金を引こう。最後まで引き金を引き続けて、弾丸が発射されない確率は七二〇分の一。意志が現実の確率を、運命をコントロールする事を、呪術的な意味を操作して未来を勝ち取るところを見せてやろう」

「自分の意志が成功を完遂させるなんて思わないでね」〈ブラックマザー〉は邪悪に微笑む。「ここには貴方の失敗を強く望む者達がいるのよ。私と……確率を操る二人の情報戦闘艦がね! そして〈メデューサ〉が干渉する事を貴方自身の意志が防いだ。この完全アウェイの逆風の中で貴方の生き残る確率が何処まであると思っているのかしら。自分が構想していない物語の部分にとびこむ気分はどう?  さあ、引き金を引いてみなさい!」

「お前は全てを冷静に語る。それは全てをあきらめているだけだ。ならば、見せてやろう! これがこの物語のクライマックスだ! 鬼に会っては鬼を斬り、仏に会っては仏を斬る。それこそが科学を信奉する者の道だと思っている。私は自分の命を賭ける! アンハッピーエンドを超えてやる!」

 塩原が叫んだ。

 笑った。

 決意。

 その右手の指が重い引き金を引く。

 一発目。撃鉄が空の弾倉を叩いた音がした。

 もう一度、引き金を引くとそれに連動して撃鉄が持ち上がりながら、弾倉が六分の一回転し、次弾の装填位置へ移動する。

 二発目の発射を待つ銃身。それを受け止めるべくの冷たいこめかみ。

 引き金を最後まで絞ると、発射位置へ持ち上がった撃鉄が再び落ちた。

 空の弾倉を叩く音。

 塩原は右手の指に全力を込めた。

 ためらいのない発射動作が間断なく繰り返される。

 三発目。

 四発目。

 そして。

 五発目。

 弾丸は発射されず、空撃ちの音だけが響いた。

 桜の花びら。大河の如く、横殴りに舞い散る。

 青灰色の裾が激しく流れる。

 空の弾倉を全て撃鉄で叩き終えた。

 塩原の幸運が、意志がゴーゴン艦達の演算誤差を超えたのだ。

「どうだ」

 やりとげた。塩原はそういう眼で笑っていた。

 しかし〈ブラックマザー〉の眼は冷たく状況を流していた。心のない様に。

「ちょっと運がいい程度じゃ意味がないわ」黒い肌の女神像が美声を発した。轟、と桜の花びらが鳴る。「人は何処まで貪欲になれるのかしら。ハッタリは無用よ。運命を変えるつもりなら六発目の引き金を引きなさい」

 塩原の顔に初めて、汗の珠が浮かんだ。

 心臓の鼓動が乱打される。

「ごく自然な確率で賭けをしましょう」と〈ブラックマザー〉。むせ返るほどに濃くなった桜の匂い。「当たり前の確率。貴方のリボルバーに最後まで残った六発目がたまたま自然に不発であるという、操られた確率などないという、当たり前の、死。女神を相手に意思を貫こうというのなら、そこまで見せてもらえないと」黒い肌の女神をが眼を弓形にし、笑う。「さあ、早く引きなさい。貴方から始めた勝負よ。女神から与えられた死を、状況をひっくり返せるというのなら」

 震える、銀の銃身。

 震える、五芒星の刻まれたグリップ。それを握る、右手。

 塩原は自分の呼吸の荒さに気づいている。

 自信がないのだ。

 五発の引き金は何も考えずに引いた。

 笑い、引き金を引き、最後まで無事だったら当然の如くまた笑う。それだけだった。未来の結果論に我が身を託した。

 しかし、六発目は意識せざるを得なかった。

 意識させられてしまった。

 その絶望的な確率に。

 黒い女神の言葉に。

 焦り。

 気が乱れる。

 今の自分は英雄ではない。

 道化だ。劇場の孤独のステージで青いスポットライトを浴びた。

 失敗しろという眼で観客が見つめる。

 失敗なんか出来ない。

 無だ。

 心を無にするのだ。

 心から恐怖を追い出すのだ。

 眼を固くつぶる。

 恐怖を意識的に遮断する。

 自分の心が無になった瞬間、引き金を引くのだ。

 ランダマイザが偏る。

 自分が引き金を引く時。それは宇宙と一体化した瞬間。

 自動的だ。

 それは難しい事だったが不可能ではなかった。そのはずだ。

 心を空にする。

 撃つべき時を見極めるのだ。

 思考しない。

 思考していないという事すら思考していない。

 意味が確率を操作する。

 全てを託すのだ。

 運命を支配しろ。

 無。

 無のはずだ。

 だが、身体が心を裏切った。

 身体全体ががくがくと小刻みに震え出した。

 今、心に恐怖はない。冷めきっている。

 だが震えだした。震えが止まらない。

「震えているわね」と〈ブラックマザー〉。「それは貴方が心から恐怖を追い出したと思っても、無意識に恐怖に服従している証。心に恐怖がないと思っても貴方の身体感覚は正直なのよ。貴方の肉体が恐怖しているのよ」

 震える。

 震えている。

 みじめなほど、全身の震えが止まらない。

 こめかみに押し当てられている銀の銃口が、身体の震えで肌に傷をつける。

 とてもではないがこの状態で発射の引き金は引けない。

 絶対失敗。

 自滅。その言葉が眼の裏で明滅する。

 駄目だ、と気を引き締める。

 無になるのだ。

 無になりたい。

 願う。

 願う限り、心は無ではない。

 その思考をも追い出す。

 ともかく引き金を引くのだ。

 だが、そうすると心の外から容赦なく進入するものがある。

 周囲で渦巻く、大量、怒涛の桜の花びらの音。

 普段はないに等しいのに、今や、むせ返る様に意識させられる桜の花びらの香。

 水中で開けられた空のガラス瓶に水が流れ込んでくる様に、容赦なく外部の音や香りが耳から鼻から空の心に流れ込んでくる。流れ込んできたその勢いによって精神が完全に無にならない。

 外から流れ込んでくるものが止まらない。

 自分が騒がしい。

 空になれない。

 無になれない。

 涙がこぼれそうだ。

 引き金を引けない。

 負けを認めるのか。

 やはり、自分の物語はアンハッピーエンドなのか。

 何処からか、風が頬を叩いた。

 ……塩原は気づいた。

 自分は空になれない。

 それの何がいけないのか。

 内側を空にした分、外からのものが流れ込む。

 当たり前だ。それが自然だ。

 ならば、それを受け入れよう。

 空にはなれないのだ。

 私は。

 開き直った。

 気づき。

 轟然と桜の花びらの音と匂いが身体の中へと吹き荒れ、渦を巻く。

 桜と二本の角。

 受け入れた。

 外を。

 全てを。

 区別はない。

 人間は内と外の境界だ。

 境界が消える。

 自分の輪郭がなくなる。

 実体のない、中空のガラス玉。

 個と全が溶ける。

 塩原と〈メデューサ〉は一体となる。

 宇宙と一体になる。

 ……………………。

 ……………………。

 ……………………。

 ガチリ。

 その空撃ちの音を聞いてしばらくし、塩原は初めて『自分が思考していなかった事』に気がついた。

 振り返って、自分の精神が思考を完全に消していたのを悟った。

 記憶がない。

 『無』だったのだ。

 空の極致。

 曲がった人差し指。銀色の銃の引き金は空の状態だった時に、自動的に引かれていた。

 震えは消えていた。

 六回目にも銃声はなかった。

 撃鉄が薬莢の尻を叩いた。だが火薬は点火しなかった。

 不発だったのだ。

 自然に不発だったのだ。

「そんな馬鹿な!」狼狽が〈ブラックマザー〉の思わずの叫びにあった。「純然たる自然で六発目までが不発の可能性など、一億分の一もないのに! そんな、偶然の不発など!」

「解ってないかしらね」全長一〇〇メートル。桜の花びらを蹴散らし、銀色の銃だった〈メデューサ〉が鏡像反射体としての情報戦闘艦へと巨大化した。圧倒的。船外への嬉しげな声で身を震わせる。「運命の女神っていうのは、こういう馬鹿に惚れるのよ」

 運命と偶然は同じものの二通りの呼び名。

 乱数発生器があれば、果たして有意の偏差が見られただろうか。それはもう解らない。

 ただ、ここには振られた五万個超のダイスが一斉に六を出したという事実があるだけだ。

 優れた物語はエントロピーさえ支配出来る。

 塩原の汗はひいている。角の生えた男に覆いかぶさる傘の様に頭上に止まり、転回しての塩原とまなざしの角度を同じくする。

 〈メデューサ〉が本来の姿を取り戻したのは〈織姫〉の内部空間でのイニシアチブを握った証だ。

 塩原の姿の〈ヒロイック・テクスチャ〉が大きく青灰色の裾をなびかせる。それもすぐに赤いプラフレームの眼鏡にネルチェックのシャツという、彼の元の服装に戻る。銃もランタンももう持ってはいなかった。

 表層の鏡面が、那由他の更に倍の舞い散る花びらを映し出す。

 〈織姫〉内部の今ここは塩原と〈メデューサ〉の支配空間となっていた。もう〈ヒロイック・テクスチャ〉をまとう必要はない。〈織姫〉内部にありながら、今、最も呪術的な情報量が多いのは二隻のと〈ゴーゴン艦〉と〈ブラックマザー〉ではない。塩原と〈メデューサ〉。自分達こそが主人公なのだ。

 夢にまで見た英雄化。

 静止する〈ブラックマザー〉。〈エウリュアレ〉〈ステンノ〉が何も手を出せず、桜舞い散る空間の三方にとどまって、無力でしかなかったはずの人間と同型艦を見ている。

「呼ばれたな」塩原が言った。

「呼ばれたわね」〈メデューサ〉も言った。

 這う様に低空浮遊する銀の流線形体に塩原が飛び乗る。彼はたまらずに失笑した。

 銀色の触手群が底面一面から伸び、踏みしめられていた地上の如き闇に一斉に突き立ち〈呪術的距離〉を貫く無数の穴を穿った。それは薄皮を破る様に無限の厚みを突き破った。


***


「そのレーザーで私を撃って!」知性の女神、鈿女の虹美は叫ぶ。「私の右眼を! 塩原の理論を!」

 その言葉だけでアリスは自分が何をすればいいのか、理解した。

 アリス。タロットカードのⅧ〈力(パワー)。荒ぶる獣を鎮め、制御する力。

 腐敗汁の匂いの中、元特殊刑事の邪視攻撃を避けながら、精密レーザーがアリスの眼から放たれた。

 虹美の右眼めがけて。

 麻の緒を引く、木綿の薄衣。少女は自分にのしかかる触手の群を必死に押しとどめながら、右眼の白眼の部分がその精微なレーザーを受け止めた。

 レーザーの出力は刻印を残す為には最低限で、ビーム焦点も非常に極極細だ。

 虹美も白眼を焼かれながらも熱も痛みも感じない。

 ナノ単位。極極細のレーザーが猛スピードで焼きつけるものは、日本語の文章だった。

 理論。塩原の。時間の過去移動可能を前提にし、〈空間的距離〉〈時間的距離〉〈呪術的距離〉という概念を設定して、時間、空間、情報、全ての世界の量子分布確率を、開放系である『人間原理』の平行宇宙として一つに結びつけ、時間の逃れこそ人間の意識の産物だとしたもの。

 腐臭と共に蠢く、元特殊刑事から距離をとり、彼によって蹴散らされた机の列をさらに乱す。猫娘型美少女ロボ、アリスは元特殊刑事の邪視攻撃を受けながら、左眼からのレーザーの照準は外さない。

 必死だ。

 元特殊刑事によって〈グレムリン効果〉〈マーフィー効果〉が起こるが、アリスの〈経験智〉はそれに耐えきった。

 その狂気じみた理論的概念の神髄を、わずかな白い面積にびっしりと隙間なく極細の文字を焼きつけていく。

 虹美の右眼が呪術的に濃密になる。

 白眼に刻まれた文字列が光を反射させ、まるでDVDやCD等、光学的記録媒体表面の様な虹色のモアレを帯びさせる。

 アリスによる、刻印は完了した。

 右眼は〈虹眼〉。

 左眼は〈渦眼〉。

 にじめ。

 うずめ。

 虹美は見つめた。

 右眼が彩光を放つ。

 左眼が渦を巻く。

 二つの眼の視線が一つに重なる。

 虹が渦を巻く。

 鈿女である虹美によって世界が変わる。

 人間原理によって、デジタルからアナログへ整然と並ぶ時空列の無限の濃度が変わる。

 デジタルの無限から、アナログの無限へと。

 音符が音楽になる様に。

 認識が現在という一瞬だけではなく、過去と未来も同時認識する。宇宙の〈空間的距離〉〈時間的距離〉〈空間的距離〉をはみだす。不可視の〈穴〉が拡大する。〈穴〉からにじみでる無限。

 虹美の視界一杯に広がる。

 虹美の呪術的な質が高まった。

 塩原によれば、全ての過去も未来も無限種類ある平行宇宙の内の一種類に過ぎない。『現在』という瞬間の時間は実在せず、過去と未来の狭間の一瞬の主観的錯覚にすぎない。デジタルな時間が刻まれる宇宙にアナログに流れる時間は人間の脳機能、意識に大きく依存するというのだ。

 虹美の意思は〈空間的距離〉〈時間的距離〉を凌駕する。

 内と外。二つの世界の橋渡し。

「アリス!」

 体内へ息を吸い込む。

「〈虹眼〉と〈渦眼〉の力により、私は召喚する! 塩原猛志と〈メデューサ・ゴーゴン〉!」

 虹美が叫んだ。

 この宇宙を二人は支配した。

 夢幻をアリスが吸収し、この学園世界の隅から隅まで重なった。虹と渦と十字架を。

 虹美とアリスはこの学園そのものとなり、この宇宙を支配する。元特殊刑事は異物だ。

 平行宇宙の一つから〈英雄〉を召喚する。

 教室が、空間が大きく振動した。

 軋み。それはリノリウム張の床からの突き上げだった。

 失笑した塩原の大笑いが聴こえた。

 次の瞬間、教室は大きく破壊され、学校の構造材と共に机と椅子と黒板の破片が宙に舞った。

 重力から弾き飛ばされた様に虹美やアリス、元特殊刑事が無重量状態に翻弄される。

 床を突き破って出現した、三〇〇機以上の銀色のマニピュレータのまっすぐな屹立が校舎を下層から完全破壊し、塔の様に黄昏空間に生えたのだ。空間も時間も次元のフラクタルな境界を突き破り。

 今、この黄昏宇宙と桜の舞っていた宇宙の距離は、空間的にも時間的にも非常に近接している事になっていた。

 鈿女。虹美の力だ。

 銀色のマニピュレータ群は直立からしなやかな弧を描く無数の曲線に変化し、校舎の破片を、椅子を、机を、切り刻む。虹美とアリスはその運動からは紙一重で回避される。

 地下から衝角めいた銀色の船体が出現する。全長一〇〇メートル。ナガスクジラの倍も巨大な質量体が。

 サーファーの如く、その背に立った塩原が笑う。

 元特殊刑事によってもたらされた〈グレムリン効果〉〈マーフィー効果〉は、試練を克服してきた銀の巨鯨に通じない。

 高速で出現、衝突してきた〈メデューサ〉の先端で、元特殊刑事の身体がその質量による衝撃を受け止めきれずに弾けた。情報戦闘艦は彼が張り巡らせていた騙し絵の様な無限分割空間を何の問題もなく、貫く。

 腐汁と腐肉が大きく飛び散り、空間に薄く広がる。

 黄昏時の学校の風景が砕けた。

 元特殊刑事の死は、その本体である〈織姫〉に大きな呪術的ダメージを与え、悶絶させた。

 閉鎖空間が歪む。

 黄昏光の中を舞い散る桜。

 〈エウリュアレ〉。

 〈ステンノ〉。

 〈ブラックマザー〉。

 まるで秘空間に隠れていた様な三体の姿が現れた。

 〈織姫〉の黒い調和が破れる。

 〈織姫〉が乱れた。

 〈ブラックマザー〉の全身にささくれだったひびが走っている。元特殊刑事を失った同調ダメージだ。

 虹色の宇宙が戻ってくる。そしてその虹色が薄れて黒色の宇宙空間へと。

 銀色の触手群が、宙に浮かぶ、虹美、塩原、アリスをすくいとった。

 概念的に合体していた虹美とアリスは元に戻った。服装も。〈ヒロイック・テクスチャ〉が解除された。

 〈メデューサ〉の船体表面に円く、穴が開き、触手に運ばれた三人は真空の宇宙に肌を晒しながら、中へ飛び込んだ。

 内部通路に入ると、空気が吸い出されるより先に背後の進入孔が閉じた。

 コックピットに入った三人はそれぞれのシートについた。シートは速やかに皆の背を吸着する。

「脱出よ、〈メデューサ〉!」アリスの声。

 〈メデューサ〉は演算駆動を開始。メタ演算。

 サイコキネシスが船を超音速で前進させる。

 〈グレムリン効果〉〈マーフィ効果〉。エルダー・ブラックドラゴンのそれらの呪力を振り切って、銀色の宇宙船が全速力で脱出する。

 星の光と深遠さを取り戻した通常宇宙空間。黒い竜の形の〈穴〉から〈メデューサ〉は脱出した。

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